小説『夏空』
作者:水崎 綾()

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 別れの日がやって来た。



 心露くんの研究授業とやらは、いわゆる教育実習生の最終テストのようなものらしく、彼の指導係である花澤先生が担任を持つクラス、つまり私達のクラスの五時間目を使って行われた。教室の後ろには、校長先生副校長先生、学年主任に生活指導担当、他教科の先生に加えて知らない顔もいくつかあった。



 今朝昇降口で会った彼は、こんなに暑いというのに珍しくネクタイをきっちり上まで閉めていて、やけに神妙な顔をしていた。

「緊張してるんですか?」
「うん……。プレッシャーには強いタイプだと思ってたけど、慣れないことは緊張するものだね」

困ったように笑う彼は、何だかいつもより頼りないようなそうでもないような。

「だからお守り持ってきた」

ほら、とポケットから出して私に見せてくれたのは銀色の懐中時計。初めて彼に出会ったあの日に首からかけていた綺麗な時計。

「俺と弟を小学校に上がるまで育ててくれたじいちゃんの形見。優しい人だった」

ちらっちらっと揺れる時計が光を反射して眩しく光る。そうだ、良い事を思いついた。

「私からもお守り、あげます」

鞄にぶら下げていた小さなテディーベアをはずして彼の手に握らせる。

「それはこの前の週末、両親が離婚してから初めて父と出かけた時に買ってもらったものです。私から心露くんへの感謝の印。それと私があなたのお陰で父と上手く行ったように、あなたの先生になる夢も絶対に叶うっていう願掛けです」

自分で言っていて少し恥ずかしくなって俯いた頭を、大きな手が優しく撫でてくれる。

「さんきゅ」

心音が心地良い。やっぱり私はこの人の笑顔を見るのが好きだ。

「今日全部終わったら、知里ちゃんとゆっくり話したい。待っててくれる?」

思いがけない言葉に驚いて目を瞬く。

「優衣ちゃんも凜も……木島くんも呼んで?」
「いや、君だけがいい」

どうしよう、そんな、そんな言い方をされたら嫌でも期待してしまう。鼓動がうるさいくらいに跳ねる。心露くんは、心露くんは何を思ってそんな事を言うのだろう。

「はい、待ってます。絶対に」
「良かった」

いつも通りに笑みを浮かべる彼に、もう緊張の色は無かった。



 先生として私の前に立つ心露くんの姿は今日の子の授業が最後だ。教壇に立つ彼は親しみやすいやんちゃな男の人ではなくて、生徒一人一人と真剣に向き合う立派な先生だと思う。数式をノートに書き連ねながら、ああこうやっていつまでもこの教室で、この学校で、彼の声を聞いていたいと、そんな事を思っていた。今日で最後だなんて信じられなくて、信じたくなくて。

 授業を終えて教室を出ていく間際、彼がプリント類を入れて持ってきていたカゴの隅に小さな熊が腰かけているのを見つけて、少しだけ胸が弾んだ。



 一緒に帰ろうと誘ってくれた優衣ちゃんに用事があるからと先に帰ってもらい、誰もいなくなった教室で外を眺める。ここで手を伸ばしていたところを木島くんに見られて、それから凜とも仲良くなって……。たった一ヶ月の中で本当に色々な事があった。友達と出かけることも、友達と一緒に帰ることも、わいわい騒ぎながら勉強会をすることも、初めてで、楽しくて、これは全部夢だったと言われても信じられるくらいに大好きだった毎日。そこには絶対心露くんの姿もあって、そんな日々が終わるなんて考えたくない。これからも毎日彼の笑顔を見ていたい。

 時計が五時を回っても空はまだ明るい。昨日は澄んでいた青空だけど、今日は少しだけ雲が多い。太陽が照りつけるのも夏の空、湿気と雨を雲が運んでくるのも夏の空。初夏の変わりやすい天気と素直じゃ無い気温の変動は、まるで私そのもので、こんな私でも彼と出会ったことで何かが変わっただろうか。私自身何か変われたのだろうか。

「知里ちゃん」

はっと振り返る。

「ホントだ、ちゃんと待っててくれた」

嬉しそうに笑う心露くんを見つめて、うん、きっと私は変われたはず。誰かの笑顔にこんなにも心動かされることは今まで無かったのだから。

「ごめんね、今日の事で色々やらなきゃいけないことがあって遅くなった」
「待ちくたびれて帰るところでしたよ」
「間に合って良かった」

窓のそばにいる私の前までゆっくりと歩いてくる心露くん。見上げるとぽんぽんと頭を軽く叩かれた。

「研究授業、割と上手くいったと思うんだ」
「そうですか? いつも通りでしたよ」
「いや、絶対うまくいった」

ポケットからテディーベアを出して私の前にぶら下げて見せる。

「知里ちゃんのお陰。だけどこれはやっぱり君の大事なものだから返さないとね」

心露くんは優しい目で私を見つめて、

「ありがとね」

そっと人形に口付けた。

「なっ……!」

思わぬその行動に、かあっと顔が熱くなる。

「かっ、返すなら早く返して下さいよっ」

動揺を隠そうとテディーベアに手を伸ばす。ところがその腕に触れたのは人形では無く心露くんの手。優しく握られた私の手は強く引き寄せられて、ふわりと身体を包んだ大きな温もりに目を瞬く。

 気付けば私は心露くんの腕の中にいた。肩と背中にまわされた力強い腕。大好きな匂い。さっきとは比べ物にならないほど心臓が暴れ出す。どうしたらいいか分からない。何で抱きしめられているのかさえ分からない。どきどきと脈打つのは心臓だけじゃ無い。頭も身体も、私の全てが表しようのない感情に飲み込まれて、息をする事さえできない。静まり返った教室で、心露くんの息遣いだけがすぐ近くで聞こえる。

「……ずっと、ずっとこうしたかった」

囁くような甘い声に、背中がぞくりと反応する。どうしよう、立っていられなくなってしまいそう。はぁ、と苦しそうに吐き出されたため息が耳元をくすぐる。





「好きだよ」





その言葉に息を飲んだ。今、今心露くんは何て言った……?

「好きだよ知里ちゃん。今日で君と離れるなんて考えられない」

彼の口からは絶対に出ることは無いと思っていた言葉。今の私には何よりも嬉しい言葉。それはじんと心に沁みて、熱くなったまぶたの隙間から涙がこぼれ落ちた。私も、私もだよ心露くん。あなたの事が大好きで大好きで、これ以上こんな気持ちを押さえることはできないくらいに大好き。伝えたい伝えたい。それなのに言葉が出てこない。声を出すことがこんなにも難しい。だから代わりに、そろそろと彼の背中に手を伸ばした。

「本当は言わないつもりだった」

心露くんが囁く。

「でも昨日知里ちゃんのあんな表情見たら、もしかして君は、君も、俺のこと大事に思ってくれてるんじゃないかって、それしか考えられなくなって」

あの言葉の続きはこれだったのかと、そっと息をつく。

「もし君が俺と同じ気持ちなら、これから、これからも、ずっとそばにいて欲しい」

広い背中にまわした自分の手に、彼を抱きしめ返そうと力を込めようとして、



「俺は知里ちゃんが心配だよ……」



するりと両腕が彼の背中を滑って落ちた。だらんと体の横に垂らした自分の腕。その瞬間私は自分の体がすうっと冷え切っていくのが分かった。心露くんの声はもう聞こえなかった。遠くの方で何かを言っているのは分かる。けれど、私自身がもう彼の言葉は何も受け付けようとしなかった。

「……して」
「知里ちゃん?」
「離して」

驚くくらいに刺々しい声が出た。それでも心は至って冷静だった。緩んだ彼の腕からふらふらと後ずさる。

「ほら、ほらね。やっぱり」

小さく喉を鳴らして笑う。

「心露くんは私を大事に思ってるんじゃない。私が父子家庭だから、私が友達作りが苦手だから、私がどうしようもない弱者だから」

好き、なんじゃない。心配なだけ。放っておけないだけ。だからこんな風にいくらでも優しくできる。

「同情なんて要らない!」

涙が出そうになるのをこらえて叫んだ。そんなものいらない。私が欲しいのは、私が欲しいのは……!

「知里ちゃん違うよ、俺は」

何かを言いかけた彼の表情に、苦しそうで辛そうな彼の表情に、まるで裏切られたのは俺の方だとでも言いたげな表情に、押さえていた涙がこぼれた。

「違くない! 心露くんは、心露くんはこんな可哀相な私に同情してるだけ! 拾ってきた捨て犬の面倒を見てるうちに情が移るようなものだよ! だから違う! やめて、そんなのいらない。もう嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ!」
「知里ちゃん」

泣きじゃくる私をなだめようとしてか、彼の手が伸びてくる。その仕草すらも悔しい。

「触らないで! 心露くんなんかには触られたくも無い!」

違う、勢いで言ってしまったけれど最後のは余計だった。そんなことは思っていない、ただ今は嫌だった、それだけなのに私の口は止まらない。

「そんな風に言われたって騙されない! 私は、私は心露くんのことなんて大っ嫌い! もうやめてよ、今日が終わればもう会わないで済むんだから、もうやめて! これ以上はもうやめて!」

違う、こんな事が言いたいんじゃない。私が言いたいのは、

「……もう、顔も見たくないくらい、俺のことが嫌い?」
「大嫌い」
「そっ……か」

一度俯いて、そして顔を上げた彼の表情は、いつも通りの笑顔だった。

「ごめんね、君を傷付けるようなこと言って。もう、会わないで済むから、だから……」

何かを言いかけて、それを飲み込み塗り潰すようにもう一度笑みを深めて、ゆっくりとこちらへ歩いて来た。





「さようなら」





手の平にテディーベアが置かれると同時に、額に熱くて柔らかい感触。はっと顔を上げた時にはもう彼は背を向けていた。足音も立てずにゆっくりと遠ざかる背中。引き戸が閉まり、教室から一切の音が消えてから、私は初めて事の重大さに気が付いた。

「つっ……」

さっきとは違う種類の涙が頬を転がる。嬉し涙でも悔し涙でも無い。ただひたすらに悲しくて、とにかく苦しくて、胸が詰まって泣き声さえ出ない。喉の奥が締め付けられるように痛くて、胸はきりきりと痛む。息ができない。何もできない。苦しい苦しい、苦しくて仕方がない。額に残る優しい口付けの余韻が余計に私を苦しめた。

 大嫌いなんて、そんなこと言うつもり無かったのに。私が言いたかったのは、私が言いたかったのは……!

「ごめ……なさ、ごめ……っ」

同情でも良かった。可哀相だからという理由でも良かった。ただ、いつか彼の心も気持ちも全部下さいと、ただそう伝えたかっただけなのに。

 最後に見た心露くんの笑顔。それはどこもいつも通りじゃ無かった。まるで自分を責めるみたいに、苦しそうに笑っていた。心露くんにあんな顔をさせたのは私だ。だから追いかける資格さえ無い。

 座り込んでスカートの裾を握りしめた手にぽたぽたと涙が落ちる。大好きなのに、大好きで大好きで、好きだよって言われた時は涙が出る程嬉しかったのに。それなのに、それなのに私は彼を裏切った。どうしようもない嘘吐きで彼を傷付けた。もう会えない、もう二度と会えない。静まり返った教室がその事実を鮮明に私に突きつけて、千切れそうな身体を、心を切り刻んだ。

 痛い、痛いよ。痛くて痛くて、嫌だよこんなの耐えられない。

「……っ、っく、……うぅ」

心露くん心露くん、もうあなたの笑顔が見られない。朝会う度に笑いかけてくれる日常はもう無い。辛いよ苦しいよ、もう嫌だよこんなの。あれだけ素直にならなきゃって、彼と話して変わろうって思ったのに、結局私は何も変わってなんかいなかった。

 降りだした初夏の雨はぬるい風と湿気を運んでくる。痛む私の心を冷やしてくれることも無ければ、震える私の身体を温めてもくれない。ただひたすら降り続くそれは、まるで止まらない私の涙とよく似ていた。



 中学二年生の雨空の下、こうして私の『ひとなつ』は終わりを告げた。たった一つ、大事にしたい想いにさえ、素直になることもできずに――




(第一部 嘘吐き少女)

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