小説『夏空』
作者:水崎 綾()

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 今日の数学の授業。氷見山先生はまだ授業を担当しない(できない?)様で、花澤先生がいつもの通り分かりやすく進めていた。ふと振り返ると教室の一番後ろで、真剣にノートを取る氷見山先生。……そうか、あんなでも先生だから。初めて見る真面目な彼は、何故だか私には別人に見えて、思わず考え事。そのせいでその日の演習では、かなり問題を間違えた。
「……むかつく」
 鞄に教科書を詰め込みながら、小さく呟く。朝から氷見山先生に振り回されっぱなしだ。あの人のせいで私がイライラしたり、考え事したり、安心したり、驚いたり。他人に干渉される事がこんなにも疲れる事だとは思わなかった。あぁ何だかまたイライラしてきた。面倒くさいのに絡まれる前に帰ろうと鞄を肩にかけて教室を出た。
「ちーちゃんっ!」
廊下を歩きだした時後ろから飛んできたのは優衣ちゃんの声。
「ちーちゃんちーちゃん、急いでる?」
息を切らせて私の所に走って来ると、にこにこしながらそう言っている。
「別に急ぐ訳でも無いけど……」
「良かった! なら一緒に帰ろ! あたし日直だから日誌書かなきゃなんだけど、待っててくれるかな?」
「一緒に、帰る? 優衣ちゃんと、私が?」
「そーそー。え、駄目?」
嬉しそうだった顔が不安げに曇る。悲しませただろうか? 慌てて首を振って、駄目ではない事を伝えた。
「駄目じゃ、ないよ。ただ……」
「どうしたの? いいよ、何でも言って?」
笑顔に戻る優衣ちゃん。ああ良かった。ほっと胸を撫で下ろす。何でも言って、と。そう言ってくれるなら、疑問に思った事を聞いてみようと。私は口を開いた。
「私、誰かと一緒に帰った事、無いから。確かに皆群れて帰ってるけど、あれはどうしてなのかなって、そう、思って……」
「どうして一緒に帰るか、かぁ……。うう〜ん。喋りたいから、かなぁ? あ、いや一人だと寂しいから、かな? むぅ、何か違う気がする……」
ぶつぶつと呟きながら、すっかり考え込んでしまった。どれも傍から見ている私としては的を射ている様に思うのだが、彼女の中では納得する答えでは無いらしい。うあう〜と頭を抱えていた優衣ちゃんだったが、突然ぴょこん! と飛び上がった。
「友達だから、だ! そーだよ! それだそれだ〜!」
わっしょい! と威勢の良い掛け声をかけて、一人で納得したふわふわ少女は日誌片手に教室に戻る。……私的にはあまり理解できたとは言い難いが、優衣ちゃんが笑顔ならそれでいいかな、と。そんな事を思って、日誌を書く彼女の隣に座って仕事が終わるのを待つことにした。

 優衣ちゃんと別れて、誰もいない家に帰宅する。家と言っても小さなアパートの一室。父の仕事の都合で引っ越した。ここにはもう昔の思い出は無い。けれどまぁ、私の心には残っているから、大丈夫。きっと、大丈夫。ただいまと声をかけても返事は無い事なんて知っている。何年も前からの私の『平凡』。寂しさを感じる事はもう無いし、帰る度に玄関で泣き崩れる事ももう無い。リビングのテーブルに置いていた携帯がブルブルと振動していた。大方携帯会社からのインフォメーションメールだろう。チェックは後回しにして制服からTシャツとショーパンに着替え、自室に敷きっぱなしの布団に倒れ込んだ。窓の外に広がる青空をぼんやり見つめながら、考え事。
 私の周りの人達は、これと言った分かりやすい理由も無しに群れたりする。喋りたいから? 寂しいから? 楽しいから? 人を近くに感じていたいから? ゆっくりと色付き始めた私の世界は、まだ新しくてぎこちなくて。分からない事が多過ぎるけれど、これから全てを知ってけたらいいな、なんて。そんな事を思ってみても良いのかな。私にその資格はあるのかな。失くした関係を、捨ててきた関係を、これから全部修復して、そしてそれが『平凡』になる様に頑張るから、頑張っているから、だからいつか、いつか……
――頑張ってるんだな、水谷知里(・ ・ ・ ・)ちゃん――
「!」
がばっと布団から起き上がる。見抜いてた。見抜かれていた。またあの人だ。どうして? どうして私よりも先に本当の私に気付く? あの笑顔で、人懐っこそうなあの笑顔で人を油断させて、そして心にするりと入りこむ。心の全てを見抜いて、すぐ傍で「君はこうだろう?」と笑うんだ。人の事は散々見抜く癖に、自分は自分自身を匂わせないあの読めない笑顔で――。
「ただいま」
ガチャンと玄関のドアが閉まる音。少し息を切らせた様な「ただいま」は、長らく忘れていた父の声だった。
「おっ、おかえりなさい!」
廊下に飛び出して声を張り上げた。帰りが早いとか、そんな事は後から思った。今はただ、言いたかった。何年も何年も言えなかった、言わなかった「おかえりなさい」を。廊下の先、玄関で革靴を脱いでいた父は、その驚きの表情を、懐かしい優しげな笑顔に変えて、
「帰ってたんだね」
と、私に言った。
「……うん」
打って変わって小さな声。俯いてしまった私の横を通り過ぎて、父は書斎へと消えてゆく。何か、何か言わなきゃ。そう思うのに体は動かない。声も出ない。そうこうしている内に背広から部屋着に着替えて出てきた父は、手を洗ってリビングへ。思わず追いかけると、父はテーブルの所に座って私を見ていた。
「父さんに、話があるんだよね」
「! ……う、うん」
メールに、気付いていてくれた。
「知里がそう言ってくれたから、早い方が良いかなと思って帰って来たんだ。本当は休みを取れれば良かったんだけど、今日は午前中会議があったから」
「うん」
「会社を出る時にメールを入れたんだけど、気付かなかったか」
あれはインフォメーションじゃ無かったんだ。すまなそうに頭を掻く父は、昔より随分とやつれて、疲れてる様だった。私はそんな父を生活から排除する様に生きてきたんだ。申し訳無い思いが胸を満たし、喉の奥が痛くなった。でも駄目だ。泣いたら駄目だ。言いたい事をしっかり言わなきゃ。
「お父さん」
「うん?」
「あの、あのね」
「うん」
「ごめんなさい……」
テーブルに顔が付く位深く、頭を下げた。まずは謝らなくちゃいけない。今まで私がしてきた酷い事の全てを。
「どうして父さんに謝ろうと思ったんだ?」
変わらず優しい父の声。やっぱり父は『父』で、それ故私の話をしっかり聞いてくれる。その確信を持てる声だった。
「私は、お母さんが出て行ってから、自分の事も、周りの事も、全部全部嫌いになって、それでお父さんに酷い態度を取った。事故の時にはお見舞いに行かなかったし、悪態ついたし、無視したし、家族の昔の思い出全部消そうとした。お父さんが一生懸命伝えようとしてくれた事も、耳塞いで聞かなかった。だから、ごめんなさい」
「知里」
顔を上げた。父が、何かを伝えようとしてくれている。
「父さんと知里は、家族だ。だからね、父さんは知里が謝ってくれればどんな事でも許すよ。もちろん犯罪以外だけどね。それにそんな昔の事、もう父さんは何とも思ってないんだ。それでも知里は謝ってくれた。だから父さんもこの事にはしっかりけじめをつけるよ。全部許す。謝ってくれて、ありがとう」
変わらなかった。父は昔と何も変わっていなかった。優しくて優しくて、ただの腑抜けと思われる位に優しい。悲しみも、憎しみも、全て私から遠ざけようとしてくれていた優しさは、健在だった。そう、父は最初から何も悪くなかった。変わらなくて良かった。変わらなくてはいけないのは、むしろ私の方だったのだ。だから、その決意も、伝える。
「ありがとう、お父さん。それからね」
「うん?」
「私、変わろうと思う」
一つ、深呼吸。
「今まで私は、お父さんとの関係も、周りの人との繋がりも、昔の幸せな思い出も、全部切って捨ててきた。でもね、それじゃ駄目だって分かったの。だから、お父さんとは親子としてやり直したい。ちゃんと信頼関係を築いていきたい。友達も作る。皆と友達になって、新しい関係を築きたい。お母さんとの思い出も、大事にするから。忘れないから。だから、だから……っ」
言葉が続かなかった。もうこれ以上堪えるのは無理だった。あと一言でも喋ったら涙がこぼれる。唇を噛んで、俯いた。
「知里がそう言ってくれるのをね、父さんはずっと待ってたんだ」
ぽろりと、一粒。
「そうだね、これから頑張っていこうね。……知里、学校は、楽しい?」
無言で頷く。何度も頷く。
「友達は、できた?」
頷く。
「それは良かった。知里なら、頑張れる。父さんも、頑張る。親子だから、一緒に頑張っていけば良いんだ。ね、知里」
涙でぐしゃぐしゃになった顔で頷いて、頷いて。子供の様に泣き続ける私の頭を、父はゆっくりと撫でていた。ずっとずっと、撫でてくれていた……。

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