小説『夏空』
作者:水崎 綾()

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 昨日は泣き過ぎたなぁ、と。学校への道を歩きながら、もう一度手鏡を出して目元を映す。目を赤くぷっくりと晴らしたもう一人の私が、それでも何処か晴れ晴れした顔つきでこちらを見つめていた。少し前まで朝洗面所の鏡に映っていた私とは大違いだ。私は、変われているのかな。手鏡の中の青空には、大きな白い雲がぽっかりと浮かんで私を見下ろしていた。
 そして案の定、学校の廊下でつかまった。
「どしたの知里ちゃん、その目」
「……おはようございます氷見山先生」
さっきまではあんなに心が穏やかだったのに、この人のせいで台無しだ。
「あ、お父さんと話せたんだ。それは良かった。お父さん、何て?」
「先生には関係無い事です」
「冷たいなぁ。確かに今は夏だからいいかもしれないけどね、人間的に冷たいと先生は心が痛みます」
「痛いなら保健室へ行って冷やしてもらって下さい。それではあと少しでホームルームが始まるので」
「ねぇ、俺本気で泣くよ? 泣いちゃうよ? てかホームルームまで四十分近くあるんだけど。知里ちゃんの『少し』っておかしくね?」
「……鬱陶しい」
「聞こえて無いと思ってる? ねぇ、泣くよ?」
何なんだこの大きな子供は。自信がある。私は絶対この人より大人だ。もうデコピンの一発でもかましてやりたくなってきた。
「昨日の事を話せば解放してもらえますか」
「何『解放』って。俺そんなに鬱陶しい?」
「鬱陶しいです」
「ううーん。俺なりに知里ちゃんを大事に思うからなんだけどなぁ」
「……だ、大事に!?」
あまりに自然に彼がそう言ったから、その発言の問題に気付くのが遅れた上に、リアクションが大きくなってしまった。声も裏返ったし。でも、『大事に思う』っていうのは勿論『そういう事』、なのだろうか?
「あれ、そんなに驚く? 先生として生徒の事を大事に思うのは当たり前でしょーが」
「あ……先生として、か……」
一気に体の力が抜ける。そうだよ。確かにそうだ。全く私は何を考えてるんだ。ふうとため息をついた時、氷見山先生がまた、あの人懐っこい笑みを浮かべて、
「知里ちゃんもしかして、勘違いしちゃった?」
からかう様な口調でそう言われた。
「っ!!」
またそうやって、そうやって見抜く!
「大丈夫だよー。先生と生徒で恋愛とか有り得ないからー。って、知里ちゃん?」
「せ、先生が、まぎらわしい言い方、する、から……っ」
鏡を見なくても自分で分かる。顔が熱い。今の私はきっと、耳まで真っ赤だ。自分が勘違いしてしまった事が恥ずかしくて、それを見抜かれた事も恥ずかしくて、スカートの裾を握って、顔も上げられない。こんなの、嫌だ。
「あ、いや……うん。わ、悪かった」
「……反省、して下さい」
「します」
「じゃあ、わ、私は……これで」
氷見山先生の方を一度も向かずに走り出す。もう頭の中はぐるぐるだった。お父さんとの事、少し話そうと思ったけど。でもやっぱりあの人との正常な会話は無理だ。無理無理。ああやって人をからかって楽しんでる。混乱し過ぎた私は、廊下の先まで走ってしまってから慌てて一組に戻った。だからそんな私が、あの後に彼がため息と共に呟いた言葉なんて、知る由も無い。
「いつもみたいに怒鳴られるかと、思ったんだけど……」

 昼休みは優衣ちゃんとお弁当を食べる。どっちかが、一緒に食べよう、と言わなくても、昼休みになると机を向き合わせて食べ始める。だんだんと、『当たり前』になっていく。素直にそれが、嬉しかった。
「優衣ちゃん、」
「ん〜?」
「ありがとう」
「ふぇ!?」
ぐむっとメロンパンを喉に詰まらせてじたばた悶える優衣ちゃん。な、何かおかしい事を言っただろうか。そんなに驚く事を言っただろうか。とりあえず背中をさすってあげると、大事には至らず、すぐに復活してくれた。
「私、何か変な事言ったかな」
「ち、違う違う! 驚いただけ! びっくりして、そんで、嬉しかった!」
にこにこ笑ってそう言う優衣ちゃん。
「ちーちゃんに、ありがとうって言ってもらえて、嬉しかった! あたしからもね、ちーちゃんに、ありがとうっ! あ、友達になってくれてって意味のありがとうね」
「私も、同じ。優衣ちゃんが、大好き」
「わはー、告られちった! えーい、あたしもちーちゃんらぶっ!」
「ふふっ」
「あははー」
何の違和感も無く笑い合える。こうやって自然に笑顔になれるのは何年ぶり……。
「えらく楽しそうだねー」
「あー氷見山くん!」
……違った。何年ぶりでは無かった。この間氷見山先生にお礼を言った時も、何だか笑顔になってたんだった。
「あれ、仏頂面。さっきまで楽しそうだったのに」
「はあ……」
「ねえ速水ちゃん、俺何でこんなに嫌われてると思う?」
「ちーちゃんツンデレだから……」
つんでれ? 何だそれは。新たな流行語か?
「ツンデレ? デレてねーけど」
「ふっふっふー。あたしにはデレるんですよぉ、これが」
「え、どゆこと?」
「あ、ガールズラブじゃないですよぅ。あたしがちーちゃんのお友達だからなのですのだ〜!」
優衣ちゃん、最後の何語!? というか、さっきから話が全く読めない。私もまだまだ知識不足という事なのだろう。
「へー仲いいんだね」
「はい! えへへ〜」
ぷくぷくの頬を桃色に染めて、優衣ちゃんは嬉しそうな顔をする。優衣ちゃんも、私と友達になれて嬉しいと思ってくれているのだろうか? そうだと、いいな。私は、優衣ちゃんと友達になれて、本当に嬉しいから。私は変われていると、自身が持てるから。だから、優衣ちゃんには嫌な思いをして欲しくない。私と一緒に居る事を、不快だと思って欲しくない。重いだろうか? 私のこの気持ちは、重いだろうか?
「また難しい事考えてる」
「え」
「嫌いだったら、あんな笑顔で返事しないだろ」
「……」
また、読めない。読めないのに読まれる。この人は、何でこんなに……。
「!」
チカッと頭の中で何かが光った。そうだ……! ガタンと椅子から立ち上がり、氷見山先生のネクタイを掴んで顔を寄せる。身長差の為、下から見上げるようになるが、それでも彼の目を、真っすぐに見つめた。氷見山先生は驚いた様にまばたきを繰り返す。焦げ茶色の瞳が、ガラスの向こうから私を捉えていた。……やっぱり、やっぱりそうだ。
「やっぱり読めない、見えないんだ……」
この前彼の笑顔に感じた違和感。それは、
「氷見山先生からは、本当の感情も、本当の心も、感じない」
その人は優しくて、他人思いで、心の全てを――嫌な感情や悩みさえも――すくい取ってくれて、透明で温かい。なのに、それなのに、自分の心には頑丈な扉を持っている。読めない、感じない。見抜けない、分からない。自分の全てを、閉じ込めている様で、そうじゃない。何かおかしい。

「もしかして先生は、『自分を殺したの』?」

考える前に口からこぼれ落ちた言葉に、氷見山先生の表情が崩れた。今までの柔らかで当たり障りの無い表情達から一変、何かに怯える様な、泣きだしそうな、そんな、顔。その表情に、何だか胸がきゅっと痛んで、突き放す様に先生から離れた。
「……ごめんなさい」
よく分からないけど、そう言わなくちゃいけない気がして謝った。
「どーしたの知里ちゃん、今日は何か変だよね。良い事でもあった? それとも悪い事?」
いつもとなんら変わらない、明るい声。優しい声。顔を上げたら、そこにはいつも通りの人懐っこい氷見山先生が居た。さっきの顔は、何だったの? どうしてあんな顔をしたの? すぐに自分を隠してる。分からない、先生の事が分からないよ。
「ちーちゃんたまに不思議ちゃんだよねぇ」
私よりよっぽど不思議ちゃんであろう優衣ちゃんがふむふむと頷く。何に納得してるんだろう。
「ま、そんな所が可愛げあるよね。いつもの毒舌だけだったら俺の心はズタボロだ」
「ふふ、ちーちゃんのデレはあたしだけのものですから〜。先生にはあげませんよ〜」
「大丈夫だよ、俺は手に入れられないから」
優衣ちゃんは気付いて無かった。今の先生の言葉が意味深だった事に。人懐っこく笑って、教室を出て行ったその背中を慌てて追いかけた。
「氷見山先生!」
廊下の先で彼は振り返る。
「どういう、意味ですか。最後の」
「そのままの意味。知里ちゃんは俺に心なんて開いてくれない」
理解できない笑みを浮かべて、
「だって知里ちゃんは、本音をはっきり言わない人が、この世で一番嫌いだろ?」
また、心の奥を見抜いたんだ。

   *

 「何で優衣、あんなのと友達やってんだろ。
「あいつ明らかウチらの事見下してたじゃん。
「見下されてんの分かって友達やるとかマジ意味不。
「アタシらにこんだけいじめられても、あれと友達のままで居たいとか言ってたよね……馬鹿みたい――

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