【第8章】
【第六話 帰路】
グラッセルからの出発は、明朝だった。
まだ辺りは薄暗く、開いている店もなかった。商人たちがやっと起き出し、あくび混じりに店支度をする、そんな頃。閑散とした広場には子供たちの姿は無い。日中人々でごったがえす噴水周辺の憩いのベンチにも、今では野良猫が一匹丸まっているだけだった。
敷き詰められた石畳の広場を、二人の人影が横切っていく。一人は旅支度を済ませ、そして一人は身軽なままであった。見送られる者と、見送る者だ。
昨夜、フリッツはルーウィンに、自分が旅を終える旨を伝えた。彼女は、フリッツが居なくなって寂しくなると悲しみもせず、足手まといがいなくなってせいせいすると喜びもしなかった。ただ、「そう」とだけ答え、フリッツの意見を受け入れた。
ルーウィンは全てお見通しだったのかもしれないと、フリッツは思った。このまま旅を続けても、何にもならない。目的もなく彷徨っていては、ただ自分の身を危険に晒す機会が増えるだけに過ぎない。冷静に考えて、フリッツの下したこの判断は、正しいと言えるものだ。
しかし、なぜだろう。正しい選択をしているはずなのに、フリッツのこころは苦しかった。正しさだけでは割り切れないものが、たくさんあった。
二人は、とうとうグラッセルの都の入り口までやってきた。ここでルーウィンとは、お別れだ。
フリッツは視線を落とした。
今生の別れになる。戻ればきっと、もう二度と旅はしない。
しかし、とてもルーウィンの顔など見られなかった。フリッツは歯切れ悪く、言葉を口にした。
「あの、……ラクトスや、ティアラには」
「あたしから言っとく。あいつらは、ずいぶん寂しがるだろうけど」
そうしてもらうより他ないだろう。フリッツは黙って頷いた。
ラクトスとティアラ。二人にも世話になった。自分の口で直接別れを言えないのが歯痒かったが、同時にほっとしていた。ルーウィン一人にでも切り出すのが大変だったのに、二人にも同じことを言わなければならないのは、とてつもない苦行のように思えた。
相手がルーウィンであったことは、不幸中の幸いであったかもしれないと、フリッツは思った。
ルーウィンはフリッツのことをよく知っているし、同時にフリッツの行き届かない部分も知っている。フリッツが旅をやめると言えば、あっさりと手放してくれると思った。
なにより、彼女はさっぱりしている。別れを切り出したところで、涙を浮かべたり、必死になって追いすがったりはしない。こういうことに関しては物分りが良く、大人の対応をしてくれるだろうと思っていた。そしてその予想通りだった。
少し寂しくもあったが、今のフリッツにとって、ルーウィンのこの対応はありがたいものだった。
後ろ髪を引かれるようなことをしない。かといって、背中を押したりもしない。
フリッツが一番欲しかったもの。それは、そっとしておいてくれる環境だった。
「ごめんね」
不意にフリッツは呟いた。
フリッツのことをさんざん弱い、甘いと言いながら、それでもルーウィンは他の剣士を探そうとはしなかった。なんだかんだ言いながらも、彼女はここまで、フリッツをパーティの一員として受け入れてくれていた。
フリッツは今更になって、その優しさが身に染みてきた。ルーウィンはこんな自分と、今まで一緒に旅してくれたのだ。そして今も、自分のわがままを通してくれようとしている。
ルーウィンは歯を見せて笑った。あんたが抜けても、痛くも痒くもないよ、というように。
「大丈夫、きっとあんたより使い勝手のいい剣士なんてすぐ見つかるからさ」
「うん」
フリッツはそうであればいいと、心から願った。
どうかぼくよりもずっと強くて、頼りがいのある剣士を見つけて欲しい。そうすれば臆病でみっともないフリッツのことなんか、みんなすぐに忘れてくれる。フリッツが旅から抜けた穴も開かず、脱落した罪悪感に悩まされなくて済む。
ルーウィンたちを思ってのことではない。すべて自分のためなのだ。
「ほら、ミチルたちを待たせてるんでしょ。早く行きなさい」
向こうにはパタ坊の背に乗ったチルルとミチルが、こちらを向いて様子を伺っている。パタ坊は厩に預けてあったのを、ミチルとチルルが先に取りに行って、出発の準備を整えてくれていた。パタ坊の背に、余分な積荷はない。フリッツのために空けてあるのだ。
行かなければ。
「じゃあ、気をつけてね」
フリッツは言った。またね、とはとても言えなかった。
「うん、あんたもね」
ルーウィンは答えた。
あっさりとした別れだった。相手がルーウィンだったからなのだろう。
色々あった。罵られ、怒られ。さっぱりとした合理的な考え方で、きっぱりとした物言いで、それゆえに傷つけられることも多々あった。けれども彼女は悪人ではなく、フリッツを少しずつ認めはじめてくれていた。もっと仲良くなれると、もっと互いを理解できると、そう思っていた。それがこんな結果になるとは、思ってもみなかった。
遠くの山並みの向こうでは陽が目を覚ましたようで、空は白もうとしていた。紺や藍のグラデーションが、だんだんとその色づきを薄くしていく。ほっそりとした、ガラスのような白い三日月が西の空に沈み行く。すこし、肌寒い。
フリッツは、パタ坊に駆け寄り、その背に乗った。ミチルが鐙を軽く蹴ると、パタ坊は一声鳴いて、駆け出した。フリッツは振り返らなかった。パタ坊に乗るのは初めてで、振り落とされないようずっと気を張って前を向いていた。
ルーウィンは、街道に彼らの姿が見なくなるまで、ずっとその場に留まっていた。
【第8章】
【第六話 帰路】
グラッセルからガーナッシュまで、パタ坊の足で十日ほどかかった。ミチルがグラッセルで商品をさばき、また仕入れするところだったのを、頼んで商品の代わりに乗せてもらったのだ。
フリッツたちが半年以上かけて徐々に北上してきたことを考えると、あっという間だった。ミチルたちがこのパタ坊であちこち移動しているからこそ、旅の途中でもよく居合わせたのだろう。
パタ坊の背中は、ミチルとチルルとフリッツの三人が乗ってぎりぎりだったが、それでもパタ坊はどの馬よりも早かった。ますます馬であるかどうかが疑わしい。
しかしそんなパタ坊も、今では疲れた身体を休め、ゆっくりとなにかの肉をつついている。
すでに陽は高く上っていた。
「ここまで送ってくれてありがとう。これ、約束の」
フリッツは背中の真剣を差し出した。師匠から好きにしていいと言われていたので、特にこだわりはなかった。結局欠けた装飾は直せないままだったが。
しかしミチルは意外にも、首を横に振った。
「いいんです。お代は次で。出世払いでお願いします」
ミチルの言葉に、フリッツは眉を八の字に下げた。
「次って、ぼくらもう会わないかもしれないんだよ」
「フリッツさんとはまたお会いする機会がある、そんな気がします。女のカンです」
そう言われてフリッツはぎょっとする。ミチルは笑った。
「と、チルルが言っています」
チルルがミチルの後ろで頬を膨らませ、小さく抗議していた。自分をネタに笑われたのが悔しいらしい。フリッツは小さく笑った。
「チルルもありがとう。ずっと後ろに乗せてもらって、悪かったね。パタ坊も。重い目に遭わせてごめんね。たくさん走ってくれてありがとう」
フリッツはパタ坊の頭を撫でてみようと思った。しかし相変わらず熱心に何かの肉をつついているので、フリッツは伸ばした手を引っ込めた。
「じゃあ、ぼくもう行くね。ここまで本当にありがとう。さよなら」
フリッツは自分の荷物を背負うと、ガーナッシュの門を出た。
「では、いってらっしゃい。お気をつけて」
ミチルは別れの言葉は口にせず、まるでフリッツを新たに送り出すように手を振った。チルルも同様に、黙ったまま手を振っている。フリッツは思わず気が抜けてしまったが、悲しくならなくて済んだので安堵もしていた。
「なんだかなあ」
フリッツはため息をつき、そして空を仰いだ。
空は高く、綿菓子のような白い雲がまばらになって浮かんでいる。晴れた、日差しの暖かな穏やかな日和だった。
自分は、ここまで帰ってきたのだ。
行く時はフランからガーナッシュなど途方もない距離のように思えたが、今のフリッツにはフランまでは目と鼻の先にあるように感じられた。実家のあるカヌレ村ではなく、マルクスの待つフラン村へ帰るのだ。
一人の、旅路。
久しぶりではなく、それは初めてのことだった。
ミチルと分かれて、フリッツはちょうどフランの方へ向かう馬車を見つけた。フリッツはポケットの硬貨の残りを確認する。なんとか乗れそうだった。
御者がフリッツの方を見て声を掛ける。
「お兄さん、乗るの? 乗らないの?」
「あ、乗ります!」
今のフリッツは少しでも早くフランに帰りたかったし、一人で道を行くのは辛いように思われた。
馬車といっても、金持ちの乗るような豪華なものではなく、物資の運搬に使われるような幌馬車だ。馬車にはすでに客が乗り込んでおり、フリッツが最後の一人だった。
薄っぺらい幌をかけた荷馬車には、物売りの老婆と、五つほどの男の子とその母親らしき女性、あとは万が一のときのために備えて槍を持った痩せた男が一人いた。男はギルドで荷馬車の主人に雇われた見張りのようだった。
フリッツが荷馬車に乗り込むと、御者は掛け声を上げて馬にムチを打った。ゆっくりと馬車は動き出した。
「お兄ちゃん一人かい? その様子だと里帰りだね。それにしちゃあ浮かない顔してるけど」
向かいに座った物売りの老婆が話しかけてきた。フリッツはぼうっとしていたので話しかけられたことに最初驚いたが、すぐに微笑んで答えた。
「そうなんです。久しぶりで、なんだか少し緊張してしまって」
「ははあ、この前行き会った若い冒険者の子も同じことを言っておったなあ。そういうもんなのかね。ほれ、これでも食べて元気だしな」
物売りは大事そうに抱えていた大きな壷から、何かを取り出してフリッツに差し出した。
「干しアンズのハチミツ漬けだよ。甘くて、ほっぺがゆるむ。それ、あんたにもやろうかね」
老婆は隣に座っていた少年にもそれをやった。母親らしき女性が「どうもすいません、良かったねえ」と言って微笑んだ。フリッツは礼を言ってアンズを口に運んだ。ハチミツの甘さとアンズの酸味が口いっぱいに広がった。少年も嬉しそうにアンズを頬張った。
「ねえねえ。おにいちゃんのそれって、もしかして剣?」
「ああ、これ。そうだよ」
「大きいねえ。見せて見せて」
「ごめんね、これはだめなんだ。壊れていて、触ると危ないから」
突然、馬がいなないた。
同時に馬車が大きく揺れて急停止する。老婆は勢いに耐えられず転がり、母親は男の子を反射的にかばって頭から抱きかかえた。フリッツはなんとかふんばり、無様に転げ落ちるようなことはなかった。
「なにが起こったんだ?」
フリッツが外の様子を確かめようと幌に手を伸ばすよりも早く、外から剣が突きつけられた。間一髪で避けたが、あと少しで頬が切れるところだった。
「盗賊!」
フリッツは瞬時に察した。主人と、見張りをしていた男はすでに捕まってしまっている。
「おうともさ! さあ兄ちゃん、外へ出な! あんたらもだ、大人しく従ったほうが身のためだぜ」
歯の抜けた男の顔がにゅっと伸びてきた。フリッツは顔を歪める。ここまで来てこんなことが起こるとは予想していなかった。グラッセルで会った元首領の盗賊団は解散しているので、おそらくまた別の盗賊団だろう。この辺りに、ここまで盗賊が蔓延っているとは。
盗賊は幌の中の獲物が少ないことを知るとがっかりしたように舌打ちをしたが、フリッツの真剣を見て態度を変えた。
「おう、兄ちゃん。いい骨董品持ってんじゃねえか」
盗賊はフリッツの背の真剣に手をかけた。フリッツは表情に嫌悪感をあらわにした。それが気に食わなかったらしく、盗賊はフリッツから剣を奪うと力任せに腹を殴り飛ばした。
フリッツは軽々と荷馬車の角に吹き飛ばされた。物売りが息を飲み、母親が小さく悲鳴をあげる。盗賊は仲間を呼んで、じっと真剣に見入った。
「ほお、こりゃ技もんだぜ。こんなに錆びてちゃ話になんねえが、研げば良くなる。こいつは棚ボタだな」
言って仲間とげらげらと笑った。フリッツは気を失ってはいなかったが、吹き飛ばされたそのままの格好でぐったりと身を横たえていた。馬車が大きく揺れた。盗賊が一人乗り込んできたのだ。
「なんだ、大人しく盗られちまうのか? 腰抜けめ。逆らえばただじゃ済まないから、その方が賢いってもんだがな」
盗賊はフリッツを無理やり立たせて荷馬車の外に突き飛ばした。
「はいはい、押すな押すな。順番に出してやっから」
そう言って盗賊たちは下卑た笑いを浮かべた。
「おい、ばばぁ。その壷は何だ。こっちに寄越しな」
「嫌だね! これはあたしが三年かけてこしらえた売り物だよ! だれがあんたらみたいな下衆に渡すもんか!」
「わかってねえなあ。誰に向かって物を言ってるんだ、あぁ?」
盗賊は老婆を荷台から外へと突き飛ばした。老婆はなんの抵抗もなく外へと転がった。
「おばあさん!」
自分の隣に振ってきた老婆を見て、正気に戻ったようにフリッツは叫んだ。
「そんなに惜しけりゃくれてやるよ。ほらババア、たらふく食いな!」
盗賊は一抱えもある大きな壷を老婆の上に落とそうとしていた。その腰には、先ほどフリッツから奪った真剣が下がっている。老婆は小さく悲鳴を上げた。こんなに重たいものが細い身体に振り下ろされれば、ひとたまりもない。
フリッツは動いた。
壷を振り上げている男の腰から、真剣を奪い返す。そして、抜く。そして、斬る。
一瞬の出来事だった。
盗賊は腹から血を流してうずくまり、壷は地面に転がった。フリッツは容赦なく、うずくまっている盗賊の肩に突き刺す。盗賊は大きな悲鳴を上げた。
その悲鳴で振り返った別の盗賊を斬り、それに応戦しようとしたもう一人を刺した。相手の胸に足を置いて、蹴るように強く剣を引き抜くと盗賊は倒れた。
最後に首領核の男がまだ後ろを向いているうちに一閃を浴びせる。背中を深く切られた男はうめきながら無様に地面に転がった。
あっという間だった。
老婆はなにが起こったのか理解できず、口を開けてぽかんとした。捕まっていた御者も護衛も、あっけにとられてその様子を見ていた。フリッツは地面に転がった壷を見た。半分以上中身がこぼれてしまっている。
「……おばあさん、ごめんね」
フリッツは呟いた。
「あの、ありがとうね」
恐る恐る母親がフリッツに礼を言った。男の子はフリッツを見ると、びくっと怯えて母親の後ろに隠れてしまった。
フリッツの顔には、血がついていた。フリッツはそれを手の甲でぬぐうと、よろよろとした足取りでその場を立ち去った。
許せないと思った。煩わしいと思った。
怒りに身を任せ反射的に真剣に手を伸ばし、また斬った。
つい先日後悔したばかりじゃないか。もう使わないと、人を斬らないと決めたばかりじゃないか。
フリッツは重い足をひきずって進んだ。
フラン村は、もうすぐそこだった。
歯をむき出しにしたモコバニーに怯え、ルーウィンに呆れられていたのがずいぶんと昔のようだった。今は小型モンスターよりも、腕にぶつかってくる羽虫に気を遣うほどだ。
途中虫除けになる薬草を見つけ、揉み解して腕や脚になすりつけた。昔はよくこうしてフランまでのお使いに出かけたものだ。ツンと薫る青苦さが懐かしかった。
この道中はこんなに楽だったかと、フリッツは思う。
細い道を徐々に下り、曲線を抜ける。眼窩には懐かしい景色があった。
フリッツは、足を止めた。
フラン村だ。ここからでは見えないが、向こうにはマルクスの住む岩窟のある岩山がある。
とうとう、帰ってきたのだ。
出て行ったときは柔らかな緑が風に揺れていたが、今は黄金色に輝く麦が波を打っている。小さな家々と小道と畑。豆粒のような大きさの村人が、その日も畑で精を出しているのが見える。
フリッツは思わず涙ぐみそうになった。村に辿り着いてもいないのに、なんとも言えぬ安堵感が押し寄せてくる。
あそこに帰れば、昔のフリッツに戻れる。
使うことのない棒切れをひっさげた、うだつのあがらないフリッツに。
木製のウッドブレードを持って。誰も何も、傷つけたくないと言って。
習得した剣術が、人畜無害の役立たずであればいいと、そんなおめでたいことをどうして思ったのだろう。
あの頃の自分は、バカだった。
何も知らない、ただの愚か者だったのだ。