【第2章】
【第三話 魔法にかけられて】
その晩、フリッツは夢を見た。
緑と赤の夢だった。最初は絵の具の塊を殴りつけているような感じだった。緑がいっぱいで、その真ん中で赤が燃えている。そう、赤は燃えているのだとわかった。緑はなんだろう。赤が燃えて、ぐるぐるしていた。 周りが黒っぽくなってきた。みんな口々になにかを叫んでいる。それは人の群れだった。しかし夢なので、フリッツが聞き取れるような言葉は一つもなかった。みんなどこの国の言葉を話しているんだろう。
突然、フリッツは指を指した。どこに向かって指しているか、自分の正面になにがあるか、まったくわかっていなかった。フリッツは、はっきりとした口調でこう言った。意味はわからなかった。
なぜなら、これは夢だから。
「ぼく、みました。このひとです」
指を指された人が、びっくりしているのがなんとなくわかった。
朝の光が瞼の裏まで突き刺さって、フリッツはようやく重い目をこする。朝を告げる小鳥の鳴き声が響いていた。フリッツはうーんと唸って、眩しくないようにうつぶせになろうとした。そこへクッションが振り下ろされて、フリッツは顔面を叩かれる。それでもだるそうにしているのを見かねて、ルーウィンはフリッツの頭を鷲摑みにして無理やり体を起こさせた。
「おはよう」
ルーウィンが手を離すと、再びフリッツはベッドに沈み込んでしまった。上からキンキンと尖ったルーウィンの声が降ってきた。
「いい加減にしなさい。もうとっくの昔に陽が昇りきってる。これ以上寝たら、頭も目も腐っちゃうわよ」
「…わかった。起きる」
フリッツは鉛のように重たい身体を起こそうと努力した。しかしその甲斐もなく、再びベッドに倒れこんだ。
「こりゃ重症ね」
やっとルーウィンは諦めたようだ。しかし、寝ぼけ眼で窓の外を見れば、確かに陽は昇っている。それも相当高くにだ。日々の鍛錬を一日欠いては取り戻すのに三日以上かかる。
師匠から叩き込まれた言葉が頭をよぎり、フリッツはなんとか身体を動かそうとした。しかし、またしてもだめだった。まるで岩が動こうとしているかのような様子を見て、ルーウィンは呆れ返る。
「珍しいわね。あんたがこんな時間まで起きないだなんて。昨日はずいぶんと早く寝たじゃない」
「…そうだっけ」
そもそも、フリッツには昨日の夜の記憶がなかった。実際、自分が今どこで寝転がっているかもわからない有様だ。
「ここ、どこ? キャルーメル?」
「そう。所長に宿とってもらって泊まったでしょ。ゴタゴタに巻き込んじゃったお詫びにってさ。覚えてないの?」
フリッツは首を横に振った。まだ頭がぼうっとしていて、振ると少しズキズキと痛んだ。
「食事が終わったらすぐに部屋に戻って、あたしが戻ったらもう寝てるんだもん。一日と半分くらい寝てるわよ」
フリッツはやっとのことで重い口を開いた。
「なんだか頭がガンガンする」
「寝過ぎじゃない?」
「そうかな」
フリッツはまだまだ眠れそうな気さえしていた。しかし、日が高いというのに寝てしまってはまともな人間の生活ではない。失った時間を少し恨めしく思ったフリッツは、ルーウィンに言った。
「どうしてこんな時間まで起こさなかったの?」
「失礼ね、ちゃんと起こしたわよ。それでもあんた起きなかったじゃない。それに昨日はいろいろあって結構バタバタしちゃったし、今日くらいゆっくりさせてあげてもいいかなと思ったのよ」
「昨日? 何かあったっけ?」
そういえばさっきも、ルーウィンの口からゴタゴタに巻き込まれたというような言葉を聞いた気がする。
相変わらずぼうっとしたままのフリッツを、ルーウィンは引っぱたいた。効果は絶大だった。ヒリヒリと痛む頬を押さえながら、フリッツは反射で涙目になった。
「いつまで寝ぼけてるつもり? とっとと顔洗って、下の食堂でご飯食べてきなさいよ」
「ねえルーウィン、昨日何があったの」
寝ぼけたフリッツとのやりとりにいらついていたルーウィンは大声で言った。
「そんなに知りたきゃ教えてあげるわ。魔法修練所の納屋でボヤ騒ぎがあったのよ。犯人は、あんたの証言で捕まった!」
キンキンする耳を抑えて、フリッツはルーウィンを見上げる。
ボヤ騒ぎ? 犯人が捕まった? ぼくの証言で?
フリッツの頭の中は疑問符でいっぱいになった。
「…ぼく知らない。覚えてない」
「はあ?」
ルーウィンから予想通りの返事が返された。
言葉の通りだった。フリッツはまったく何も覚えていなかった。修練所でボヤ騒ぎなんてことは今聞いたばかりだし、犯人が捕まり、しかも自分の証言でなどということは、まったくもって初耳だった。実感がなくふわふわとした話だったが、これが本当ならなにかまずいことになってるはずだ。
「その犯人って、ぼくが証言した後どうなっちゃったの?」
フリッツが恐る恐る聞くと、ルーウィンは困惑した表情を浮かべる。フリッツが覚えていないと言ったのを、ようやく本気にしはじめたようだ。
「他の門下生が火を消し止めたから、大事にはならなかった。放火は重犯罪だから、本当は未成年でも犯人は牢獄行きだったんだけど、そこを謹慎だけに済まされたって。じきに退所処分になるでしょうけどね。前代未聞だそうだから、所長はこの不祥事を内密にしておきたい、って言っていたわね。あんた口止めされたことも覚えてないの? あんなに美味しいクッキー出してもらったのに?」
フリッツはぐるぐるとした感覚を覚えた。気持ちが悪い。自分は当事者であるはずなのに、その事実を何一つ覚えてはいない。嫌な予感がした。頭からおかしな汗がどっと噴出してきた。フリッツは弾かれたように立ち上がると、身支度もそのままに駆け出した。
「ちょっと、どこ行くの!」
ルーウィンは驚いて後を追った。
数刻後、顔を洗い、無理やり食事を喉に通され、見苦しくない程度に身支度を整えたフリッツはルーウィンとキャルーメルの街の中を歩いていた。その手には走り書きの地図が握られている。
「ばかねえ、あんた。謝りに行くって、犯人の家がどこかわからないんじゃ行きようがないでしょ」
ルーウィンは呆れて鼻から息を吐いた。
「ごめん。ちょっと混乱してて」
フリッツは背中を丸めてとぼとぼ歩いている。二人は町の中心からずいぶんと離れた集落を目指していた。「謝らなきゃ!」と言って慌てて飛び出していったフリッツをルーウィンが捕まえ、落ち着いたところで件の門下生の住まいを調べたのだった。
ルーウィンはうつむいているフリッツの顔を覗き込んだ。
「ほんとうに、昨日の火事のことは覚えてないのね」
「…うん」
なんだか気持ちが悪くて、朝食すらまともに咽を通らなかった。事情はだいたいルーウィンがかいつまんで教えてくれたが、未だに何も思い出せない。
彼女の話によると、昨日フリッツはルーウィンとクリーヴとの三人で修練所の見学をしていた。講義が難しい内容になってきたため、ルーウィンが逃げ出し、フリッツはクリーヴと二人で修練所を回った。珍しいドラゴンの標本や鉱物の標本を見せてもらったり、実技の訓練をしているところを覗かせてもらったりで、なかなか出来ない貴重な体験をすることのできた大満足な一日だったという。明日の準備があるというクリーヴと別れ、フリッツは門の外で待つルーウィンと合流しようとした。
しかしその日の終わりに事件は起こった。
修練所の一角にある納屋が、突如炎を上げて燃え出したのだ。周りの木立を飲み込んで、炎はしばらく荒れ狂った。駆けつけたクリーヴやその他の門下生によって火は抑えられ大事には至らなかったが、魔法で火が放たれた痕跡があるという。
そこで犯人に関する重要な証言があった。フリッツが、火を放った犯人を見たというのだ。犯人だと言われた門下生はそれを否定せず、大人しく謹慎処分に応じたという。
フリッツは起きる直前まで見ていたと思った夢を思い出した。赤い炎。もしかしたら、あれは火事の情景だったのかもしれない。しかしそんなものを目撃したにしては、あまりにもおそまつで曖昧な記憶ではないだろうか。
本当に夢かもしれない。
しかし、みぞおちの辺りに感じる違和感が、直感でそれを否定していた。
そしてこんな不確かな記憶のなかで、自分は犯人を見たという。それが事実であるかを確かめなければならないとフリッツは思った。
思い悩むフリッツをよそに、ルーウィンは能天気だった。
「犯人は処分を言い渡された時あっさり認めたそうだけど。だったら行くだけムダじゃない?」
フリッツは首を横に振る。
「でもやっぱり気になるよ。ぼくは本当に、なんにも覚えていないんだから」
「まあ、無駄足だと思うけどね」
そう言いながらも、ルーウィンはちゃんとついてきてくれた。かなり歩いて、二人はやっと目的の家に近づいてきた。多くの門下生が下宿しているような街の中心部からは離れた集落で、林の中に家々がぽつぽつとあるような寂しいところだった。
「この辺じゃないの? ほら、そこのみすぼらしい家。表札読んでみてよ」
「うん、ここみたいだ」
キャルーメル高等魔法修練所に通う学生が暮らす家にしては、確かにみすぼらしかった。木で簡単に組んであるだけで、凝った装飾のようなものは一切ない。生活感は丸出しだが、きちんと手入れはされていた。それに干されている洗濯物の数が尋常ではない。どうやら他の門下生のように、どこかの街から来て下宿しているわけではなく、もともとここに家族で暮らしているようだ。
「じゃ、ノックするよ」
「いちいち言わなくてもいいわよ。はやく済ませちゃって」
フリッツは拳を構えた。
「ほんとにノックするよ」
「だからさっさとしなさいよ」
フリッツは固唾を呑んだ。
「ほんとにほんとに」
「あーもう! しっつこいわねえ!」
痺れを切らしたルーウィンはフリッツの頭を鷲掴みにすると、そのまま豪快にドアへと打ちつけた。
「はい?」
乱暴なノックに応えて、中から出てきたのは薄っぺらいショールを羽織った女性だった。片手で戸を持ち身体を支えて、もう片方の手を口元に当ててごほごほと咳をしている。見たところかなり衰弱している様子だ。女性の様子に恐縮して、フリッツは何も言えなかった。それを見たルーウィンがため息をついた。
「すみません。ここはラクトスってやつの家?」
「ええ、そうです。あら珍しい、あなたたちラクトスのお友達?」
顔を明るくさせた母親に対し、フリッツとルーウィンは苦笑いを浮かべるしかない。
「おともだちなんかじゃねえよ。おふくろ、そんなやつら通さなくったっていい」
上から声がすると同時に、青年が降ってきた。どうやら傍らの木の上で読書していたらしい。大きくて分厚い本を脇に抱え、たった今読んでいたらしいページには指が挟まれている。
「きみ、確か昨日の講義で居眠りして出て行った…!」
目の前の青年は、昨日フリッツにすれ違いざま睨みをきかせていった不真面目そうな門下生だった。
そんなフリッツの様子には気がつかず、母親は咳き込みながらも息子の無礼に腹を立てた。
「なにを言ってるの。あんたがそんなところにいたって知ってりゃ、こっちだって出なかったわよ」
「居留守使ったのがわかんねえのかよ」
「まあ! せっかくお友達が尋ねてきてくれたのに失礼じゃないの」
「だから違う! こいつらはおれを退学にしたやつらだ」
それを聞いて青年の母親は目を見開き、口を閉じた。
「なあにが居留守よ、バカみたい。あんたの気配なんて最初から丸分かりよ。フリッツ、あんたは気がついてなかったでしょうけどね」
「えっ、えっ?」
慌ててまともな答えすら出来ないフリッツを見て、ルーウィンは呆れた表情を浮かべた。
ラクトスと呼ばれた青年は、ずかずかとフリッツに近づいて額が当たってしまいそうなほど顔を寄せた。稀に見る目つきの悪さで、眉間に深いしわが寄っている。ルーウィンの目から繰り出される冷たい視線もかなり心に突き刺さるものがあるが、目の前の青年は筋金入りの睨みの効かせ方をしていた。
正直、非常に怖い。
「今更なにしに来た。あんなでっちあげの証言しやがって。場合によっちゃあ、この場でケシ炭にしてやってもいいんだぜ」
「違うよ! ぼくは謝りに来たんだ」
怯えながら答えたフリッツに、ラクトスはさらに眉根を深く寄せた。