【第2章】
【第四話 フリッツの謝罪と償い】
フリッツの話を一通り聞き終えたラクトスは、再び眉間にしわを寄せた。
しかし話をするといっても、フリッツは何も憶えていないという事実を述べることしか出来ない。あまりの情けなさに、説明している最中にどんどん顔が下を向いていった。ラクトスの母親が出してくれた茶に、困りきった自分の顔が映っている。
しばらく黙り込んでいたラクトスは口を開いた。
「で、なんだ? 慰謝料でも払ってくれるのか? そもそも謝罪に来てるっていうのに、手土産も持たず、逆に茶を出されるとかどうなんだよ」
「…気がつかなくてごめんなさい」
「まったくだな」
とにかく何も考えずに飛び出してきてしまったことを、フリッツは後悔した。
「お前、思いっきり誰かに操られたんだろ。魔法の免疫なさそうだしな。すぐに人のこと信じてホイホイついて行きそうな顔してる。つけこむ隙もあったろうさ」
「操られた、って何よ? フリッツが誰かに魔法をかけられたってこと?」
小さくなっているフリッツに代わって、ルーウィンが尋ねた。
「そこのデコっぱちが普段から健康で、記憶が飛ぶなんてことがしょっちゅう起こってないならその可能性が高い。くぐつの魔法だ。相手を操ることができる。なんでもかんでもは出来ねえけど」
「地味な魔法ね」
「昔からよくある、由緒正しい古代魔法の一つだ」
フリッツは信じられなかった。知らないうちに自分が魔法にかかっているなんて、そんなことがあるのだろうか。
そしてラクトスの言う「そこのデコっぱち」はおそらく自分のことで、大変不本意な呼ばれ方だったが、今は耐え忍ぶしかなかった。そんなことを言える立場ではない。ラクトスはお構いなしに話を続けた。
「一応聞く。お前、魔法をかけられた覚えは?」
「…ないです」
「だよな」
期待はしていなかったようで、ラクトスは案外あっさりとした返答だった。
ごほごほいう声が聞こえ、フリッツの視線はラクトスの向こう、台所で時折咳き込みながら夕飯の支度をしている彼の母親の方へ注がれた。母親の近くに簡素なゆりかごがあり、その中で二人の赤ちゃんがきゃあきゃあ言いながら戯れている。フリッツの考えていることが顔に出ていたのだろうか、それに気がついたラクトスは苦笑いを浮かべた。
「おふくろが悪いのは今日だけだ。ちょっと無理が祟って風邪こじらせた。別に不治の病抱えてるってわけでもねえからよ。こっちはお前が想像するほど可哀想な状況じゃない」
それを聞いてもフリッツの心は晴れなかった。家の中も実に簡素で、一家の慎ましい生活ぶりがそこかしこに見られる。ラクトスの使っているカップは欠けてしまっているし、今座っている椅子もギィギィと不審な音を立てている。窓ガラスは何度も修復したあとが残っており、お世辞にも裕福な暮らしであるとはいえなかった。おそらく修練所の月謝を払うのだって苦労しているに違いない。
フリッツはそんな門下生を、自分の一言で退所処分にさせてしまったのだ。
「犯人のだれかさんは気に食わないんだろ。おれみたいなのがあそこにいたことが」
ラクトスに罪を着せるために、誰かがフリッツに魔法をかけた。それを前提に話すラクトスが気に食わなかったらしく、ルーウィンは仏頂面をしている。
「仮に、あんたがやったんじゃないとして。本当の犯人は、もとからあんたに罪を着せようとしてたっていうの?」
「だって明らかに不自然だろうが。このデコっぱちは、人ごみの中から突然おれを指差して、こいつが犯人だって言ったんだぜ?」
「でも、あそこに最初からいたのはあんたしかいなかったじゃない。それはどう説明するわけ?」
「知るかよ。おれはだいたいあの場所が定位置なんだよあそこにいたのは、昨日に限ったことじゃねえ」
「あら、いつもいるの? ますます怪しいわね」
「いつもいる場所で突然放火なんてするかよ。バカバカしい」
ルーウィンとラクトスはバチバチと火花を散らせた。同属嫌悪だろうかと、フリッツはこっそり思った。
「修練所で修了証書貰って、一人前になって家族楽にさせてやりてえと思ってたんだがな」
決して自嘲じみた響きの無い台詞に、ルーウィンは口の端を歪ませる。
「あら、それって嫌味?」
「身の上話は好きじゃないからな。そういうことだ」
ラクトスはさらりと肯定した。ルーウィンが額に青筋を立てているのを感じて、フリッツはまあまあとなだめる。知ってか知らずか、ラクトスは平気な顔をして茶を啜った。
「こんなボロ屋で大所帯。おれは親と六人もの弟妹を抱えてんだぜ。あーあ、退所処分になっちまった。これからどうすっかな。なあ」
「うぅ」
突然矛先が戻ってきて、椅子の上でフリッツはまた小さくなった。それを見てルーウィンは目を吊り上げる。
「ちょっと、情けない声出してるんじゃないわよ! 悪いのはあんたじゃなくて、あんたに魔法をかけた野郎なんだから」
「やっと納得したか」
ルーウィンはしまったという顔をしたが、ラクトスの言うようにフリッツが誰かに魔法をかけられたという線が強いことは明らかだった。
「じゃあなんで犯人だって認めたのよ。後になってぐだぐだ蒸し返して、みっともない」
「おれは犯人じゃねえ。でも、修練所のことはもういい。だから何も言わなかったんだ」
その言葉にフリッツは反応した。
「もういいって、どういうこと?」
「これ以上、あそこにおれが留まる必要も理由もねえってこった」
ラクトスは椅子の背もたれにもたれかかった。
「最近はあそこに通うのも無意味だと思ってたから、素行態度も日増しに悪くなってた。おれが犯人だと言ってもだれも疑わない。おれじゃありません、って今更反論するのも面倒くせえ」
「でも、きみには修了証が必要なんでしょ」
フリッツは食い下がった。ラクトスの話を聞いていて確信した。彼には家族を支えるために何としても修了証が必要なのだ。フリッツはラクトスの目を見据えた。
「だったらおかしいよ。ここで諦めちゃダメだ。あと一歩で手が届かなくて悔しい思いをしているのはきみだけじゃない。お父さんやお母さんだって、きっとそう思ってるよ」
努力が実らないのは辛いことで、認めてもらえるのは嬉しいことだ。何年越しものラクトスの努力を、自分のせいで水の泡に帰すことなどできない。しかし当の本人が抵抗することを諦めたら、その時点でなにもかもが終わってしまう。
「もとはといえばお前のせいなんだけど」
ラクトスは頬杖をついてつまらなそうに言った。
「正義感だけで飯が食えりゃ、世界は平和だ。剣士も弓使いも魔法使いも、なんにも要らない。そうじゃないからお前等はそうして武装している。違うか?」
ラクトスはため息をついて天井を見上げた。
「いまは正義がどうこう言っていられる場合じゃない。金だ。生きていくってことはそういうことだ。夢や理想じゃ飯は食えないんだよ。おれはこうして流れに抗わず、大人しくしてるのが一番だ。殴りこんで余計な悪評立てるよりな。それが賢い生き方ってもんだろ?」
フリッツはラクトスの言うことが正しいと思わなかった。このまま泣き寝入りするのは簡単だが、それが本当に楽であるはずがない。あの修練所で彼のような人間が在籍し続けるのには、相当な障害があり苦労があったはずだ。それをこんなところで諦めていいはずがなかった。フリッツは珍しく大きな声を出した。
「それじゃあさっき読んでいたのはなに? 魔法書でしょ。きみはまだ棄てきれてなんていない。諦めてなんかいないんだ」
ラクトスの顔色がわずかに変わったのをフリッツは見た。
「帰れ」
言葉こそ静かだったものの、ラクトスはテーブルに拳を打ちつけた。カップの茶が大きく揺れる。紫の瞳を怒りに燃えたぎらせ、有無を言わせない迫力でラクトスは二人を睨んだ。
「ここの家の住人はおれだ。帰れよ」
陽も傾きかけ、オレンジ色に染まった林の小道をフリッツは肩を落としてとぼとぼと歩いていた。一方ルーウィンはフリッツの五歩ほど前をさっさと行っていた。あまりのフリッツの遅さに、ルーウィンは振り返って少し足を止める。
「そういつまでも落ちこんでないでよ。もうやっちゃったもんは仕方ないでしょうが。あいつもなんか諦めてるみたいだし、放っておけば」
「でも…」
フリッツは地面を見つめていた。放っておけるわけがない。そもそもの原因は自分にあるのだから。しかもそのときの状況すら覚えていないなんて、情けないにもほどがあった。ラクトスは修練所に未練はないようだが、魔法に関してはそうではない。彼の将来のためにも、なんとしても事の真相を掴まなければならないと思った。
突然視界が暗くなった。ルーウィンが何かしたのだと思って、フリッツは不意に顔を上げる。
「えっ、なに?」
目の前は真っ白だった。そのまま視界を失って、身体に何かがぶつかる。上からなにかが降ってきたようだ。あっという間に身動きが取れなくなり、「わわわ」と声を上げながらフリッツはふらついた。何も見えず、状況もわからないまま、フリッツは足元の石に躓いて豪快に転んだ。周りからは歓声が上がる。甲高い声がいくつも聞こえた。
「やったぜ! ざまあ見ろ」
彼らが喜んでいたのもつかの間、次にはモンスターに追いかけられるような悲鳴を上げて四方に散っていった。どうやらルーウィンが何らかのフォローをしてくれたのだろう。
「はいはいクソガキども、そこどいた。フリッツ、あんたもどうしてこうなるかなあ」
フリッツは布の上からロープを巻きつけられグルグル巻きにされていた。ルーウィンは手を伸ばし、適当にフリッツの顔を出してやる。新鮮な空気を吸い込むと、呆れているルーウィンの顔が見えてしまった。
「いったいなんなの?」
ルーウィンの他に、フリッツの周りには子供たちがいた。全員で四人。年はばらばらで、一番上の子でも十歳くらいの年齢だ。ルーウィンが子供たちに威圧的に向きあった。
「なにしてんのよ。かくれんぼはもう終わったの?」
「ばれてたのか!」
どうやら子供たちはフリッツたちの後をつけていたらしい。フリッツはまったく気がついていなかった。
「兄弟揃って隠れるわ、木の上から降ってくるわ。似なくていいとこ似てるわね、あんたたち。まあ目つきが悪くないだけマシか」
その言葉にカチンときたようで、一番年上の男の子が声を荒げる。
「兄ちゃんをバカにすんな! 目つきは悪くたって、お前らなんかよりもずっと優しいんだぞ!」
そうだそうだと次々に声が上がる。
「兄ちゃんって。きみたち、ラクトスくんの」
「見りゃわかるだろ。きょうだいだ」
フリッツは四人の子供たちを次々と見た。ラクトスほど目つきの悪い子供はおらず、一見しただけではわからなかった。しかし言われてみれば、どことなく似ているような気はする。
「とすると、さっき家にいた双子の赤ちゃんたちも合わせて」
「みんなで七人!」
年長の少年がえっへんと胸を張る。フリッツは驚いた。
「きょうだい多いんだね。毎日楽しそうだ」
「あんたは他にもっと言うべきことがあるでしょうが」
のん気に感想を述べるフリッツを見てルーウィンは呆れた。
「あの、それうちのシーツと洗濯物の物干しロープなんです。返してもらえますか」
年上の少女がおずおずと尋ねた。
「大事なもんだったら使うなっての。ほら、返してあげる」
ルーウィンはフリッツに巻きついたシーツを引き剥がし、ロープも手際よく巻いて少女に返してやった。それを見た年長の少年が少女をこづく。
「おい、サマンサ。敵と馴れ合ってるなよ!」
「だってアル兄。さっきの話聞いてたでしょ。このひとたちは兄ちゃんに謝りに来たんだよ?」
「でもさ、結局はこいつらのせいで兄ちゃんは修練所辞めたんだぜ」
「そうだけど…。兄ちゃん、もう魔法使いなれないのかなあ」
少女の声は尻すぼみになって消えていった。子供たちも皆一斉に黙り込んだ。
フリッツはその様子を見て胸が痛くなった。そして自分を不甲斐なく思った。こんなにきょうだいがラクトスの将来を望んでいるのに、自分はここにきて謝ることしかできなかった。いったい何をしに来たんだろうと、思わず唇を噛む。きょうだいたちのしゅんとした面持ちが、余計に痛々しかった。
「で、あんたたちなにがしたいわけ? あたしたちに仕返し? 上等だわ、かかってきなさいよ」
しばらくことの成り行きを見ていたルーウィンは、しびれを切らして凄んで見せた。子供たちは息を呑み、一斉に逃げ出してしまった。後ろに立っていたルーウィンがどんな様子だったか、フリッツは知る由もなかったが知らないほうがいいこともある。突然やってきた嵐が去って、フリッツは呆然としていた。
「いつまでそうしてるの。ほら、立った立った」
ルーウィンが促して、フリッツは腰を上げる。ズボンに付いた砂を払って、フリッツは顔を上げた。
「やっぱりラクトスくんは、修練所をやめちゃいけないひとだ。家族のみんなが、あんなに応援してくれてるんだから」
ラクトスが抗議する気がないのなら、やることはただ一つだった。
「真犯人を探して、ラクトスくんの濡れ衣を晴らせれば、修練所に戻れると思う?」
最初から、フリッツに残された手段はそれしかなかったのだ。真犯人を探す。自分の記憶がぽっかりと抜けているという、こんなにも頼りない状況で果たしてそれが可能なのか、見当もつかない。しかしやる前から諦めていては、何もしないのと変わらない。
不本意ながらもフリッツがラクトスを追い詰めた事実に変わりはなく、フリッツのせいで彼は窮地に立たされている。それを原因になった自分が助けないで、いったい誰が助けるというのだ。フリッツは決心した。
「ぼく、探してみるよ」
「で、どうやって?」
ルーウィンのもっともな切り返しに、フリッツは一瞬言葉を失った。
「えっと。そこまで考えてなかった…」
フリッツは考えなしに口走った自分が恥ずかしくなって頭をかいた。それを見て、ルーウィンは肩を落とす。
「まずは聞き込みでしょ。どうせ部屋にいても暇だし、あんたも頼りないし、ついてってあげるわよ」
「ありがとう! 助かるよ、ルーウィン」
こうして、フリッツとルーウィンの犯人探しが始まった。