【第2章】
【第八話 真夜中の戦い】
ラクトスはクリーヴから放たれる炎の塊をなんとか相殺していた。
クリーヴが杖から放つフレイムダガーを、ラクトスは最低限のアクアヴェールでなんとかやりすごす。ラクトスが呪文を唱えると杖の先に小さな水の塊が揺らめき、フレイムダガーがやってくるとともにその水はラクトスの前に薄い水の盾を作る。ジュッと大きな音と豪快な水蒸気をあげ、ラクトスを目前にして炎は消えた。 最低限というのは意外に力の調節が難しく、ラクトスは力を節約してうまく対応していた。
しかしその攻防は持久戦になり、ラクトスは魔法をやめて木の幹に身体を隠さなければならないところまで追い詰められていた。校庭のセコイアに感謝したのは初めてだ。木々の陰に隠れながら、攻撃をやり過ごす。 高揚状態に陥っているクリーヴの力は危ういものだが、その技術も力も並外れて強い。召喚魔法を使い、これだけの魔法を使いながらもまだ戦っていられるクリーヴにラクトスは畏敬の念さえ抱いた。力の消費は激しく、疲労も溜まるはずだが、目の前の彼の力は底なしのように感じられた。クリーヴの消耗を待つほど、ラクトスに力は残されていなかった。
「なあ、もうやめにしないか」
血まみれになり這い這いやってきたフリッツは、怜悧な声が闇に響き渡るのを聞いた。フリッツは片足を引きずりながら、剣を杖代わりに身体を支えているのがやっとだった。
ラクトスが木の陰から現れた。かなり消耗しているのが見て取れる。明らかに勝負はクリーヴに軍配が上がっていた。ラクトスが言葉を続けた。
「お互いの詠唱時間気にして、ちまちまダサい魔術使うのもうんざりだろ?」
「きみにしては、なかなか面白い提案だね。いいよ、乗ってあげよう」
対してクリーヴにはまだまだ余裕があるようだった。しかし、彼はラクトスの提案に敢えて乗った。
「決めようぜ、この一発で」
二人は黙り込んだ。するとおもむろに杖を掲げる。その滑らかで隙の無い動きは、遠目から見ているフリッツにもよくわかる。二人とも、まったく同時だ。フリッツには、なにが起ころうとしているのかは容易に想像が付いた。魔法使い同士の決闘が、今まさに目の前で起ころうとしているのだ。
何の術をかけようとしているかは、フリッツには分からない。しかし互いに言葉の通り、これで最後にしようと考えているのは想像がついた。選ぶ術の種類で、詠唱時間と発動時間は変化する。簡単な初級魔法なら術は早く完成するが、威力はまちまちだ。一方、中級の魔法ならそれなりに威力はある。しかし詠唱に時間がかかり、その間に倒されてしまうことも有りうるのだ。
何を重視し、何を選んだか。それが二人の分かれ道になる。
一足先に、クリーヴの周りに光が収束し始めた。足元には徐々に魔法陣が浮かび上がる。ラクトスも光を纏いはじめ、足元にぼんやりと幾何学模様が現れる。うっすらと発光するその光景は、どこか幻想的でさえあった。フリッツは重い身体に鞭打って、その様子を眺めていた。フェンリルとの戦いで死ぬほど疲れていたが、この二人の戦いを見届ける義務のようなものを感じたのだ。
一方の詠唱が終わり、閉じられた唇がにやりと弧を描く。
紅く膨れ上がった炎は術者の頭上で収束した。刃物のような鋭いきらめきを見せ、小さな火の粉が幾つも相手を切り裂いていく。孕んだ炎が我が子を吐き出しているようだ。
果たして先に攻撃をしたのはどちらなのか。
ラクトスが崩れ落ちた。
フリッツは思わず目を見開いた。
「やった! 勝った! やっぱりぼくが一番強いじゃないか!」
クリーヴは何かに取り付かれたかのように喚きながら大声で笑った。目は見開かれ、体を仰け反らせるほどに全身で勝利の喜びを表している。まるで狂ってしまったかのようだ。静かな林にその声は響き渡る。
「どうだ、思い知ったか! お前なんかがぼくに敵うわけがないんだ」
クリーヴは勝利に酔いしれ、片手で顔を覆いながら笑い続けた。
「ラクトス!」
脚の痛みなど忘れて、フリッツは剣を杖にしながらラクトスに駆け寄った。木の根につまずきながらも、フリッツは懸命に進む。やっとのことでラクトスのもとに辿り着いた。服がところどころ焼け焦げて、痛々しい傷が覗いている。重度の火傷だ。
「しっかりして!」
水ぶくれが痛々しくて、フリッツは目を細めた。ラクトスの口がかすかに動いているのに気がつき、耳を近づける。ラクトスは苦々しげに悪態をついた。しかし動く様子はない。
このまま彼をここへ置いたままにするわけにはいかない、しかし助けを呼ばなければとフリッツの頭の中は混乱していた。呼ぶにしても、自分の脚はもはや使い物にならないし、ラクトスを引きずっていくこともできない。
「さあ、どうする? ぼくはまだまだ元気だよ。なんなら、もう一発お見舞いしようか?」
目の前で笑みを浮かべているクリーヴの表情は、残った炎に照らされて歪んでいるように見える。こちらは満身創痍だが、クリーヴはほぼ無傷である。目前にした勝利に酔いしれてはいるが、さすがにこちらが逃げるだけの隙を見せたりはしないだろう。
完全に追い詰められた。
「…バカか、お前は」
ラクトスの口から発せられたその言葉に、クリーヴは顔色をなくした。
まさかと叫んで顔を上げれば、そこには赤々とした炎の塊が浮かんでいる。熱の真紅と炎の影の黒とで構成されたその物体は、人を滅さんとする凶悪な太陽のようだ。恐ろしい速さで回転しだしたその球は、小さな火の刃を無数に吐き出した。鮮やかな刃は、熱を伴いクリーヴに襲い掛かる。
飛んでくるいくつもの火の刃にクリーヴは両腕で顔をかばったが、攻撃は直撃した。杖や魔法で防ぐことは出来なかった。しばらくの間、炎の球体からの攻撃は止むことなく続いた。フリッツは球体と刃の発する熱に顔をしかめる。
クリーヴは思い切りふらつくと、がくんと地面に膝をついた。両手を地面につけて、背中は苦しそうに上下している。フリッツは突然の形勢逆転に、なにが起こったのか理解できなかった。
「……ばかな。あんな攻撃を受けておいて、術が消えないなんて」
消え入りそうな声で、クリーヴは低く呻く。ラクトスは横たえていた身体を起こし、杖を地面に突き刺して身体を支える。
「普通はな。だがあんたが逸る気持ちを抑えられなかったおかげで、おれは助かったわけだ。少し早かったな、一節抜かしちまったんじゃねえの。土壇場でのニアミス、ありがとさん」
ラクトスは傲慢に笑い、クリーヴは黙った。フリッツは固唾を呑んでその様子を見守る。
「速さか威力か。大事なのはそのどちらでもある。だがもっと大事なことを、あんたは失敗しちまった。慎重さと正確さだ。見た目の派手さほど、おれはダメージを受けてない。だから詠唱を続けられた」
倒れたクリーヴはラクトスの言葉を聴いていたが、やがてゆっくりと口を開けた。
「…きみはまだ、この術は習い始めたばかりのはずだ」
「生憎、予習と小遣い稼ぎが趣味なもんでな。火種がないときなんかにも、こいつは役に立った」
ラクトスは脚を動かしてあぐらをかいた。
「お前がおれに勝てない理由がわかるか?」
酷く傲慢なセリフだ。フリッツは思ったが、それはラクトスも承知の上だろう。勝者だけが口にすることの出来る言葉だった。
クリーヴからの返事はなく、すでに動かなくなってしまった。放たれた魔法は中級のもの一回であったため、命に関わる心配はない。召喚魔法も使ったので、魔力を使い果たしてしまったのだろう。
「宿題だ、考えとけよ。もう会うことなんかないだろうから、答えは教えられないけどな」
もう会うことはない。そう、勝負はついてしまった。クリーヴが街を出て行き、ラクトスは再び修練所に籍を置く。ラクトスが勝ったということは、そういうことだ。しかしなにか後味が悪い。ぼうっとした頭でフリッツは考えていた。
「なにぼっとしてるんだ。お前も早く帰れよ」
座ったままのラクトスがわき腹をこづいてきた。そんなに強くはないはずなのだが、疲れているフリッツはその一発でぐらりと揺らいだ。
「いや、帰りたいのはやまやまなんだけど。なんだか疲れちゃった。それに脚がいうこと、きかないんだ」
フリッツは大きなあくびをした。つい先ほどまでフェンリルとの戦闘で命の危険にさらされていたのだ。緊張の糸は緩み、安堵が心を満たしていく。それと同時にどっと疲れと睡魔が襲い掛かってきた。
「なんだ。お前もか」
ラクトスは相変わらずぶっきらぼうに言った。
名門キャルーメル高等魔術修練所の一角で、少年たちの戦いはひっそりと幕を閉じた。
しかしその一部始終を、こっそりと覗いていた者たちがいた。一人はくつろいだ様子で茶を飲んでおり、もう一人は窓際に張り付いている。
カーテンの隙間から外の様子を垣間見ていたガルシェは、ほっとため息をついた。彼はかけている眼鏡の上から、さらに筒にレンズを取り付けたようなものをかけている。
「遠メガネなんかで見ないで、水晶に様子を映したりできないの? 魔法使いのおばあさんがよくやるようなやつ」
「きみはなかなか古風な趣味をしているね。今はこれ、この遠メガネはキャルーメルの街の中くらいならどこでも見渡せるし、なんと夜目が利くようになる」
「ああ、なるほど。真っ暗なのにさっきから外ばっかり見て、頭悪いんじゃないかと心配してたのよね」
「きみはいちいち言うことがきついねえ」
ガルシェは力なく苦笑いを浮かべた。
「さて、どうしよう。わたしは事なかれ主義なんだけどなあ」
「ここまで見ちゃって無視するつもり? さすがに魔法での対決になるとまでは思ってなかったけど。召喚魔法使ってるって聞いたときはヒヤヒヤしたわ」
もう一人の観客、ルーウィンはカップを口から離す。菓子皿がすっかり空になって屑しか残っていないのを見ると、勝手に戸棚を開けて中を漁り始めた。それを見てガルシェは苦笑する。
「そのわりには、ずいぶんと落ち着いていたよねえ」
頭を戸棚に突っ込んだまま、ルーウィンは答えた。
「ことナントカ主義なんでしょ。ほんとに危なくなったら、あんたが直々に出て行くと思って。でも、本当はけっこうやばかったんじゃないの?」
「やれやれ。へんなところで頭の回る子だな」
ガルシェは自分の椅子にどさりと腰掛けた。すっかり冷め切ったコーヒーに目を落とす。ルーウィンは新しいクッキーの缶の封を切り、いそいそと次の紅茶を注ぐ準備をしていた。もちろん、自分で飲むためだ。
「フリッツくんには明日までと言って発破をかけて頑張らせ、クリーヴの前ではもう少しかかるとわたしに言わせて焦らせた。きみの作戦勝ちだね」
ルーウィンはクッキーを口に放り込み、答えなかった。やれやれとガルシェは呟く。
「しかし、どうしてクリーヴが犯人だとわかったんだい? ぼくに対してはいい子だから、あまり信じたくはなかったんだけど」
「女のカン」
実はルーウィンは、クリーヴのあまりにも親切な行動に最初から胡散臭さを感じていた。まさか自分が目を離した隙にフリッツが操られてしまうのは思っていなかったが。監督不行き届きという点は反省し、その気持ちからフリッツの犯人探しにしばらく付き合ってやったが、知れば知るほどクリーヴに対する疑いは深くなっていった。
そして証拠がないなら、挑発してクリーヴから動いてもらい、現行犯で証拠を突きつけるより他ないと考えたのだ。
「あの目つき悪いやつの退学、どうにかなんないかな。じゃないと連れがめんどくさいのよね」
「そうですねえ」
ガルシェは手をあごに持っていって考え込んでいる。ルーウィンはカップを持ち、息を吹きかけて紅茶をした。すっかりくつろいで長居しているルーウィンに視線をやり、ガルシェは尋ねた。
「……ところで。きみはいつになったら帰るつもりなんだい。戦いに決着はついたようだけど」
「もう少し。これ食べきるまでね」
彼女の人差し指はしばらく缶の上をさ迷い、真っ赤に輝くドレンチェリーのついたものをつまんだ。ガルシェは彼女がてこでも動かないと悟る。
「ことが片付いたから、明日にでも出発だろう? 早めに寝ておいたほうがいいんじゃないのかい」
「そうなんだけど。あのバカども、一人で運んでおいてくれるの?」
ルーウィンはなんでもないように紅茶を一口すすった。ガルシェはそれを見、気づかれないように微笑んだ。