【第3.5章】
【第一関門 峠にて】
ティアラが一行に加わって、数日が経った。
パーリアから街道沿いの次の街へは結構な距離があり、途中峠も越えなければならなかった。間にいくつか小さな宿場町があるが、そこへ辿り着くまでにも何度かは野営をしなければならない。当然、食事をとれるような店もなく、自炊が当たり前の道中だった。
昼は簡単な携帯食料や保存食で済ませることが多いが、朝や夜はその場に腰を据えているため、火をおこして温かい食事を作ることがほとんどだ。朝食はその日一日の原動力に、夕食は明日の活力に繋がる大切な要素である。
ところで、フリッツはたいがいの物事において不器用だが、食事の準備などはそれほど手間を取らなかった。だてに十何年も自分とものぐさ師匠の食事を作り続けてきたわけではない。
ラクトスも同じく、働きに出た母の代わりにきょうだいたちに食事を作り、時には食堂で調理の仕事をしていたこともある。
ルーウィンはダンテと共に幼い頃から旅をしてきただけあって、外での食事の準備の手際は誰よりも良かった。ただ、ルーウィンの料理はアウトドア向けで味は良いが大雑把なものが多く、フリッツとラクトスは家庭の味という、男女がひっくりかえったような味付けになっていた。
そして、ある日の夕食。辺りはそろそろ夕闇に包まれようとしていた。薪を囲み、腰を下ろして一息つき、食事をとっていた一行に悲劇は襲いかかった。
ラクトスがスープの入った椀に口をつける。一口飲んで、一瞬硬直し、それから片手で眉間を押さえて上を仰いだ。
「ラクトス?」
不審に思ったフリッツがラクトスの様子を窺う。ラクトスは辛そうに口を開いた。
「涙が止まらないんだが」
見るとラクトスはその瞳からぼろぼろとおもしろいように涙を零していた。ラクトスと旅をするようになってまだそんなに経っていないが、彼がこんなふうになってしまうのは初めてのことだ。突然のことに、フリッツは慌てた。
「えっ、どうしたの? 大丈夫?」
「いや、その、なんだ。スープがな。いいからとにかく食ってみろ」
ラクトスは涙を流しながらフリッツに目配せする。涙が出るほど美味しいのだろうかと、フリッツは自分もスープに口をつけた。一口飲み下すと、すぐにその意味がわかった。
「ほんとだ。涙が止まらないや」
続いてフリッツも涙をぼろぼろ零し始めた。恐ろしいほどの不可抗力だ。スープはかなり塩の風味が強く、むしろしょっぱいのだが、泣いている今は涙の味なのか料理の味なのかわからない。
ラクトスはまだ涙を流しながら、恐る恐るその日の食事当番に尋ねた。
「お前、これは生の玉ねぎでも大量に入ってるのか?」
「いいえ? おかしいですね、玉ねぎは入っていないはずですけれど」
その日の夕飯担当者であるティアラは首をかしげてスープをすすった。彼女は少し微妙な表情を浮かべたが、その反応はラクトスやフリッツほどではない。ちょっと眉根を寄せただけで、泣くほどのことはないというようだった。ティアラは頬を膨らませる。
「お二人とも、大げさです。たしかに、ちょっとしょっぱくて辛いですね。次は気をつけますわ」
ティアラは続けてにこっと笑った。
ルーウィンは何も言わず、黙って椀の中のスープを見つめていた。そして三人のやり取りの間に、さっとスープの中身を後ろの草むらの中に投げ捨てる。
「てめえ、汚いぞ穀潰し!」
「なんのこと?」
自分だけ逃げようとしたルーウィンにラクトスが食って掛かった。ルーウィンはあさっての方向を向いている。ルーウィンの椀の中が空っぽになっているのを見て、ティアラは顔を輝かせた。
「まあ、ルーウィンさんは残さず食べてくださったのですね。どうです? おかわりは」
「大丈夫! もうお腹いっぱいよ!」
ルーウィンはわざとらしいほど元気いっぱいに答えた。そうですか、とティアラはすこし残念そうな様子だったが、気を取り直して脇に避けてあった大なべを出してきた。
「さあさあ、メインデッシュはこちらですよ。召し上がってくださいな」
「…お、おお」
ラクトスは唸った。物心ついてから十と八年、両親の共働きのため家事の一切を切り盛りし、六人の兄弟の世話を続けてきたラクトスを唸らせるほどの逸品が、今まさに一行の目の前に置かれている。
黒く焦げ付いた鍋に垂れ下がったニンジンの葉は、可哀想なという形容がぴったりだ。投入された魚は鱗がバリバリに逆立っており、白目を剥いてこちらを威嚇している。ジャガイモからは新芽がすくすくと伸びており、元気いっぱい伸び盛りの様子だった。そのほかにも謎のきのこや謎の野草が盛りだくさんで謎のとろみがつき、みんな仲良く焦げ付いた鍋の中にぶち込まれている。
その様子は、一言で表せば地獄絵図だった。
フリッツ、ルーウィン、ラクトスの三人は思わずごくりと唾を飲む。
「お前、実は魔女だな? 魔女の料理だ。おれたちを始末しにきたんだろ」
恐怖のあまりラクトスがわなわなと肩を振るわせ始めた。フリッツは焦った。このままでは事態がややこしいほうに転がってしまう。
「ラクトス、そうだ、食後の散歩に行こう。さっき向こうでお金のなる木を見つけたんだ」
「誰の差し金だ! おれは騙されないぞ!」
ラクトスは叫びながらフリッツに引きずられて森の中へと消えていった。その様子を見、ルーウィンは鳥肌のたった腕をさすっていた。
「うえぇ、あいつ錯乱しちゃってる」
何が起こったかわからない様子でティアラはきょとんとしていたが、その場に残ったルーウィンと目があうと、期待のこもった眼差しを向けた。
「さあ、ルーウィンさんも」
「ごめんそれは無理」
ルーウィンは即答し、ティアラは涙目になった。
次の日、さっそくティアラ対策会議が三人の間で開かれた。
時間は明朝。空が白み始めた頃で、うっすらと白く薄い月が空に溶けようとしている。ティアラは健やかな寝息を立てて毛布に包まり、幸せそうに眠っていた。昨晩のショックが抜けず、鍋はそのままになっていた。 その地獄の縮図のような可哀想な鍋を見つめ、ラクトスは頭を抱えた。
「おい、こりゃあ予想以上の出来だな。穀潰しはよく食うが、まあ自分の分は自分でなんとかできるからいいとして」
「聞こえてるわよ、バカ」
ルーウィンはよく食べるだけあって野外料理の腕は大したものだった。早朝、誰よりも早く起きだし、適当に散策して山鳥やらモンスターやらを仕留めて来る。結果それが全員の食料にもなるのだが、足りないとまた仕留め、皆が腹ごなしをしている間にひとりでそれをぱくつのだ。
だがティアラは違った意味で食材を消費してしまう。たった一回で、ティアラに調理禁止令をだそうということになった。しかしそれでは根本的解決にならないため、フリッツが二人を説得し、誰かがついて教えながらティアラを調理にあたらせようということになった。
長年の幽閉生活で並外れて常識が無いだけなのだ、ということフリッツは主張した。しかし彼女が本当に驚異的な味覚音痴であった場合は、別の手を打たなければならない。
「でもさあ、あの子、問題があるのは料理だけじゃないじゃない」
ルーウィンは声を上げた。三人は眠っているティアラを見た。料理が苦手であれば、練習させればいいだけの話で、もっと言えば作らせなければいい。
ところが困ったことに、ティアラにはまだいくつかの難点があった。
「その一、朝に弱い」
ラクトスが苦々しい顔で言った。
ティアラは極端に朝に弱い。
一行の中ではフリッツが一番に起床し、まだ朝日も昇らないうちに一人で黙々と素振りなり基礎トレーニングなりを始める。そのうちルーウィンが起きだして小腹が減れば狩をし、夜が明け始めるとラクトスが朝日に誘われて目を覚ます。一行の朝はやや早めだったが、今までは三人ともが早かったため特に支障はなかった。 しかしティアラは、日がけっこうな高さまで昇ってもすうすうと寝息を立てているのだ。しかも寝起きが悪いため、一行の野営地から発つ時間はここ最近遅くなりつつあった。
「その二、体力がない」
懸念していたことだったが、やはりティアラには体力がなかった。
何年も塔に閉じ込められていたという彼女がついてくると言ったときに、皆が心配していた点はそこだった。道端に座り込んでしまうようなことはなかったが、疲労で足元がおぼつかない彼女を見ていると気が気でない。しかし根性はある。無理をしてその日を歩ききり、その疲労が次の日へと持ち越してしまうのも朝起きられない理由だった。
しかしここまでならば、旅に出たばかりの初心者だと許すことはできる。問題はもう一つあった。
ラクトスは眉間に深いしわを刻んで、不機嫌に言った。
「その三、理解に苦しむ、ハラの足しにもならねえ慈善行為」
彼女の最大の難点。
それは人助けに走ってしまうことだった。
人の行き来の多い街道だ。疲れて歩けなくなってしまう者や、怪我をして進めなくなった者が道の隅で座り込んでしまっているという光景も珍しくはなかった。たいていの人間は、大事がなさそうであればそこを通り過ぎてしまう。
しかしティアラは、そういった旅人を見つけるとまっすぐに走っていき、治癒魔法をかけてやるのだ。フリッツはその道徳精神に毎度のように感心させられるのだが、ルーウィンとラクトスは違った。
ティアラがけが人の治療を始めると、しばらくはその場に足止めされてしまう。二人がティアラを止めにかかるが、ティアラは意外にも強情で言うことを聞かないのだ。その時のルーウィンとラクトスの苦々しい表情をティアラは見ていないものの、フリッツはいつも隣にいて気が気ではない思いをさせられるのだった。
「どうする?」
「どうするよ?」
ルーウィンとラクトスはうーんと唸る。
「どうするも何も、ティアラはもう一緒に旅をしてるじゃないか。頑張ってるんだし、ここはぼくたちが支えてあげるべきじゃ」
「あんたは黙ってろ」
「…はい」
ルーウィンに怒られ、フリッツは小さくなる。
「ま、様子見だな」
「そうね。しばらく我慢するかあ」
ルーウィンとラクトスのやりとりと反応を見て、フリッツは何も知らずに眠っているティアラに不安げな視線をやった。
その日も陽は暮れて、一行はまた野営の準備に取り掛かった。ティアラが汚名返上するといってきかなかったが、なんとか言いくるめて、その日はルーウィンが食事を担当した。平和な夕食のひと時が終わり、一行は休む準備に取り掛かかる。
ティアラが大きなあくびをした。自然と口元を隠す動作は上品だが、眠気は隠しきれなかったようだ。
「慣れないことばかりで疲れたよね。今日はもう休みなよ」
フリッツが言うと、ルーウィンが首を横に振った。
「だめよ。見張りは皆で、交代でやるんだから」
「見張り? そんなの今までやったこと」
言いかけてフリッツはルーウィンに口を塞がれる。出しかけた言葉はもごもごと口の中で消えてしまった。
「盗賊とか多いところだと、こっちの居場所を教える明りになる火を焚くのは逆に危険になるけど、
このポイントは人間よりもモンスターに注意するべき場所だと思うわ。
たいていのモンスターは火を恐れるから寄って来ない。まれに火を好むやつもいるけど、そんなのはこの
辺りにはいないだろうから」
「ま、ここは場数踏んでるやつの意見に任せた方がいいとは思うぜ。じゃあな、今日はよろしく頼むぞ」
ラクトスはあっさりそう言うと、手をひらひらと振ってその場にごろんと横になった。
それを見てルーウィンも大あくびをする。「うーん」と唸って猫のように伸びをした。
「あたしも。今日はもう疲れちゃって。お先に」
「ちょっと二人とも」
フリッツが言い終わらないうちに、ルーウィンは背を向けてしまった。
「もう! 勝手だなあ」
さすがのフリッツも不満の声をあげた。見張りを立てたことなど、いままで一度もない。
賊に気がつかれないよう大人しく寝ているだけでよかったのだ。
「お二人ともお疲れなんです、きっと」
「そういうティアラだってずいぶん疲れてるでしょ」
「わたくしはまだ大丈夫です」
ティアラはそう言って微笑んだが、瞼は半分閉じかけていた。
フリッツは突然のことにルーウィンとラクトスをいぶかしんだ。これはもしかすると、ティアラを参らせようとする二人の作戦、もとい意地悪なのかもしれない。しかし安っぽい嫌がらせなどしても、二人にとってメリットはないだろう。ここはやはり、ティアラのことを試しているのだろうか。
フリッツは気合を入れた。なんとしてでも、ティアラを二人に認めてもらわなければ。
「まず、なんとかして眠気を紛らわさないとね」
フリッツは舟を漕ぎそうになっているティアラを見た。二人は薪を前にして隣に座っていた。ティアラの眠そうな顔を薪の暖かな炎が照らしている。
「そうだ、こういうの知ってるかな」
フリッツはおもむろに草むらを掻き分けた。ティアラは突然のフリッツの行動に首を傾げ、眠そうな目をこする。
「あった。これこれ」
フリッツは数本の草を手に戻った。長くすらりとした茎の、縦に長い葉をもつどこにでもあるような雑草だ。フリッツは葉を一枚千切り、それを口元にあてる。それを見たティアラは眠気など吹き飛んだかのように飛びあがった。
「フリッツさん! お腹が空いていらっしゃるのなら」
「違うって。食べるんじゃないんだよ」
一瞬肩を落としたフリッツだったが、気を取りなおしてもう一度手を口元にもっていく。葉を唇に押し当て、わずかに息を吐いた。そのまま微妙な加減を保ち、葉の両端がぱたぱたとなびく。
プーと、気の抜けるような音が出た。音色としてはかなりお粗末なものだったが、初めて見るものにティアラは目を輝かせた。
「まあ!」
「草笛だよ。兄さんが教えてくれた。でも、やっぱり相変わらずだな」
ティアラは興味深そうにフリッツの持つ葉を眺めているので、同じものを千切って渡してやる。
「やってみなよ」
ティアラは草を口元に当てて吹いた。しかし何度やっても音は鳴らない。
「うまくいきませんわ」
ティアラはしょんぼりしたようだったが、何かを思いついたように懐を探った。
「どうしたの?」
「笛と聞いて、思い出しました。まだ皆さんにはお見せしていませんでしたね。これがみなさんでいうところのわたくしの武器、ということになるんでしょうか」
ティアラが取り出したのは笛だった。パーリアでの教皇就任の儀式の際、壊された神器によく似ているものだった。五つの長さの違う筒が並ぶ笛で、筒にはそれぞれ数の違う穴が開いている。
「召喚の契約には、対象を召喚する際に目印となる行為をする、という約束事をする方法をとる召喚士がほとんどです。魔法陣を描く、儀式を行う、舞を踊る、などがそうですね。
わたくしの場合は、本来はある旋律を奏でることなのです。この前の儀式の時は、笛が手元になかったものですから祈りを捧げる、という行為で代用しました」
それを聞いて、フリッツはあることを思いついた。
「それってひょっとすると、決められた方法で召喚しないと、すごく疲れたりする?」
「あら、よくおわかりになりましたね」
フリッツは笑った。
「あの後ティアラが眠り続けていたって、ルダさんに聞いたからね」
「もう、ルダったら。わたくしが未熟なせいですわ、お恥ずかしいです」
ティアラは頬を赤らめた。しかし気を取り直して、笛を口元にやると、音楽を奏で始めた。
フリッツはルーウィンとラクトスがうるさいといって怒り出すのではないかと懸念したが、その心配はまったく不要だった。
笛の音は限りなく優しく、柔らかな音色は滑るように旋律を奏でる。それは子守唄のように、どこか聞く人間の心を落ち着かせるようなものだった。フリッツは思わず目を瞑ってその音楽に聞き惚れた。
演奏を終え、ティアラが笛を下ろすと、目の前に水の小さな渦が現れた。それは小さな水の粒の煙を出すと、次の瞬間ロートルになっていた。フリッツはおお、と小さく声を上げる。
しかし同時に、大した用もないのに呼び出してしまって良かったのか、力を使ってしまっていいのだろうかとフリッツは思った。それを表情から読み取ったティアラは微笑んだ。
「心配なさらないで。ロートルちゃんを呼び出す分には、わたくしは大して力を消耗しません。なにかやってもらおうとすれば、それなりの消耗はありますが。
あの塔で暮らしていたときは、この子が本当に救いになりました。よく見張の者の目を盗んで来ていただいたものです。わたくしの大切なお友達なんです」
ティアラはロートルの頭を撫でた。ロートルは嬉しそうに喉で小さく鳴いた。その様子を見て、フリッツは微笑ましく思った。
ロートルがいて安心している今なら、ティアラの気持ちを聞くのに丁度いいかもしれない。フリッツはそう思い、切り出した。
「旅はまだ始まったばかりだけど、どうかな。なんとかやっていけそう?」
「わかりません。ですが、なんとかやっていくしかありませんわ。わたくしは帰りませんよ」
ティアラはフリッツの目を見て微笑んだ。帰りませんよ、という最後の一言が心中を見透かされているようで、どきっとしたフリッツは慌てて言った。
「違うよ、ぼくはティアラに帰ってもらいたいなんて、これっぽっちも」
「わかっていますわ。でも、ルーウィンさんとラクトスさんには、まだまだ受け入れられていないでしょう? わたくし負けませんわ。一日でも早くお二人にも認めてもらえるよう、頑張ります」
ティアラはロートルを膝の上に抱きかかえ、強い眼差しで言い切った。そこに彼女の本気と覚悟、まだまだ有り余る気力を見て、フリッツは安心した。
二人は眠気を紛らわせるために、夜が更けてからも取り留めのない話を続けた。
そして翌朝、フリッツとティアラは案の定眠りこけていた。小鳥がさえずり始めても起きない二人を見て、ルーウィンとラクトスは顔を見合わせた。
「あーあ。やっぱり寝ちゃってるわ、この二人」
「で、本当のところどうなんだ。夜通しの見張りは必要だったのか、それともあいつに負担を与えたかっただけなのか」
言ってラクトスはティアラを見た。ルーウィンは肩をすくめる。
「さあね」
ラクトスは頭を掻いた。
「本音を聞くためと、根性試しってとこか」
「あんたがなにを勘違いしてるのか知らないけど、あたしは爆睡してて何も聞いちゃいないわよ」
ルーウィンはそう言うと、弓を背負って朝の練習に出掛けた。ラクトスはすっかり消えた薪を挟んで眠っている二人を見て、ため息をついた。
「さて、どうしたもんか」
翌日、一行はコナサ峠に差し掛かった。この峠を越せば、パーリアは見えなくなる。
急勾配の道が続く中、一行は黙々と進み続けた。足場は道として整備されてはいるが、大きな石が足元に転がっていることもある。天気に恵まれたのは良かったが、太陽は山道を行く人々を容赦なく照らしつける。
ふとフリッツはティアラの様子を見た。息を切らして歩いているが、足はまだ進んでいる。いつもより口数が少なかったが、山道での激しい消耗のためだろう。
「大丈夫? 少し荷物持とうか?」
そうは言ってみたが、フリッツも体力的にいっぱいいっぱいだった。
「だ、大丈夫です。わざわざ気遣ってくださって、ありがとうございます」
ティアラは微笑んで、その申し出を断った。しかしその笑みには苦痛が見え隠れしているような気がした。 彼女が頑張ると言うのだから、任せようとフリッツは思った。先を行っていたルーウィンは足を止めて振り返り、そのやりとりを見ていた。
そして一行はなんとか峠の最高地点にたどり着いた。
「少し休憩しましょ」
ルーウィンのその言葉を聞いてティアラはほっとしたようだった。湧き水の給水ポイントがあり、各々水筒に水を補給した。ちょうどいい石があり、皆それぞれ腰を落ち着け、上り坂でむくんだ足を投げ出した。
フリッツは今まで来た道を振り返って伸びをした。
緑が広がる中に、ぽつんと見える白い点。ティアラの故郷、パーリアだ。数日前に、自分たちがあの街で大立ち回りをしたことが嘘のようだった。頂上といってもそれほど高い場所ではないので、ガーナッシュはおろかキャルーメルすら見える気配はない。
しかしずいぶん遠くへ来たものだと、フリッツはぼんやりとその景色を眺めた。
突然、地面に腰を下ろして休んでいたルーウィンが立ち上がった。
「あんた、本当に引き返さなくていいの」
その視線はまっすぐにティアラに向けられている。
「ちょっと、ルー…」
フリッツは何か言おうとしたが、ラクトスにそれを制止された。ここまで来ておいて、あんまりな言い方だとフリッツは思ったのだ。
しかしフリッツの方は見向きもせずに、ルーウィンは話を続ける。
「あの街には、あんたの居場所がある。帰るなら今のうちよ」
脚を放りだし木陰で涼んでいたティアラは、突然の奇襲に驚いたようだった。
だがすぐに姿勢を正し、ルーウィンの視線に答えた。女同士の視線がバチバチとぶつかり合うのを見ていて、フリッツはどうしたらよいのかわからなかった。ラクトスは黙ってその様子を見ている。
「これはわたくしが決めたことです。迷ったりはしませんわ」
柔らかな声音ではあったが、その言葉には確かな決意が表れていた。形の良い眉がやや寄せられる。
揺るぎのない瞳だった。しかしルーウィンも負けてはいない。
その瞳を、反らすことなく見つめ返す。
「もう一度言うわ。本当に、それでいいの」
「ええ」
間髪いれずティアラは答える。
ティアラは譲らなかった。まだ完全に身体が治らない父を残してまで旅立った、彼女にとっては一世一代の決断だった。不安よりも期待が上回り、困難よりもそれを上回る喜びを掴み取ることが出来ると信じていた。
彼女は自分ひとりではなにも出来ないことを知っていた。そして自分が今のままでは単なるお荷物であることも、測られていることも、重々承知していた。
しかし、ここで帰ることを促され、それに大人しく従うような想いで故郷を発ったのではない。
「今はまだ足手まといにしかなりません。でも、少しでも早く旅に慣れお役に立ってみせます。
わたくしを連れてきて良かったと、みなさんに思っていただけるよう頑張ります。
わたくしは帰りません」
二人はしばらく目を合わせたままだったが、やがてルーウィンは目を閉じた。それとともに溜息が漏れる。ルーウィンはおもむろにしゃがんだ。
「足。見せて」
その言葉に、ティアラは一瞬目を見開いた。やがて観念したように、おずおずと手を脚に伸ばす。白いブーツの中から現れたのは、ところどころ赤く染まった布切れと、傷だらけの足だった。
「うわ、痛そう。ひどい靴擦れ」
思わずフリッツはそう漏らした。ティアラの足には大きなまめが出来ており、それはつま先、踵など数箇所にも及んでいる。すべてが無残に潰れていて、じくじくと悲鳴を上げていた。
「相当酷いな。いつからだ」
渋い顔をしてラクトスが口を開いた。ティアラではなく、ルーウィンが答える。
「パーリアを出てその日のうちによ」
「お前、気がついてたなら」
ラクトスの呆れたような反応に、ルーウィンは鼻で笑った。
「これで帰りたいって言ってくれればいいなと思ったのよ。ほら、フリッツ。ぼけっとしてないで消毒液出す。水汲んできて、あと包帯ね」
「あっ、はいはい」
フリッツは背中から荷を下ろし中を掻き回した。
悪戯が見つかってしまった子供のように、腰掛けたティアラはしゅんとうな垂れている。
「履き慣れた靴でしたのに」
ティアラは恨めしそうに白いショートブーツを見た。パーリアの街ではきちんと磨かれていたそれも、
今は泥で薄汚れ、枝の作った擦り傷でいっぱいだった。
「いくら慣れてるからってこれはだめよ。山道に向いてない。次の街に着いたらもうちょっとマシなやつ買ってあげるから、あと少し我慢するのね。また慣れるまでに時間がかかると思うけど」
ルーウィンは見事な手際で、てきぱきと手当てをしていく。
「そんな顔しない。こんな靴でも、いままであんたを守ってくれたんでしょ」
「そうですわね」
下を向いたままのティアラに、ルーウィンは言った。
「治癒術使ってもいいのよ。でもそうすると、いつまでたっても足の皮が丈夫にはならないから、また振り出しになるけど」
「治癒術は使いません。申し訳ありません、お手数をおかけします」
ティアラは顔を上げてルーウィンを見つめた。申し訳ない、自分の非力さが悔しい、といった表情だ。
ルーウィンはそれを見て、ほんの少し口の端を吊り上げた。
「旅するってことは、想像以上に大変なことよ。女は特にね。面倒くさいこともいろいろあるし。
まともな食事にありつけるかわからない。ちゃんとした寝床もない。毎日水浴びできるわけじゃない。
それは仕方のないことだけど」
ルーウィンの手は相変わらずの速さで動いている。
「あいつらはなんだかんだで、ド素人でも毎日身体動かしてたみたいだから、ここまで来れてる。
でも、あんたはそうじゃない」
消毒液をつけてやると、ティアラはわずかに顔をゆがめた。それには構わず、ルーウィンは手際よく包帯を巻いていく。
「こんな土踏まずもまともに出来てないようなお嬢様じゃね。靴擦れだって初めてなんでしょ。
食器や服だって洗ったことなかっただろうし。これからどんどん手が荒れるわ」
ティアラの手はすでにあかぎれがいくつか出来ていた。実はルーウィンは誰よりも、ティアラの傷の状態を把握していたのだ。ティアラの足は白い包帯で丁寧に巻かれた。最後に包帯の端を切って縛り上げ、ルーウィンは処置を追えた。
ルーウィンはしゃがんだまま、ティアラの瞳を覗き込む。
「この数日間よくやったわね。ここを越せばしばらくは引き返せない。あんたの覚悟が見たかったのよ」
ルーウィンは初めてティアラにねぎらいの言葉をかけた。
処置をしてもらっている間、ティアラはずっと黙っていた。しかしルーウィンが腰を上げると、その口を開いた。
「わたくし、ちゃんと気がついていましたわ」
ティアラはルーウィンを見上げた。
「わたくしは朝起きるのが遅いのに、なぜか朝食は冷めてはいませんでした。どなたかが暖めなおしてくださったんですのよね? 目が覚めると、ほどけてしまっていたはずの包帯がきちんと直されているのです。
これもどなたかが直してくださったんでしょう」
ティアラはルーウィンに微笑んだ。
「ルーウィンさんは、わたくしを応援してくださっていたんですね。わたくしが毎日を頑張って歩けるように」
それには答えずに、ルーウィンは言った。
「痛いだろうけどこれぐらい我慢しなさい。さ、日が暮れる前に村に着かなきゃね。もう十分休んだわ、
とっとと行くわよ」
「はい!」
ティアラは元気よく返事をした。
彼女が立ち上がるのを待つことなく、ルーウィンは先頭を切って峠を下り始める。フリッツはティアラが立ち上がるのに手を貸して、目配せした。ティアラは嬉しそうに笑った。
ティアラをラクトスに任せ、フリッツは先を行くルーウィンに追いついた。向けられる視線に気がついて、ルーウィンはぶっきらぼうに言う。
「なによ」
「なんだかんだで、ルーウィンなりにティアラのこと考えてくれてたんだね」
フリッツが笑うと、ルーウィンは顔を背けた。
「そんなんじゃないわ。足手まといはこれ以上いらないのよ」
フリッツは素直じゃないなあと思っていたが、彼女の言い回しに引っかかるものを感じて顔色を変える。
「あの、ルーウィン? これ以上って、どういう意味?」
「さあね」
ルーウィンはそう言って意味ありげに笑った。フリッツはショックを受けて、唸って身の振り方を考える羽目になった。
相変わらず颯爽と先頭を歩き続けているルーウィンだったが、その日はいつもに比べてややペースがゆっくりだった。ティアラが峠を越えるということが、ルーウィンの中での一つの判断基準になっていたようだった。ルーウィンは、まだ完全にではないにしろ、ティアラのことを認めはじめていた。
なにはともあれ、ティアラは第一関門であるルーウィンを突破したのだった。