【第4章】
【第四話 初めての二文字】
試合が始まり、フリッツの対戦相手の青年は剣を構えた。
この相手はちょろい、楽勝だ。
初戦で敗退すれば門下生仲間に幾らか奢ってやる予定だったが、これは自分が奢ってもらう方だなと、内心ほくそ笑んでいた。
「へえ、きみアーノルド流なんだ。渋いねえ、もしかしておじちゃんっ子?」
目の前の相手は、自分にはまったく手応えのない相手だった。
いかにもひ弱そうな表情と、貧弱な装備と、おまけに木製の剣ときた。自分をばかにしているのかと思いきや、そうではないらしく、それが少年の標準装備らしい。
大方、ずいぶんと南の方の田舎からひょっこりやってきて、真剣も握ったことがなく、木の棒しか振り回すことの出来ない貧乏修練所の、可哀想な門下生なのだろう。
自分はクーヘンバウムの競争率の高い修練所で、年功序列の不条理さに耐えながら、先輩たちがいなくなったことでようやく二、三年前に大会にエントリーすることができるようになった。去年も一昨年もその前も、大会では割といい成績を残している。
自分は場数を踏んでいる。こんなお上りさんを叩きのめすのは心が痛むが、自分が上へ進むためだ。剣の道は弱肉強食、許せ少年、と青年は思った。
ただ人生の先輩として、ここに居ることは場違いなのだということを、自分はこのひ弱な少年にきっちり教えてやらなければならない。
お前にこの闘技場は、百年早いんだよ、と。何回もこの場で戦ってきた自分には、その権利がある。
「どうした? 受け止めてるだけじゃ勝てないぞ!」
青年はたて続けに攻めた。ひ弱な少年は、自分の剣を受け止め、護ることでいっぱいいっぱいなようだ。
とてもじゃないが、自分のこの攻めの連続に、反撃の瞬間を見出せないらしい。
力がないというのは、みじめなものだ。公衆の面前で恥を晒さなければいけない。初戦で観客が少ないのが幸いだなと、青年は同情した。
しかし青年はあることに気がつく。少年は一向に仕掛けては来ないが、自分の剣が届くこともない。
それはおかしいと、青年は切りつけてやるつもりで剣を振るった。遠慮をするのは、相手に失礼だろう。
しかし、それでも少年はしつこく自分の刃を受け止める。
青年はやっと気がついた。自分の技を「見られている」ことに。
(こいつ、おれを分析しているのか!)
少年の立ち位置が依然動いていないのをみて、その予感は確証に変わる。
少年は自分の猛攻を受けても、最初の位置から一歩も退いてはいなかった。
フリッツは目の前の相手に集中した。さっきまでの緊張は、嘘のようになくなっている。
目の前の相手が、どう出てくるか。その一点に全てを向けた。相手の柄にこめる力がやや強くなったような気がした。来ると思ったら、本当に攻めてきた。予兆はわかっていたので、慌てることはない。
相手はロズベラー流だ。今一番主流な流派で、剣士の七割方はロズベラー流を修めている。
よほど自信があるのだろう。無駄口を叩く、その余裕は大したものだった。口先ばかりでなく、剣の腕もほどほどにある。おまけに装備もばっちりで、軽くて物のよさそうなメイルを身につけている。
大会や試合など何回も出場して、いい加減飽きてしまったのだろうか。彼は、自分を愉しませてくれとでも言いたげだった。
フリッツは、自分が相手になめられているのがわかっていた。
(なめてもらって、結構)
自分はなめられて当然の人間だし、実力より上に見てもらう必要はまったくなかった。
相手の油断を誘う。それが生まれながらに出来ている。すごいことだと師匠には褒められたが、当時はあまり嬉しくなかった。それは要するに、顔のつくりや雰囲気が弱々しいということだ。
誰だって、自分が相手より格下に見られることは気分のいいことではない。しかしこういった局面で、それはフリッツにかなり強力な味方となってくれる。相手は自分を見くびっていて腹が立つなんて、とんでもない。相手がフリッツを侮ることで油断している隙に、フリッツはそれをありがたく利用させてもらうのだ。
握っているのは木製の剣。相手を傷つける心配はしなくていい。自分が斬られないようにするだけでいいのだ。なんと気が楽なのだろう。
相手の斬り込みを受け止めているとき、フリッツはふと思った。
(…楽しい、かも)
自分が相手の攻撃を危なげなく受け止めている。思考をする余裕すらある。
フリッツがロズベラー流に接するのは久々だった。フリッツがロズベラー流を習っていたのは六歳までで、それまで覚えた型はきれいさっぱり忘れてしまっていた。マルクスと二人修練所に篭ってからは、アーノルド流以外の他の流派に触れる機会などなかったのだ。
盗賊の頭は自己流の力任せの剣の振るい方をしていたし、パーリアの僧兵とは逃げるばかりでたいして剣を交えてはいない。この機会にぜひとも、修練所で日々腕を磨いているであろう門下生の、ロズベラー流の正しい型を間近で見ておきたいと思ったのだ。
相手が攻撃の手を休め、一歩退いた。心なしか、若干表情が強張っているようだ。
(見ていることに気づかれたかな)
流派の基本的な型や動きをじっくり見せてもらい、彼の癖もしっかりと見させてもらった。だいたいの攻撃のリズムは把握した。この人の場合は、押して押して押して、斬る。そして攻撃に移るときの動き。右のわき腹がガラ空きになる。
ここからは自分の番だ。
ただし、相手に自分をじっくり見られてしまっては意味がない。アーノルドの型はほぼ完璧に身体に染み込ませているはずだが、それでもフリッツの癖がないとは言い切れない。パターンや癖は、相手に付け入る隙を大いに与える。
そして気弱なフリッツは、そんなことをされては勝てる見込みがないことを知っていた。
自分はじっくり見たくせに、自分は一切見せるつもりはなかった。
自分は強者ではないから、なにもわざわざ相手にサービスして手の内を見せてやる必要はない。
今、この瞬間。相手が下手な考えを巡らせている、今のうちに。
木の棒切れで相手を倒す方法。それは相手に、完全に負けたと思い知らせる方法に他ならない。木の棒を突きつけられても、相手はさっさと真剣で振り払うだろう。
さて、どうすれば「試合」に「勝てる」か。
(すぐ、だ)
フリッツは重心を低くし、素早く相手の懐に飛び込んだ。フリッツの獲物を狙うような眼差しと、相手のおどろきに見開いた瞳とがかち合う。そして木製の刃で相手の柄と刃の間あたりを剣で薙ぎ払った。
青年は驚いて小さく声を上げる。彼の手の中から、柄は弾かれて宙を舞った。
真剣はくるくると輪を描き、リングを飛び越えて、場外の地面にカランカランと乾いた音をさせて転がった。
地味な戦いだった。
しかし見る者が見れば、それは洗練された一切無駄のない所作だとわかるものだった。
思いつきの特訓や一夜漬けではものにできない、付け焼刃などではない、その安定感と堅実さ。幼い頃から、一心不乱に、そのことしか考えず、毎日毎日馬鹿みたいに剣を振るう者の剣。
危なげのない、安定した勝利だった。
一瞬のことに、会場の拍手はまばらだった。一番前で見ていたルーウィンたちも、あまりにあっという間に勝負がついたので、どうリアクションしていいのか体がついていかなかったほどだ。
だが、どこからが大きくゆったりとした拍手が聞こえ、そう多く客のいないはずの観客席から、やがて大きな拍手が降り注いだ。
「勝者、赤。両者前へ。礼!」
審判がそう言って、フリッツは頭を下げた。
「フリッツの一勝に」
「「「「かんぱーい!」」」」
宿屋の階下の食堂で、四人はジョッキを掲げるとガチンと音を鳴らした。そのまま口に運んで、数口飲む。フリッツはすぐに口を離した。
ティアラは乾杯すら知らずわざわざ教えたのだったが、大きなジョッキを両手で抱えている様子は可愛らしい。それに比べてルーウィンは片手を腰に当て喉をそらし、まるでおっさんのような飲み方だったので、フリッツは思わず笑ってしまった。中身はもちろん、健全な若者の飲み物リンゴジュースだ。
「いやあ、まぐれだけどね」
フリッツはややはにかんで頭を掻いた。しかし口元がにやついてしまうのをどうしても隠し切れない。
「ほんとよ、まぐれよ、まぐれ! 相手が緊張してて良かったわね。この調子で次も頼んだわよ」
酔ってもいないのにすでに出来上がっているようなルーウィンが、ばしばしとフリッツの背中を叩いた。
勝利を祝ってくれるのは嬉しいが、まぐれと言われすぎるのもどうだろう。フリッツは喜んでいいのか落ち込んでいいのか、内心複雑だった。
ルーウィンが左手にジョッキ、右手にハムとチーズの刺さったフォークを持ちながら、唐突にフリッツに尋ねた。
「あんたってさあ、前から思ってたけどアーノルド流なんだよね。このご時勢に」
「今はロズベラーが主流だもんな。お前、どうしてアーノルドなんだ?」
ラクトスにも便乗され、フリッツは少し言いにくそうに視線を逸らす。
「…師匠がアーノルド流だったから」
「え? 流派ありきでマルクス師匠についたんじゃないの?」
口いっぱいにものを詰めたルーウィンが、驚きに目を見開いた。
「ぼくのことはいいじゃないか。色々あったの!」
本当は色々、というほどのことはないのだが。フリッツはわざとはぐらかした。散々バカにされるかと思ったが、意外にもルーウィンもラクトスも深くつっこんでは来なかった。
「でもアーノルド流にはちょうどいいじゃない。あんたにぴったりな流派だと思うわ」
「フリッツさんは、アーノルド流に向いているということですの?」
ティアラがルーウィンに訊いた。
「そうそう。アーノルド流は小回りと素早さに重きを置く流派なの。だからフリッツみたいな低身長にはうってつけってわけ」
「…て、て! ルーウィン、今きみなんて言った?」
フリッツはその言葉を聞いてわなわなと肩を震わせはじめた。珍しくフリッツが殺気だったのを見て、ルーウィンはやっちゃったとばかりに舌を出す。
「あらら、禁句だったか。ごめんごめん」
へらへらと笑うルーウィンに、フリッツはむきになった。
「きみだって人のこと言えないじゃないか」
「あたしは女だからいいのよ別に」
「ぼくだってちょっと人より小柄なだけだよ!」
「はいはい、その通りですね」
キーキー声を上げながらしつこく抗議をするフリッツを、ルーウィンは面倒くさそうにあしらった。
ラクトスはそれを放っておき、ティアラに説明してやる。
「話を元に戻すか。対して、ロズベラーは派手な動きと威力で攻める流派だ。
両者はそれぞれの特徴が相反するから、もしかしたらアーノルド流に慣れていない相手に当たれば、フリッツはけっこういいところまで勝ち進めるんじゃないか、って話だな。
そうすればその賞金でお前らの贖罪をし、おれたちは晴れて自由の身となるわけだ」
「すみません」
「返す言葉もありません」
ティアラとフリッツは続けざまに頭を下げた。
まだ初戦に勝っただけで、賞金などどこにもないというのに、その日一行は考え付くままに飲んだり食べたりした。そんなに注文するなという、ラクトスのお小言もなかった。席についての久々のまともな夕食であったし、やはりフリッツの初勝利に対する意味合いが大きかった。
ルーウィン以外の三人がお腹をぱんぱんにしているにも関わらず、まだメニューに目を通しているルーウィンを見て、さすがにラクトスも待ったをかけた。宿屋の厨房から、げっそりとした料理人が恨めしそうにこちらを見つめはじめたこともあり、ラクトスは声をかけた。
「おし、今日はもうお開きだ。フリッツは明日に向けて体力つけなきゃいけないしな」
約一名を除き、フリッツたちは苦しくなった腹を抱えて二階の宿部屋へと上がった。小さい部屋を二つとり、分かれて休むことにした。
フリッツはぱっちりと冴えてしまった目を開けて、天井を見つめていた。クーヘンバウムの街は眠らないと聞いていたが、どうやらそれは本当だった。窓の向こうはなんとなく騒がしく、カーテン越しに魔法のネオンがぼんやりと見える。
この日の食事は、いつになく美味しいものだった。勝利の味、というものだろうか。
思えば、こうして自分の勝利や功績を祝われるのは生まれて初めてのことだった。
実家が小さな修練所だったため、幼いフリッツは村の子供たちに混じって物心ついた頃から剣を握っていた。しかし練習でもちゃんばらでもその成果が発揮されることはなく、加えて不器用だったため、フリッツはいつも子供たちの笑いものだった。
いじめられて孤立していたわけではなく、遊びには誘ってくれるのだが、それでもやっぱり遊びの終わりにはいつもみじめな思いをして家へと帰っていた。
みんなは自分を笑いたいがために連れて行くのではないかと、何度も疑心暗鬼になった。実際、悪気はないにしろある程度そういうことはあったのだろう。
自分より下の立場の人間を笑うことは、子供心に優越感を生み出す。そして自分は、価値のある人間なのだと思える。そこに悪気も、悪意もないのだ。
そんなフリッツを見て両親はがっかりしたかといえば、そんなことは決してなかった。
なぜなら両親はアーサーに夢中で、フリッツのことなど少しも視界に入ってはいなかったからだ。ありのままのフリッツを見てくれたのは、アーサーただ一人だった。
しかし今は、こうして自分の勝ちを共に喜んでくれる人がいる。
フリッツはそのことに、胸がいっぱいになった。
修練所を出る前は師匠以外に勝負をしたことなどなかった。それからは盗賊の頭や、召喚されたモンスターや、僧兵など、何人かの相手と命のやりとりをしたことはある。
それはいつも綱渡りで、戦いが終われば安堵が大きく、とても勝利の喜びに浸る暇などなかった。
しかし今回の闘技大会は、真剣を使ってのやりとりで怪我の危険はあるものの、間違っても命を懸けた勝負ではない。
試合という、正々堂々、自分の実力を発揮できる場所なのだ。
フリッツは、またしても口元がにやついている自分に気がついた。
(ぼくはひょっとして、勝てて嬉しいんだろうか。自分が思っていたより、ものすごく)
勝利。それはフリッツにとって、初めての二文字だった。
(そうか。ぼく、勝てたんだ…)
頬が緩んできて、フリッツは両手でばしばしと顔を叩いた。こうして気を緩ませてばかりはいられない。
(明日も頑張ろう。ぼくの持ってる力なんて微々たるものだけど。それを全部出し切って、できたら、また勝とう)
勝てて嬉しいという、単純な感情。
それは自信へと繋がる欠片になる。フリッツに今まで欠けていたものが、少しだけ埋められたのだ。
フリッツは寝返りを打って、瞼を閉じた。
明日に向けて、力を蓄えるために。