【第5章】
【第五話 森での暮らし】
朝日が昇り、ステラッカの森は徐々に眠りから目を覚ます。鶏たちがけたたましく鳴き、一日の始まりを告げる。濃い緑は朝日を反射させながらも、光を森の中へと静かに静かに落としていく。それに気づいた動物たちはそわそわと寝床を抜け出し、森の人間たちもゆっくりと動き出す。
生命力の満ち溢れる、森の朝だった。非常にさわやかな気持ちでフリッツは日課の朝の修練をこなす。肌寒いくらいだった空気が、森の中に光が満ちるにつれて柔らかくなっていく。小鳥が頭の上のほうでさえずるのが聞こえた。フリッツは木製の剣を腰に挿し、カーソンの家へと戻った。
よく磨かれたテーブルには小瓶があり、スミレの花が挿されている。木漏れ日は窓を通って、床に不思議な文様を描き出していた。白いレースのカーテンが揺れる。パンを焼く香ばしさと、ジャムの甘酸っぱさ。野菜を切る音がリズミカルに聞こえ、バターの香りが部屋いっぱいに広がる。伏せられた人数分のコップの横には、ミルクのビンが置かれていた。
すでに身支度を整えたメアリが朝食の準備をしていた。フリッツは声を掛けた。
「おはようございます」
キッチンに向かっていたメアリは手を止め、振り返ってフリッツに挨拶をした。
「あら、おはよう。今日もフリッツくんは早いのね」
「なにか手伝いましょうか」
「じゃあ、残りの寝ぼすけさんたちを起こしてきてくれないかしら」
フリッツが寝室へ向かおうとすると、ラクトスが起きてきた。
「誰が寝ぼすけだって?」
「ラクトスくん、おはよう。あなたは卵を割ってくれる?」
「へいへい。仰せのままに」
最初はメアリを苦手としていたラクトスだったが、逆らうと面倒くさいと判断してか、今ではつっかかることなく彼女に大人しく従うようにしている。そんなラクトスを見るといつも笑いがこみ上げてくるが、本人に睨まれるので、フリッツはこっそりと口元を隠していた。
フリッツは、マリィとまだ一緒に寝ているティアラを起こし、続いてカーソンを起こした。小さなテーブルに計六人が身を寄せ合って座り、メアリの掛け声と共に手を合わせた。
「いただきます」
フリッツはほかほかのオムレツを口に運びながら、不思議な感覚に囚われていた。
自分は今、旅をしているはずだった。それがこんなにさわやかに目覚め、こんなに快適に暮らし、こんなに美味しく朝ごはんを食べている。それも野営ではなく、宿屋でもなく、数日前までは見ず知らずの他人の家で。
目の前の光景は、さわやかな朝にふさわしいカーソン夫妻の仲睦まじいやりとり。この夫婦が、この家族が何者かに狙われていることなど、忘れてしまいそうになる。自分たちはこの家族の護衛を引き受けている。そうでなければ、フリッツはこの場にいるはずもないのだった。
いってらっしゃいとメアリやティアラに見送られ、フリッツ、ラクトス、カーソンの三人はその日も樵の仕事場へと向かった。
「…おれ、このままここで樵になっちまうのか」
森の中の小道を歩きながら、ラクトスが片手で顔を抑えながら嘆いた。フリッツにとっては安らいだ日々でも、ラクトスにとってこの生活は毒であるらしい。
「なったらいいじゃないか。いっそのこと、うちの養子になってみるかい?」
カーソンは笑った。ラクトスは心底嫌そうな顔をする。
「悪い冗談はよしてくれ。こんな生活続いたら、おれはおれでなくなっちまう」
「ラクトスの家、大家族で楽しそうだったじゃないか。そんなに違う?」
フリッツは首を傾げる。ラクトスの家はきょうだいの多い大家族で、賑やかで明るい家庭だ。ラクトスは遠くのほうを見ながら言った。
「食事は優雅に味わって食べるもんじゃない、戦争だ。幼い弟たちに譲らない年長者ども、さらに子供を蹴落とすかのように食事を豪快にかっさらっていく親父。寝るのも雑魚寝で、押し合い圧し合いのポジション争い。母親に命令された仕事を、いかにそれらしく自分より下のきょうだいに押し付けるか。家庭っていうのは、家族という名の、個人のぶつかり合う戦場だ」
「へえ、いいなあ。楽しそう」
なるほど、カーソンの家とは大違いだとフリッツは納得する。しかしどちらも楽しそうなことに変わりはなく、フリッツは羨ましく思った。
カーソンの家にフリッツたちが住み込みはじめて、すでに五日ほど経っていた。起きて朝食を食べ、カーソンと仕事に出掛ける。樵たちの仕事を手伝い、ワルモーンが出れば追い払う。日が暮れればカーソンの家へと帰り、腹を満たして心地よい眠りにつく。そんな安穏とした日々を送っていた。
フリッツたちはまだ、カーソンを付け狙う何者かの存在を確認できていなかった。フリッツたちが来てからは視線を感じなくなったと、カーソン自身も言っている。樵たちからの依頼はこなしているものの、肝心のカーソンの依頼のほうはこう着状態にあった。それは同時に、ルーウィンについての進展もなにもないことを意味している。
小道を抜け、少し開けた場所に伐採場はあった。他の樵たちに挨拶をし、納屋へと向かってフリッツも斧を持つ。
「ぼくたちが来てから、まだ何者かは、姿を見せないですね!」
フリッツは力をこめて斧を振り下ろした。木はまだまだ折れる気配はない。
「疑うかい? やはりわたしの思い込みだと、そう思うかい?」
同じようにその近くでカーソンも木に向かって斧を振るっている。
「そんなことは、ないです!」
フリッツは懇親の力をこめた。木はミシミシと音を立て、フリッツの狙った倒したい方向へとゆっくり傾いていく。
「おーい、倒れるぞー!」
別の樵が叫んで、他の樵たちも口々に「倒れるぞー!」と叫ぶ。木は音を立ててより鋭角に傾き始め、ついには地面へとその身を預けた。
「おっさんたち、絶対怪我するからな! こんな適当なやり方!」
魔法書に目を通していたラクトスは樵たちに向かって怒鳴った。どうやら倒れた木のてっぺんがラクトス目掛けて降ってきたらしい。
「適当じゃないさあ。わしらなりに倒れる道筋は決まっとるからな」
「あんたもそんなところで本なんぞ読まないで、斧を振ったらいいのに。爽快だぞ!」
樵たちはラクトスに向かって口々に叫んだ。ラクトスは大声で言い返す。
「だれがするか!」
「あいつもなかなかつれないなあ」
そう言って樵たちはかっかっかと笑った。
樵たちは最初は無愛想だったものの、何か手伝えることはないかと熱心に尋ねてくるフリッツにしぶしぶながら仕事を教えた。要領の悪いフリッツは覚えも遅く、なかなか思うように行かなかったが、フリッツが最初に木を倒したときはみんなで輪になって喜んだ。それほどまでにフリッツが不器用でいたたまれなかったせいなのだが、フリッツは単純に皆良い人たちだなあと感動していた。
ラクトスは請け負った仕事は樵の手伝いではない、あくまでモンスターの駆除だと主張してずっと魔法書を読みふけっていた。そんな身勝手なラクトスに、職人気質の樵たちは非常に腹を立てた。しかしいざワルモーンがやってくると、樵の仕事に夢中になっていたフリッツはそのことに気がつかず、いち早く事態に気がついたラクトスがフレイムダガーでなんなく追い払った。初めて魔法を見た樵たちのテンションはたちまち膨れ上がり、調子に乗ったラクトスが色とりどりのキャンプファイヤーを披露したことで両者の心の壁はあっけなく取り払われた。
樵たちはラクトスに言いたいことを言った後、それぞれまた自分たちの持ち場に戻っていった。それを見計らって、カーソンがフリッツの近くにやってきた。
「きみたちが来てくれたことで、怪しいやつもどこかへ行ってしまったのかもな」
「それは都合が悪いな。場合によっちゃあ、おれたちが一旦引いたと見せかける必要があるかもしれない」
頭に葉っぱをたくさんくっつけたラクトスが魔法書を小脇に抱えて現れた。
「都合が悪い? どうして?」
フリッツは聞き返す。ラクトスは忌々しそうな顔をして、頭に付いた葉を一つ一つ摘んで捨てた。
「おれたちがこの件から手を引いたら、また戻ってくるかもしれない。そうなりゃ元の木阿弥だ。ここはきっちり、誰がどういう理由であんたを付け狙ってるか、白黒はっきりさせたほうがいいと思うぜ」
「それもそうだな。うん、ちょっと考えておくよ」
カーソンはそう言うと、自分の持ち場へと戻っていった。それを見届けると、ラクトスはフリッツの頭を軽く殴った。突然のことに、フリッツは驚いて声を上げる。
「あ痛っ!」
「お前はこのまま樵に転職する気か!」
フリッツは頭を撫でながら笑った。
「樵もなかなかいいかもしれないよ」
「バカ言ってる場合じゃないだろ」
「転職、って。そもそも、ぼくって冒険者なのかな。冒険者って職業なの?」
「冒険者なんてまともに暮らせなかった人間の末路だ。少なくとも、おれは冒険者なんかじゃない。腐っても魔法使いだ」
「そうか。じゃあぼくも剣士だね」
フリッツとそこまで会話して、ラクトスは頭を抱えた。そしてフリッツの耳を強く引っ張ると、耳元で怒鳴った。
「お前なあ! お前はここに、なにしに来てるんだ。樵になりに来たのか? 違うだろうが」
「ご、ごめん!」
フリッツは引っ張られてじんじんする耳を押さえた。以前はルーウィンがフリッツに手を出していたが、彼女がいなくなると今度はラクトスがそれをするようになった。一方が手を挙げ、それを見て気分が冷めたもう一方がなだめにかかる。ルーウィンとラクトスは互いに同属嫌悪も激しかったが、案外良いバランスを保っていたのかもしれなかったと、フリッツは涙目で思った。
ラクトスは腕を組んで考える。
「あっちが動きを見せなきゃ、こっちはどうすることもできない。つけ狙っているのが、本当にあいつかどうかもわからないんだ。今度こそ八方塞だな」
さてどうするかと、ラクトスは杖を支えに近くの切り株に腰を下ろした。
その時だった。フリッツは遠くのほうで、カーソンの叫び声を聞いた。
「今、カーソンさんの声がした!」
フリッツは斧をその場に置き、真剣を取り出した。ラクトスも腰を上げる。
「モンスターか。今日もお出ましだな」
「あっちだ、行こう!」
フリッツとラクトスはカーソンの向かっていた方へと走り出した。
ワルモーンとは、森や荒野など、どこにでも現れるモンスターだ。群れで行動することが多く、一度その群れに取り囲まれてしまえば生きて帰ることは難しい。強いて言えば、犬に似た容姿をしているが、その体躯は犬よりも大きく、嗅覚はより優れ、牙と爪は非常に殺傷能力の高い武器となる。夜に現れることが多いが、この森では真昼にも関わらず目撃されることが多い。童話などで悪役として描かれることもあるほど、その残忍さと狡猾さは世に広く知れ渡っている。
フリッツたちは、しゃがみこんでいるカーソンを見つけた。つい最近伐採したばかりの場所で、森の中に丸く空き地になっている場所だった。その中心にカーソンがいる。しかしその周りを、ぐるりとワルモーンの群れが取り囲んでいた。
「おいおい、ここ一番の数の多さじゃねえか!」
ラクトスはその場で足を止めて詠唱を始める。
「カーソンさん! 大丈夫ですか?」
フリッツはカーソンに向かって叫んだ。カーソンは斧を振り回して相手を威嚇している。それが効いているようでまだ襲われてはいないが、時間の問題だった。カーソンの背後に、群れの一匹が忍び寄る。背中から飛び掛られてはひとたまりもない。
フリッツは叫んだ。ワルモーンたちはフリッツに注意を向けた。不意を付いて、カーソンに襲い掛かろうとしたワルモーンに一太刀浴びせる。少し手ごたえがあったが、それでも相手はピンピンしていた。身を翻すと、フリッツのほうへと向かってくる。
「フリッツくん!」
カーソンが叫んだ。フリッツは飛び掛ってくるワルモーンを剣で抑えた。しかしその鋭い爪でフリッツを引き裂こうとあがいている。
「待たせたな!」
ラクトスが声を上げて、杖を掲げた。杖の先から赤い炎の渦が生まれ、その中から小さな火の粉が刃物のような鋭さでワルモーン目掛けて飛んでいく。炎が毛皮に燃え移り、ひるんだところをフリッツは狙った。フリッツが隙を突いて二匹、三匹と倒す。その間にラクトスが詠唱する。
再びフレイムダガーが炸裂し、フリッツはまたその隙を突いて倒す。フリッツに燃え移りそうなことも多々あったが、なんとか髪の先が焦げるくらいで事なきを得た。視界の端にカーソンを捉えて、フリッツは叫んだ。
「危ない!」
カーソンが別の一匹に今まさに襲われそうになっている。ここからではフリッツも間に合わない。ラクトスもタイミング悪く詠唱中だ。
「うわあああ!」
カーソンはこの世の終わりかのように叫んだ。しかし、次の瞬間、フリッツは驚きを隠せなかった。
カーソンは逃げる体勢に入っていたはずだった。腰が逃げに入っている。そのはずだった。
しかし逃げ切れないのを悟ると、瞬間的にカーソンの足は動いた。地面に踏ん張る構え。大地を踏みしめる。斧の柄の握り方が、変わった。獲物を仕留める握り方だ。
大きく振りかぶり、体重を乗せて下ろす。その単純な動作は見事にかみ合い、ワルモーンがカーソンの懐に入った瞬間に、沈む。見ているだけでもわかる、その斧の重み。金属の重みだけでない、「攻撃」による重力だ。
ドサッと音がして、ワルモーンは倒れていた。カーソンは放心状態でその場に立ち尽くしている。
フリッツは駆け寄った。カーソンは目を見開いていた。そんなカーソンを見て、フリッツは思った。カーソンは、こういう時の斧の使い方を知っているのだ。木を切り倒すのではなく、闇雲に振り回すでもなく、斧のような重い武器で命を取る方法を知っている。
それが一体、何を意味するのか。
カーソンはその場に崩れ落ちて膝をついた。そして頭を両手で抱え、天に向かって泣くように叫んだ。
「わたしを、わたしを見るなあぁァ!!」
カーソンの顔は真っ青になった。みるみる血の気が引いていく。
フリッツは息を呑んだ。カーソンの額には脂汗が湧き出てきた。どこか噛まれたのかもしれないと、フリッツは慌ててカーソンの頭や身体を探った。どこからも血は出ていないし、外傷もない。その間にも、カーソンは叫び続けながらなにかに怯えている。
こんなカーソンは、おかしい。狂気の混じった悲鳴に、フリッツも恐ろしさを感じたほどだ。ワルモーンはもう倒した。カーソンが怯えているのは、モンスターにではない。
では、一体何に?
カーソンは身を小さくして、フリッツの影に隠れたようだった。
何から逃げようとしている?
「感じないか、なにか」
ラクトスは低い声で言った。フリッツは身構えた。
何者かの、視線だ。
フリッツは視線を感じた方を凝視する。奥には緑が広がっているばかりだ。
「…ルーウィン?」
フリッツは思わず名前を呟いた。物音を聞き逃すまいと、ゆっくりと歩み寄り、全神経をそちらに集中させた。木々の向こうを見やるが、やはり誰もいない。フリッツは落胆のため息をついた。
「気のせい、だった?」
しかしそこで、背後から忍び寄ってきた一匹のワルモーンが、フリッツ目掛けて飛び出してきた。
「フリッツ!」
ラクトスは声を上げた。フリッツが気づいたときには、遅かった。
ワルモーンは牙を剥いて、フリッツに襲い掛かる。肩を噛まれた。フリッツは痛みに顔を歪める。モンスターの獣臭い息が真横に感じられる。
首を噛まれる! そう覚悟した。
しかし、ワルモーンは細い悲鳴を上げた。フリッツの肩に食い込んだ牙の力は弱まり、それは腕にかけられた爪も同じだった。ワルモーンの身体が急に重くなったように感じて、フリッツはそのまま地面に倒れこむ。 ワルモーンは絶命していた。フリッツは何が起こったかわからないまま、ワルモーンの下から這い出た。ラクトスが駆け寄ってくる。
「危なかったな、大丈夫か」
「ラクトス、これ…」
フリッツは肩で息をしながら指差した。ワルモーンは仕留められていた。心臓を貫かれ、木に射止められたかのように。
そこに刺さっていたのは、一本の矢だった。
ワルモーンの襲撃で樵たちは騒然となり、その日は早めに仕事を打ち切った。また群れで襲ってくるのではないかと警戒していたが、そんなことはなかった。夕闇が森に迫る頃、一番年長の樵が言った。
「よくやってくれたな! 今晩はあんたらも飲むといい!」
群れで襲ってきたワルモーンを倒したのはこの日が初めてだった。危ないところだったカーソンを助けたということもあり、樵たちはフリッツとラクトスに感謝の意を込めて祝賀会を開いた。とは言っても、高く詰まれた薪の火の周りで、燻製やらチーズやらをつまみに酒を飲むというもので、いつも仕事終わりにしている打ち上げと大して差はないのだった。
フリッツは飲め飲めと頬に押しつけられるジョッキを懸命に拒んでいた。
「あの、ぼく未成年なんで。ちょっとラクトス、何で飲んでるの」
「キャルーメルもステラッカも飲酒は十八からだぞ。だからおれは大丈夫だ」
そう言ってラクトスはぶどう酒を飲んでいた。
「いいじゃないかよぉ、固いこと言うなって」
「だめです!」
フリッツは飲ませようとする樵から逃げ回り、その追いかけっこを見ていた他の樵たちは声を上げて笑った。ある樵は懐から笛を取り出すと奏で始めた。それが合図になって、火の周りを踊りだす者も出てきた。皆楽しそうに飲んだり唄ったり、手拍子をとったりしている。
その場にいる全員が、オレンジ色の炎に照らされて柔らかな表情になっていた。
「こんだけ若いのにモンスターやっつけて旅して。お前らなかなか立派だな」
「そうか? おれにしてみりゃ、所帯もってきっちり養ってるあんたらのほうが立派だぜ」
「みんな聞いたか? こいつ言うようになったぞ!」
ラクトスの周りの樵たちが笑った。皆だいぶ酒が回っているようだ。フリッツはそろそろと安息を求めて、カーソンの近くに逃げ込んだ。
「気分はどうですか?」
「あ、ああ。済まないね、恥ずかしいところを見せてしまった。もうずいぶん落ち着いたよ」
カーソンは恥じ入った。先ほどまで青い顔をしていたカーソンだったが、今ではだいぶ顔色が良くなり、落ち着きを取り戻した。その手にも酒の入ったジョッキが持たれているが、カーソンはそれほど酔ってはいないようだった。
フリッツは、先ほどカーソンの見せた恐怖が気になって仕方がなかった。カーソンは確かにワルモーンに襲われて危機一髪だった。しかし、彼があれほどまでに怯えていた「何か」はワルモーンに対してではないとフリッツは思っていた。そしてあの「見るな」という言葉。どういう意味だろうかと、フリッツは考えをめぐらせていた。やはりカーソンには、なにかある。
明るい炎に照らされ、酒を片手に楽しそうにはしゃぐ樵の仲間たちを見て、カーソンは穏やかに笑った。
「旅の醍醐味といえば、その土地の旨い食べ物と、その土地の人間との交流だろう? この良さがわかってこそ、真の冒険者というものだよ」
「生憎、おれは冒険者になりたくてここまできたわけじゃないんでな」
いつの間にかラクトスも皆の輪を抜けてフリッツの近くまで来ていた。カーソンは苦笑する。
「まあそう言わずに。せっかくこうして縁があって出会えたんだ。もとは見知らぬ人間と交流するのも、なかなか捨てたものじゃないだろう?」
「そうですね。こういうの、いいと思います」
「酒が飲めるようになったら、もっと楽しくなるだろうね。フリッツくんはもう少し先だ」
カーソンは笑った。
素面であるフリッツでは、酔った樵たちの中に混ざるのは少々気後れしたが、炎を囲んでのバカ騒ぎは見ていて愉快なものだった。フリッツも笑って、コップの中のジュースを飲み干した。
そうして夜は更けていった。
『お前はわかっちゃいねえな。旅の醍醐味といえば、その土地の旨い食いもんと、その土地の人間との交流だ。これの良さがわかってこそ、真の冒険者ってもんよ』
声の主は言った。当時の自分にはその意味はまったく共感できなかった。残念ながら、それは今もだ。所詮は根無し草。流れ者の旅。いちいちそんなことに労力は使えない。
信頼できる相棒が、一人いればそれでいい。
『あんた、ギルド潰しなのに?』
幼い自分は、すかさずそう返した。相手は、悲しいような、切ないような表情を浮かべた。
『…そうだ。それでも、だ』
目を閉じれば、いくらでもはっきりと思い出すことが出来るのに。
夢で会うときはいつもそうだ。おぼろげで、輪郭すらおぼつかない。そんなに自分に姿を見せたくないというのだろうか。自分にはもう、とっくの昔に愛想をつかしてしまったのだろうか。
もう何年も、言葉を交わしていない。
声が聞きたい。顔が見たい。
会いたい。
「―――――!」
ルーウィンは飛び起きた。息が荒い。首筋を触ると汗でべっとりと濡れていた。
ルーウィンは暗闇の中、水筒を探った。手にそれらしきものが触れ、ひっつかむと一気に飲み干す。口元から溢れた水が首筋を伝う。水筒はすぐに空になった。水を求めて、彼女は立ち上がる。
懐かしい夢を見た。
ふらつく足取りで水場まで歩く。小さな滝が水飛沫を上げ、優しく手招きされているようだ。薄物一枚を着ているだけだったが、脱ぎ捨てる気力もなく、そのまま水面に足をつけた。水紋が夜の静寂の中、静かに広がって行く。ぬめる川底を無気力に進み、らしくもなく足を滑らせて派手に転ぶ。しりもちをつき、極力服を濡らさないようにしようという考えは頭の隅からも吹き飛んだ。
しがらみがなくなり、大胆に歩みを早める。緩やかに深くなり、水位はとうとう腰にまで達した。岩陰に身を潜めていた魚たちは、侵入者の気配に驚き深みに逃れた。月明かりに銀鱗が煌く。
ルーウィンは滝壷へと足を向ける。水は胸の下まで迫っていた。水の塊が頭に落ちてくるが、痛くはない。 なにも、感じない。
背中に流したままの髪が素肌に張りつく。
「・・・ダンテ」
酷く弱々しい声音だった。自分はこんなだったかと、なぜか笑い出しそうになる。
静かな夜だ。
虫の鳴く声。雪崩落ちる水の音。川のせせらぎ。
自分の嗚咽など、聞こえないはずだ。涙など、とっくの昔に枯れ果てた。
涙は決して流さない。涙と一緒に、今の気持ちも流れていってしまうから。