【第5章】
【第九話 ほんとうのはなし】
忘れることなど、出来ない。
それは三年前の出来事だった。
紙袋を抱え、息を弾ませる。相棒がお腹を空かせて待っているのだと思うと、次第に早足になり、少女はついに走り出した。予想以上に早く戻れたため、驚かせてやろうと思い、静かに宿屋の階段を上る。
扉の向こうの光景に、少女は絶句した。
紙袋を取り落とした。床に果実が転がり落ちて、鈍い音をたてる。
その光景は今も彼女の脳裏に焼き付いて離れない。
染まった窓から入るだいだい色と、暗い影とのコントラスト。無気味にひょろ長く伸びたイスの脚。顔を影で隠すかのように、男はそこに横たわっていた。いつもはどっしりとした頼り甲斐のある背中が、糸の切れた傀儡のように力ない。深々と刺さった剣の影が、彼の身体を二つに切り分けている。
少女は駈けよって肩を揺さぶる。いつもは飛びついてもビクともしないはずの身体が、何の抵抗もなく仰向けになった。溢れ出した血はまだ暖かく、今さっきまで彼が生きていたのだとわかる。
少女の唇から男の名前が零れ落ちる。反応はない。
少女は名前を呼んだ。呼び続けた。
少女は叫んだ。
あの日の絶望を、怒りを、哀しみを、彼女は忘れることは出来なかった。
少女はたったひとつを奪われ、失った。
仲間であり、相棒であり、親であり、家族である彼を、彼女は永遠に失った。
いつものように連れと旅をしていた。いつものように行きずりの冒険者と一時的なパーティを組んだ。
いつものように無傷で街へ辿りつき、いつものように宿をとる。
そしていつものように眠り、明日はやってくるはずだった。
明日はちゃんとやって来た。
少女ひとりぼっちの朝が。
たった一人の道連れを失った少女にとって、それは非情な夜明けだった。
彼が死んでも、世界は回る。
朝、少女だけが取り残された。
フリッツは夜の森の中、立ち尽くしていた。
パズルのピースが組み合わさっていくような感覚だった。これならなにもかもの合点が行く。
ダンテは死んだ。だからルーウィンは一人で旅をしていた。
仇を倒すために、北上した。道中の危険を回避するために仲間を欲した。
ダンテの偽物の情報にも惑わされなかった。彼は死んでいるのだから。
もうこの世には存在するはずもないのだから。
「どうして」
思わず零れてしまった言葉に、ゴルダスが振りかえる。フリッツの握った拳は震えていた。
「どうして本当のことを言ってくれなかったんだ」
フリッツは俯いた。相当辛そうに聞こえたのだろうか、ゴルダスはフリッツの肩に手を置いた。
「そろそろ行こう。ワルモーンがでる」
カーソンの言葉に、フリッツは頷いた。
その後は、二人とも黙って歩いた。色々と聞きたいこともあったが、それどころではなかった。
ルーウィンが心配でたまらない。
まだ二人で旅をしていた頃、ルーウィンから語られたダンテの話が、今では切なく感じられて仕方なかった。ダンテが死んでいるという素振りを、彼女はまったく見せなかった。今も確かに存在している人物として語っていたのを思い出す。フリッツのせいでよく気分を害していたルーウィンだったが、ダンテの話をしているときは無条件に嬉しそうだった。
それなのに。
「しまった」
突然のカーソンの呟きに、フリッツは考えを打ち消して顔を上げる。すぐそこには、カーソンの家の明かりが見えていた。
「どうしたんです?」
フリッツが尋ねると、カーソンは頭を掻いた。
「仕事場に食事を入れてきた籠を忘れてしまった。よくあるんだよ。多分いつもの木の枝に引っ掛けてあるとは思うんだが」
それならフリッツも知っていた。いつも樵仲間たちと昼食を食べる場所だ。
「ぼく行って来るよ。ゴルダスさんは先に帰っててください。中にはティアラもラクトスもいるし」
「しかし、忘れたのは」
フリッツはカーソンの言葉を遮った。
「ぼくだって毎日ご馳走になってるんです。連帯責任だよ。それに狙われてるカーソンさんがこの暗いのにうろうろしてちゃ、みんな心配するし」
「悪いね。じゃあ、頼めるかい?」
「もちろん」
フリッツはカーソンからカンテラを受け取ると、再び来た道を戻っていった。
ラクトスと行くという選択肢もあった。しかし今は一人になって、考えをまとめたかったのだ。カーソンもそれを悟ってくれたようだった。
暗い森の中を、カンテラの明かりだけを頼りにフリッツは進んだ。夜の鳥がホウホウと鳴き、虫たちが涼やかな音色を奏でる。いつもならば薄気味悪いと思うはずの夜の森は、フリッツに心地よい静寂をもたらしていた。考える時間が必要だった。
夜一人で出歩くのは久しぶりだった。最初の頃は必ずルーウィンがいた。
「ダンテを捜すこと」を目的に、ルーウィンはここまで北上してきた。しかしそれは違い、「ダンテの仇を捜すこと」が、彼女の真の目的だったのだ。
今になって、フリッツはようやくなぜルーウィンが黙って消えてしまったのかがわかった。今の自分と同じだ。一人になって、考えたかったのだ。
カーソンは善人だ。それは誰の目から見ても明らかだった。少なくとも、今は。
カーソンは思い出した記憶を教えてくれた。それは彼にとって、勇気を振り絞った結果だったのだろう。時折不安や恐怖を浮かべながらも、カーソンはフリッツに話してくれた。
カーソンの未だ思い出せない記憶については、手のつけようがない。彼の閉ざされた過去には、ひょっとすると残酷な彼が潜んでいるのかもしれない。その残酷さが、ダンテに手をかけたのかもしれない。ダンテが殺された際の詳細は、カーソンもわからないと言っていた。
思い出せたのは、ダンテと共に旅をしていたことがあるということ。
そしてダンテはかつての仲間たちに殺されてしまったということ。
カーソンはその、かつての仲間だったのだ。しかし、カーソン自体がダンテに直接手を下したのかどうかは、フリッツは訊くことが出来なかった。ダンテが仲間に手を下された理由も聞けていない。これ以上カーソンに辛い思いをさせたくはなかったのだ。
そしてルーウィンは、カーソンを付けねらっている。隙あらば、敵討ちをしようと目論んで。
しかし仕掛けてこないのは、彼女に迷いがあるからではないかと、フリッツは思っていた。それにフリッツたちがカーソンと接触したのも、彼女にとっては誤算であったに違いない。
ルーウィンはこんな夜に、どこでなにを考えているのか。
不安に駆られていなければいいと、フリッツは願った。
「あったあった。これか」
フリッツは木の枝にかけられた小包みに手を伸ばした。悲しいかな、わずかに背が届かない。こういうときに、自分の身長の低さを恨めしく思うのだった。
フリッツはカンテラを足元に置き、つま先立ちして手を伸ばす。今度は上手く掴むことができた。しかしその瞬間、なにか物音がしてカンテラの炎が消えた。あたりは真っ暗になる。この場所は木々が切り出されており、月が顔を覗かせているが、炎の明かりに照らされていたフリッツの視界は真っ暗になった。慌てて手探りでカンテラを探す。すぐには目が慣れず、しばらく探った後やっとの思いでカンテラを見つけ出した。
しかしその横に、別のものがあることに気がついた。細長い、棒状のもの。
(…弓矢?)
突然の襲撃だった。
木の上から何者かが降ってきた。気配はまるでなかったはずだ。素早い動きに、剣を抜く暇さえない。鳩尾を思いきり殴られ、フリッツは咳き込んだ。拳の衝撃を受けてふらついた足元に、相手の足が滑り込み払われる。バランスを崩し身体は地面に叩きつけられた。仰向けに倒れ、空気を求める口に相手の手が押しつけられる。
叫ぶ余裕など一瞬もない。
気がつけば相手は馬乗りになり、フリッツはまったく身動きが取れなかった。相手の腕が高く振り上げられる。雲が流された。手の中の獲物が怪しく煌くのが見える。
月はその姿を徐々に現しはじめた。
もうだめかと思い、フリッツは目を強く閉じていた。
しかし、いつまで経っても相手が獲物を振り下ろす様子はない。
相変わらず耳には虫の鳴き声が聞こえており、鼻には草の青臭さが薫る。時間が止まってしまったかのようだ。嫌な汗がざあっと冷め、一気に身体が冷えて行く。耳元でドクドクという血潮がやけに煩い。ただでさえこのような状況なのに、口を抑えられていて苦しかった。恐る恐る目を開けると、そこには刺客の姿があった。
刺客が獲物を取り落とし、地面に刺さる鈍い音がした。
刺客は動かない。まるで雷に打たれてしまったかのようだ。その瞳を見開いて、フリッツを見ていた。
久しぶり見た顔に浮かんでいるのは、隠しようのない感情。
「絶望」という名の。
月明かりは残酷にも、ルーウィンの姿を白々と照らし出した。
今までこのような表情を見せたことはなかった。細くとも屈強な身体が、ここまで頼りなげに見えることもなかった。目の前のルーウィンは、こちらが息をしただけでも折れてしまいそうだ。
先ほどまで力のこもっていた左手は無意味なものとなり、息苦しかったフリッツは片手でそれを横に退けた。なんの力も要らなかった。
「ルーウィン」
今はただ垂れ下がっているだけの白い腕を掴んで、フリッツは名前を呼んだ。
「どうして」
ルーウィンは呟いた。どうしてフリッツがここにいるのか、という問いだった。
「ルーウィン」
フリッツは再び呼んだ。しかしルーウィンは動かなかった。フリッツは彼女を退かすことも出来たが、あえてそうしなかった。今の彼女は、触れるのも躊躇われるほどだった。ルーウィンの瞳は何も映していなかった。目の前にいるはずの、フリッツさえも。
フリッツはどうしたらいいのかわからなかった。だからずっと、ルーウィンを見ていた。しかしルーウィンの方も、どうしていいのかわからないのだと、ようやくフリッツは気がついた。
フリッツは口を開いた。
「弓で直接射かけようとは思わなかったの?」
あの距離から打たれていれば、間違いなくフリッツに命中していた。危ないところだったのだ。
しかしルーウィンが弓を使わなかったことには、理由があると思っていた。
「いまルーウィンが矢を持っていないのは、ダンテさんから教わったことをこんなことに使いたくなかったからじゃないの?」
だから敢えてナイフで襲い掛かってきたのではないか、フリッツはそう思っていた。しかしルーウィンは苦々しげな表情を浮かべる。
「違うわ。確かな手応えが欲しかったの」
「嘘だ」
「嘘なんかじゃない。あんたにあたしのなにがわかるっていうのよ!」
ルーウィンは叫んだ。甲高い声は夜の闇に吸われて消えた。フリッツはルーウィンの瞳を見つめる。
「少なくとも、すごく動揺してるのはわかるよ。ぼくを狙う前から。いつものルーウィンなら、暗がりだからって獲物を間違えるなんてミスはしないはずだ」
狙われているはずのカーソンが、こんな時間に一人で引き返すことなどない。少し考えればすぐにわかることだ。そんな判断も出来ないほど、ルーウィンは追い詰められている。
ルーウィンはさらに声を荒げた。
「ばかじゃないの! たった今殺されかけたのよ! どうしてそう冷静にしていられるの」
「だって相手がルーウィンだってわかってるから」
取り乱すルーウィンに対して、自分でも驚くほどフリッツは冷静だった。
相手がルーウィンだからだ。
なにも怖がる必要はない。恐れることもない。ただまっすぐ瞳を合わせて、面と向かって話せばいい。
「ルーウィンはぼくを殺さない。誰かと取り違えない限りは。そうだよね」
ルーウィンはそこでやっと身体を起こした。続いてフリッツもなんとか上半身を起こす。ルーウィンは立ち上がり、フリッツに背を向けた。
彼女が今、何を考え、どんな感情に支配されているのか。フリッツには想像はつくが、正しく理解することはできないだろう。
フリッツは彼女のか細い背中に向かって声を掛けた。
「信じてるから。だから早く帰ってきて欲しい」
ルーウィンは背を向けたまま言った。
「笑わせるわね。信じるって、いったい何をよ? あたしのこと、何一つちゃんと知らないくせに」
フリッツは答えた。
「きみをだよ。ぼくはいままで一緒に旅してきた、仲間のルーウィンを信じる。きみの過去も意図も満足にわかりはしないけど。それでもぼくは、ルーウィンという人間を少しは知ってるつもりだよ。
きみのこと、信頼できる人間だって思ってる」
ルーウィンは何も言わなかった。
そしてそのまま、森の中へと姿を消した。フリッツは彼女が再び闇の中へと帰っていくのを、ただ見守るしかなかった。
本当は追うべきなのかもしれない。力ずくで捕まえて、ラクトスやティアラのもとへ連れて帰るべきかもしれない。ルーウィンももしかしたら、追ってきて欲しいのかもしれない。
しかし、ルーウィンのこころの整理が出来ないままでは意味がないのだ。
「…それに、動けないし」
フリッツは情けなくため息をついた。
外傷はない。ただ予想外の襲撃に腰を抜かしたのだった。