【第5章】
【第十話 ことの全貌】
時間は少し遡る。
フリッツたちがまだルーウィンを探し始めた頃。フリッツがミチルとともに街外れの洞窟に足を運ぶ、その少し前。
ルーウィンは洞窟に潜んでいた。この洞窟に定期的にやってくるという冒険者たちを待ち伏せるためだ。案の定、男二人、女が一人のパーティは暗い洞窟内を探索していた。
この洞窟は良質な鉱物がよく採れると評判だった。しかし中が入り組んでいるため、素人がきちんとした装備をせずに足を踏み入れればたちまちに迷ってしまう。しかし三人は鉱物の目利きなどできそうになく、それらは足元に転がる石ころ同然だろう。彼らの目的は別のものだ。かつて迷い人であった骸の持ち物を、こっそりと拝借するのが目的だ。
慣れた足取りで、細い男がひょいひょいと先へ進んだ。ルーウィンは岩壁に身を潜める。男は何も知らずに、こっちへやって来た。
好都合だ。
「動かないで」
ルーウィンは痩せた男の咽元にナイフを押し当てた。男は小さく悲鳴を上げる。それが小柄な少女だと知り、男は目を丸くした。男の足元には蹴り散らかされた骸骨が転がっていた。この骸骨の持ち物を拝借しようとしていたということは容易に察しがつく。
後から魔法使いくずれの男とガラの悪そうな女が、男の悲鳴を聞きつけてやってきた。魔法使いくずれの男は、抵抗する意思がないことを示すため両手の平をルーウィンに向けながら言った。
「墓参りかい、おじょうちゃん。感心だね」
ルーウィンは捕まえている細い男の肉に刃を食い込ませる。女は狼狽して両手を挙げた。
「悪かった! 死んだ人間の持ち物なんか荒らして、最悪だよね。あんたにも分けてあげよっか」
「聞きたいことがある」
女たちの言葉には耳も貸さず、ルーウィンは口を開いた。
「三年前、この街へ来るのにギルド潰しのダンテと一緒になったことがあったわね」
「ああ、あったとも。で、それが一体なんだっていうんだい」
女は狼狽して声を上げた。しかし魔法使い風の男は、ルーウィンの正体に気づいたようだ。
「お前、もしかしてあの時のガキなのか?」
捕まっている男は頷こうとして、首の肉に刃物が食い込みそうなことに気が付き、やめた。ルーウィンは返事をしなかった。
「あんたは確かに被害者だ。しかしな、おれたちだって言ってみればそうなんだぞ」
「どういうこと?」
男の言葉に、ルーウィンは怪訝そうに眉を寄せた。
「忘れちまったのか。おれらはあのおっさんと、あの日の三日前にはじめて会ったんだぜ? なあ」
女はうんうんと首を縦に振った。おそらく細い男を助ける手立てを考えていたのだろう、突然話を振られて慌てて合わせたという感じだった。
「山道で苦戦してたおれらは、たまたまあのおっさんと会ったんだ。あんたもまだすこし小さかったし、子連れだったもんだからちょっとどうかとも思ったけどな。でも四の五の言ってる場合じゃなかったし、あいつもあんたもピンピンしてたから、一緒に来てくれって頼んだんだよ。
そのまま順調に進んで、三日後あの街の宿についた。その後は、あんたの知ってるとおりだ。おれたちだって取り調べられたりして大変だったんだからな。おれたちはやってない」
ルーウィンは目の前が真っ白になった。
十中八九、ダンテを殺したやつらは直前にパーティを組んだ奴らだと思っていたのだ。知らずナイフを握る手に力が入り、細い男の喉の皮が切れて血が滲み出す。男がまたも小さく悲鳴を上げた。
「その話を鵜呑みにするほどバカじゃないわ。証拠はあるの?」
魔法使いくずれの男は、声を荒げた。
「そんなもんねえよ! でもあんたならわかるだろ! いくら一時的にパーティ組んで、あいつがおれたちに気を許したって、おれたちじゃあいつはどうにもならない! 力の差は歴然だ!」
ルーウィンは舌打ちをすると、細い男を乱暴に放した。地面に打ち捨てられるように倒れこんだ男を、女がすぐさま引き寄せてルーウィンから離した。
当てが外れてしまった。
「あんたたちじゃない? それじゃあいったい」
ルーウィンは力なく呟いた。
「知らないね。こっちが知りたいくらいだ」
「まったく、おれらにあたるのは見当違いだよ。行こうぜ」
男たちはルーウィンに仕返しするでもなく、そそくさとその場を離れていった。暗闇の中を、カンテラの明かりが遠ざかっていく。ルーウィンは暗闇に取り残された。
「くそっ!」
ルーウィンは洞窟の壁を殴った。振り出しに戻ってしまった。手がかりはもう何もない。
クーヘンバウムで会ったあの女は、確かに探し人がこのステラッカに居ると言った。得体の知れない女だ、元々信用するべきではなかったのだ。しかし女の言いようから、ついそう思い込んでしまった。
ルーウィンはダンテが誰に殺されたのか、実のところ知らなかった。情けないことに、手がかりもろくになかった。犯人が流れ者であれば、三年前のあの日にさっさとここを出て行っていることだろう。当てのない、たった一人で暗闇を手探りで模索するような旅だった。
しかしここに来て、やっと掴んだ手がかりだったのだ。この街に着き、三年前のあの日にステラッカへの道中で一時的にパーティを組んだ冒険者たちを見かけて、ルーウィンは歓喜した。やっと見つけた、と。
しかし蓋を開けてみれば、彼らではないと言う。よくよく考えれば、確かにあのような腰抜けの冒険者では三人がかりでもダンテは倒せない。ダンテもそこまで気を許していたわけではなかったので、油断するということもないだろう。
あの女の言っていたことは、このことだったのか。もっと別にあるのではないか。それとも。
ルーウィンは、クーヘンバウムで会った女の言葉に縛られていた。
ルーウィンの頭に不安がよぎった。ただ踊らされているだけなのかもしれない。適当なことを言われただけなのかもしれない。しかしほんの少しの手がかりにすがりつきたい自分がいるのも、また事実だった。奴等が、あるいは奴がこの街にいる。それを手放せば、また何もなくなる。
どうしたらいい。自分は何をしたらいい。
途方に暮れて、ルーウィンは洞窟を出た。
夕暮れ時だった。ルーウィンはあてもなく街を歩いた。
一人の夕暮れは嫌いだ。ダンテが殺されたのも、同じ時間だから。
失意に襲われ、力ない足取りだった。これからどうするべきか、なにをすべきかという問いかけが頭の中を堂々巡りしている。
その時、肩がぶつかった。相手の男は慌てて、大丈夫かい、ケガはないかいと尋ねてくる。こんなのでケガする人間がどこにいるのかと、ルーウィンはうっとおしそうに視線を上げた。
しかし男が慌てるもの無理はなかった。彼女らしからぬことだが、ルーウィンはぶつかったその衝撃で地面にしりもちをついてしまったのだ。
男の顔を視界に入れて、ルーウィンは目を見開いた。どこかで、見たことのあるような。頭の片隅で何かが蠢いた。
「…あんた、どこかで」
ルーウィンのこめかみが疼いた。次第に、突然の頭痛が彼女を襲った。痛む頭をおさえて、ルーウィンは顔を歪める。
男のほうも呆然と立ち尽くしていた。まるで呆けたように、雷に打たれたかのように、口を半開きにして。ルーウィンは痛みと戦いながら、考えた。
いつ、どこで会った? どこで見た?
男はびくっと身体を震わせた。そして彼の瞳に徐々に光が宿っていった。男は再度ルーウィンを見た。
そしてその顔に恐怖が浮かんだのを、ルーウィンは見逃さなかった。
「待って!」
男は逃げた。何もない人間が、逃げるわけがない。ルーウィンは追いかけた。
(思い出せ。思い出せ。あの日、なにがあった。なにが起こった…!)
ルーウィンは男の後を追った。なかなか早く、追いつけそうにない。その間も、ルーウィンは考えた。
男は全速力で駆けた。街を離れて、森のほうへと入っていく。ルーウィンもそれを追いかけた。薄暗い森の中で、追っていることをなるべく悟られぬよう、ルーウィンは男の後を走った。
男はある小さな家へと入っていった。外には暖かなランプの明かりが灯っており、それを見ると男は安心したように一息つき、きょろきょろと辺りを見回した。ルーウィンが迫っているのには気がつかなかったようだ。男は呼吸を整えると、何事もなかったかのように装って家の中へと消えていった。
ルーウィンは遠目に、小屋の前のポストにかけられた表札を見た。
(…カーソン?)
再び、ルーウィンの頭が疼きだす。唐突に、あの日のことが思い出された。
あの日は、客人が来ていた。流れ者の身である、ダンテに。複数人いた。ダンテは久しぶりだといって肩を叩いた。女もいた気がする。挨拶もした。ダンテにも紹介されたではないか。
どうして今まで忘れていたのか。
ルーウィンは全身総毛立っていた。地面に手をつき、呼吸は荒かった。額に脂汗も浮いている。しかし、その口元は大きく弧を描いていた。目を見開いて、今にも口元が緩みそうになるのをこらえた。
ダンテの仇を目の前にしたとき、自分はどんなふうになるのだろうと考えたことがあった。その答えが出た。
ルーウィンは笑ったのだった。
「あいつだ。あいつも、あの中にいたんだ…」
やっと見つけた、仇だ。
逃がすものか。絶対に。
カーソンの家のテーブルに一同は集まった。フリッツ、ラクトス、ティアラ、その向かいの席にはカーソン。メアリがマリィを寝かしつけて席に着くと、なんともいえない沈黙が流れた。その空気の中、ラクトスは話し始めた。
「三年前、あの宿で殺人があった。被害者は冒険者の男。腕っ節の強い、大柄な男だった。抵抗した後がないことから、犯人は男と面識のある者に絞り込まれた。浮かび上がった容疑者は、当時男がこの街へ着くまでパーティを組んでいた男二人と女一人。そしてなぜか旅に同行していた少女」
カーソンは黙っていた。メアリは唐突に始まった話の先が見えていないようだったが、この話に夫や自分が無関係でないことはわかっており、不安な顔をしている。フリッツはいたたまれなくなり、思わず下を向いた。それはティアラも同様だった。
しかし、ラクトスは淡々と続けた。
「前者は他の人間の目撃証言があり、犯行は不可能。同行していた少女も同様だ。男は流れ者の冒険者であったこともあり、犯人は誰に絞られることないまま、強盗の犯行として片付けられた。残された少女の行方はどうなったかわからない。というのが、宿屋の主人から聞いた話だ」
ミチルから宿屋の噂を聞いたラクトスは、三年前ということがひっかかり、宿屋の主人の口を無理やり割らせたのだった。
「だが、宿屋の主人が当時口止め料を貰ったために、自警団やギルドの連中には話さなかったことがあった。死んだ男の部屋には、客人があったんだ。それも数人。奴らが帰った後、男が殺されているのが発見された。やったのは、こいつらで間違いないだろうな」
フリッツは驚いていた。その事実が本当なら、今までのルーウィンの当ての無い人探しはなんだったのか。彼女はこのことを知っているのだろうかと、フリッツは思った。
いや、知っているはずだ。仮に、最初は知らなかったとしても、カーソンに目をつけた時点で何か掴んでいたはずなのだ。
ラクトスはそこでカーソンに視線を走らせた。
「共同墓地に入れられていて、死んだ男の名前はわからなかった。しかしあんたは、これがどこのどいつか知っているな」
お互い席についており、目線の高さも同じで、ラクトスとカーソンは対等な立場にあるはずだ。しかし、ラクトスのその物言いは雰囲気が尋問に近く、本人も知らぬうちにカーソンをじわじわと追い詰めていた。
「男の名はダンテ。一緒に居た少女は、うちの穀潰し。そして犯人であろう客人のうちのひとりは、あんただっていう話だ。そうだろ?」
ラクトスの瞳に射すくめられ、カーソンはこわばった表情のまま静かに頷いた。メアリがカーソンを黙って見つめる。その瞳には一体どんな感情が映っているのか、フリッツたちに知る由はなかった。
「本当なのね?」
「ああ、本当だ。今まで黙っていてすまなかった」
メアリは小さく息をついた。しかし、よろめいてしまうようなことはなかった。
「あなたは、その、この子たちのお友達の。師匠さんを、ダンテっていうひとを?」
メアリは大きな瞳でカーソンの瞳を見つめた。言葉のその先は、敢えて言わなかった。いや、言えなかったのだろう。
フリッツもその返事の次第が不安であり、カーソンを見ずにはいられなかった。
カーソンは答えた。
「わたしはおそらく、手を下してはいないと思う」
「記憶がないのにか?」
ラクトスはそう言うや否や、「痛っ」と小さく叫んだ。意地悪な返し方に、ティアラがみかねてテーブルの下で報復にでたのだった。しかし、言ってしまった言葉は取り返せない。メアリは益々不安げに眉を寄せた。 カーソンはその瞳を、まっすぐに受け止めた。
「そう思いたいだけなのかもしれない。しかし、少なくとも彼を見殺しにしたことは事実だろうな」
変わらない曖昧な返事に、ラクトスは腕を組んだ。
「で、どこまで思い出せた?」
「わたしはかつてダンテと旅をしていたこと。ダンテがギルド潰しに身をやつしたこと。そして彼の行動が目にあまり、わたしとその仲間たちは集められた。話し合いの場が設けられるはずだったんだ」
「だが結局は、力づくで解決してしまった、ってことか」
ラクトスは言った。カーソンは頷く。
「で、うちの穀潰しにつけられる羽目になったわけだな」
話が一巡して、全ての事柄がぴったりと噛み合った。これがルーウィンが消えてからの、ここ一連のカーソンを巡る事柄の全てだった。
「まさかあなたたちのお友達が、うちの主人を狙っていたなんて」
メアリは今度こそ深くため息をついた。ティアラが口を開いた。
「もっと早くに言うべきでしたわ。本当に、申し訳なく思っています。ごめんなさい」
痛々しい表情のティアラに、メアリは首を横に振った。
「いいのよ。ティアラちゃんが謝ることはない。話していないことがあったのは、お互いさまだもの」
ラクトスが咳払いをした。話はまだ終わっていないと主張したのだ。
「おっさんがダンテとパーティを組んでいたのは、いつごろになるんだ」
「たしか、かなり昔だったと思う。わたしもまだ若かった。今からおそらく、二十五年ほど前になるだろう」
カーソンはラクトスの問いに答えた。
「二十五年前、か。その時のパーティメンバーが、ダンテを殺したんだよな。おっさんじゃないとして、誰がやったかわかるか?」
「霧がかっていて、詳しくは。だが、大体の目星はつく」
「ということは。穀潰しはあんたから話を聞きたがるだろうな」
問題は、ルーウィンがカーソンをどう捉えているかということだ。カーソンを仇と見なしているか、否か。 そしてその復讐の程度はどのくらいのものなのか。
「おそらくルーウィンは、まだカーソンさんを狙っています。ぼくらの前に堂々と出てこないのがその証拠です。仇と見なしていると思って、間違いないと思います」
フリッツはようやく口を開いた。
「ルーウィンは苦しんでいるんだと思います。きっとルーウィンはダンテさんの敵討ちのためだけにここまで来たんだと思う」
フリッツと出会ったとき、ルーウィンはぼろぼろだった。顔は薄汚れ身体は傷だらけで、気力だけが瞳の奥底をぎらぎらと輝かせていた。フリッツはそこに彼女の薄ら寒いような執念と、生命力とを見出していた。尋常ではないと、一目でわかったのだ。
フリッツは膝の上に視線を落とし、揃えた拳を強く握る。
「ルーウィンはダンテさんを失ってから、たったひとりで南下してきた。モンスターだけじゃなく、ダンテさんを恨みに思う人たちからも襲撃を受けたんだと思う。だからあんなにぼろぼろで。それでもルーウィンがまた北上したのは、ダンテさんの敵討ちのためで」
狙われているのはカーソンで、それを狙っているのはルーウィンだ。しかしフリッツは、どうしてもルーウィンの気持ちを考えてしまう。彼女が何を思い、何を考えているのか。今も一人で、暗闇の中膝を抱えているのではないだろうか。
今夜、闇の中で、フリッツは弱ったルーウィンを初めて見た。見てしまった。
「復讐を生きていく糧にして、ここまできてやっと仇を見つけたのに、あなたはルーウィンが思い描いていたようなひとじゃなかったんだ。どこからみても悪人なんかじゃなくて、奥さんとお子さんがいて、一生懸命働いて、幸せな生活を送っている。そんな光景を見てルーウィンはなにを思ったか、うまくは言えないけど」
迷子が途方に暮れたような。置いていかれた子供のような。
一歩も足を踏み出せずにいる。どこにも行けずに、ただ回廊をぐるぐると巡っている。
世界に残されたのは、自分たった一人だと、そう思い込んで。
「どうしたらいいかわからないんだ。それでぼくたちの前からも消えた」
フリッツは口を閉じた。隣からティアラの気遣わしげな視線を感じた。カーソンもメアリも、神妙な面持ちになっている。
どうしたらいいんだ。自分は。ルーウィンは。フリッツは頭を抱えた。
自分はカーソンの護衛を引き受けている。その一方で、ルーウィンとともに旅をしてきた。カーソンは善人だ。しかしルーウィンは苦しんでいるはずだ。
そう、ルーウィンはたった一人で苦しんでいるのだ。それを支える人間が誰一人いない。そんなことってあるだろうか。
ラクトスは言った。
「あいつの迷いが、あんたを生き長らえさせてるってわけだ。あいつが腹をくくったら、終わりだと思っていい」
「彼女がそれを望むのなら、わたしは甘んじてそれを受けようと思う」
カーソンは重い口を静かに開けた。隣に座っているメアリが、驚いてカーソンの顔を見る。
「わたしへの復讐が望みなら、それを受け入れるべきだとわたしは思う。わたしは彼女からダンテを奪ったも同然だ。あそこでかつてのわたしが止めることができていたなら、もっと別の今があったろうに。当然の報いだ」
椅子をガタゴトいわせて立ち上がる音がした。パン、と子気味の良い音が家の中に響く。
その光景を見た三人は息を呑んだ。カーソンは目を丸くする。
手の平を真っ赤にさせたメアリが、カーソンの隣に立ちはだかっていた。
「あなたが居なくなったら、マリィはどうするの? わたしは? 勝手なこと言うのもいい加減にしてちょうだい!」
メアリは今までに出したことのないような大声で叫んだ。痛々しい、悲鳴に似た叫びだった。
「あなたのしたことなんて、わたしはほんの少ししか知らない。あなたが話してくれた分しか分からない。過去にどんな過ちを犯したかなんて知るはずもない。あなたが誰かに命を奪われることは、文句の言えないことかもしれない。でもね、これだけは言えるの!」
しかし、限界が来た。メアリの瞳から大粒の涙が次から次へと溢れ出した。
「わたしやこの子からあなたを奪うことだけは、どんなに言い訳したところで正しい理由になんかになりっこない!」
メアリは椅子に崩れ落ちた。そして両手で顔を覆った。肩を震わせる彼女を、カーソンは優しく抱き寄せる。メアリは嗚咽の混じった声で、続けた。
「後ろめたいのはわかってるわ。どんなことをしても償いになりはしない。でもそれじゃあ、あなたの死は割に合わないでしょう。あなたはその子を不幸にした分、わたしたちを幸せにして」
今まで張り詰めていた糸が切れてしまったかのように、メアリは静かに泣き出した。カーソンは子供をあやすように、一定のリズムでメアリの背中を叩いてやった。鼻水をすすりながら、メアリはカーソンの胸に顔をうずめたまま言った。
「無茶苦茶なこと言ってるの、わかってる。でも、あなたに死んでもらいたくないのよ!」
メアリはカーソンの首にすがり付いて、泣いた。
「…すまなかった、メアリ。軽率な発言だったな」
「わかってくれれば、いい」
メアリは瞳に涙を溜めてカーソンに微笑んだ。
メアリは徐々に落ち着きを取り戻しつつあるようだった。突然のことに驚いていたフリッツたちだったが、なんとかメアリの気持ちもおさまったようでほっとしていた。しかし次第に、どこを見ていいのかわからなくなり、フリッツとティアラは顔を見合わせて照れたような苦笑いを浮かべた。ラクトスは甘いものを食べ過ぎて胸焼けを起こしたような、なんとも微妙な表情を浮かべた。
指先で涙をぬぐったメアリは、小さく咳払いして喉の調子を整えた。
「ごめんなさいね。夫婦げんかなんて、みっともないところ見せちゃって。恥ずかしいわ」
メアリはやや頬を紅く染めて言った。しかし目のほうもすっかり赤くなってしまっている。
「いいえ。お陰でぼくも、目が覚めました」
フリッツは言った。
そう、正当な理由になどなりはしないのだ。このカーソンの、メアリの、マリィの幸せを壊していいはずがない。そこに例え、どんな事情と感情があったとしても。
ティアラも頷いて、フリッツを見た。
「なんとしても、ルーウィンさんを止めましょう」
「あいつのせいでおっさんに何かあったら、後味悪いしな」
ラクトスのそれは肯定だった。わかりにくい、彼なりの賛同の意だ。
フリッツはラクトスを見て笑った。
「ルーウィンを説得します。必ず」
フリッツはカーソンとメアリに向かって、力強く頷いた。二人も口元を引き結んで首を縦に振った。
「そう何日もかからないと思うぜ。あいつがまた姿を現すのも、時間の問題だ」
「どうしてそう思うのです?」
ラクトスの言葉に、ティアラが首をかしげる。ラクトスは意味深な笑みを浮かべた。
「もう二度もボロが出てるからな。かなり追い詰められているはずだ。見てろよ、すぐに炙り出してやる」