小説『不揃いな勇者たち』
作者:としよし()

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【第5章】

【第十一話 かくれんぼ おいかけっこ】

 夕暮れ時だった。今回はやたらとこの時間にことが起きるもんだと、ラクトスは思った。
 果実が地面に落ち、甘酸っぱい腐臭を放っている。簡素な墓石は集合墓地だった。身寄りのない者、旅で流れてきた者たちが埋葬されている。墓石に刻む名もない、あるいは名すら刻めない者たちの末路。みじめなもんだなと、ラクトスは思う。そして、足を止めた。
 荒削りに彫られた墓石の前に、少女が佇んでいた。

「目撃情報ってのは、ばかにならないな。本当に居やがった」
「何の用?」

 ルーウィンは振り返りもしなかった。

「フリッツもティアラも心配してる」
 多少の反応は見られるかと思ったが、これも的外れだった。

「お前の考えてる復讐ってのは、どれ程のものなんだ」

 ルーウィンは振り返った。夕陽に赤く照らされた彼女の顔は、燃えているようだった。
 瞳は見開かれ、口元は引き結ばれている。それを見て、ラクトスは眉根を寄せた。

「その顔じゃ、生ぬるいところで終わったりはしないみたいだな」

 ラクトスは唐突に、杖をルーウィンに向けた。杖の先がルーウィンの鼻先に突きつけられる。

「今ここで、おれがお前を殺したとして」

 ルーウィンは眉一つ動かさなかった。

「お前、最期になにを思う? もちろんおれのことを憎いと思うだろう。でも、フリッツやティアラに仇をとってほしいとは思わないはずだ。あいつらが醜く顔をゆがめて、目をギラギラさせる姿なんか見たくないはずだ。違うか?」

 ルーウィンはラクトスの話を聞いていた。そして静かに口を開いた。

「じゃあ訊くわ。あたしがフリッツやティアラを殺したら、あんたはどうする?」

 ラクトスは言葉を失った。予想外の切り返しだった。

「答えなんか聞くまでもないわね」

 ラクトスは深いため息をつく。そしてあっさりと杖を下ろした。

「…バカに言い負かされちまったな」

 ラクトスは自嘲気味に笑った。
 所詮自分のやることだ。話し合いなどという穏便なやり方は向いていない。かと言って、ルーウィン相手に力づくでは残念ながら勝ち目がない。
 誰かの気持ちになって考えてみろだなんて、そんな胡散臭い言葉は自分が言ってはいけなかったのだ。説得力がなさすぎる。

「あちらさんにもバレたぞ。おれたちが言っちまったからな。お前が本気で来るつもりなら、向こうも本気で誰か雇うだろう。お前をとっ捕まえるためにな。まあそうならないよう、お前を説得するのがおれの仕事なんだが」

 ラクトスは声を低くした。

「かくれんぼはもう、やめにしようぜ。ここらで、話をつけよう。まずは、おれたちからだ」
「わかった」

 思わず拍子抜けするような返事だった。ここであっさりと自分の言うことを聞くとは思ってもみなかったのだ。抵抗するなり逃げるなりしようとしたら、ある程度弱らせて縛ってでも捕まえて帰る覚悟があった。それなのに「わかった」とはどうしたことだ。

 ラクトスはルーウィンの瞳を見た。そしてぞっとした。
 今まで見たことのない彼女が、そこにいた。

 目の前のこの人物を、果たして自分の知っているルーウィンといえるのか。それほどまでにラクトスは動揺した。その目は何も映していない。光は宿らず、ぽっかりと空いた深淵が広がっているだけだ。
 どうりで簡単に見つかり、簡単についてくる気になったのだと、わかった。
 彼女はもう、どうしようもないのだ。
 しかしラクトスはティアラとは違う。見つけたからには、見逃すつもりはない。どんな状態でも連れて帰る。そして無理にでも話をさせる。
 それがラクトスの役割だった。

「さて、どこで話すかな」
「宿でいいわよ。一人部屋、空っぽのままとってあるんでしょ」

 その言葉で、ルーウィンが一度は宿に立ち寄っていたのだとわかった。しかし、さすがのラクトスもたじろいだ。かつてダンテが殺された場所なのだ。

「いいのか? お前、あの宿は」

 ルーウィンは淡々と言った。

「ダンテが殺されたことなんて、とうの昔に割り切ってる。あの宿屋に戻ることに、今更何も感じたりしないわ。ただし」

 ルーウィンはラクトスに向き直った。

「ティアラとフリッツはいないでしょうね。まずはあんたと、サシで話よ」

 ラクトスは口元だけで笑った。

「一対一か。殺してくれるなよ」
「どうだか」

 二人はその後口も利かず、黙って墓場を後にした。








 二人は宿屋へと向かった。
 数日前にラクトスとフリッツが泊まっていた部屋は、今は誰もおらず、開け放たれている。階段を上るとすぐに目の前に飛び込んでくる、西日のもっとも当たる部屋。逃げられては困ると、ルーウィンを先に行かせ、ラクトスは後ろからついていた。
 しかし階段を上がりきったところで、ルーウィンの足が一瞬止まった。茜色に染まった部屋を見て、なにか思うところがあったのだろうか。

「おい、大丈夫か」

 思わずラクトスは声を掛けた。ルーウィンは何も答えず、歩き出した。どこに部屋を移したか知っているらしく、そのまま廊下の突き当たりの一人部屋の扉に手をかけた。
 扉を開けると、そこにはティアラが一人で待っていた。

「ルーウィンさん!」

 ティアラはルーウィンの姿を見るなり、表情を明るくした。しかしルーウィンの様子から、手放しに喜んではいけないことがわかり、すぐに視線を伏せた。ルーウィンはティアラを一瞥し、後ろにいるラクトスを睨んだ。

「・・・騙したわね」
「人聞きが悪いな。こいつがたまたま予定より早めに来ちまっただけだろ。まあ座れよ。お前には聞きたいことが山ほどある」
「ここでいい」

 ルーウィンは扉を背に立ったままだった。ティアラがベッドに腰掛け、二人が立っていてはこの一人部屋は狭かった。ルーウィンが扉に近い場所に立ちはだかっているのは、いざというときの逃げ道の確保なのかもしれない。
 しかし今はその様子もなく、そんな素振りがあればすぐに捕まえてやると思い、ラクトスは一つしかない椅子に腰掛けた。

「ルーウィンさん、復讐なんて何も生み出しません。考え直していただけないでしょうか?」

 ティアラは言った。ルーウィンはうっすらと微笑んだが、それは苦々しいものだった。

「あんたらしい、予想通りの言葉だわ。あんたにはそう言う資格があるものね。でもねティアラ、あたしはあんたとは違う」

 ティアラは十年も幽閉され、危うく父親を殺されそうになっていたところだった。しかし彼女がパーリアで動いたのは、その仕返しのためではなく、パーリア教の未来を考えての行動だった。そのティアラの言葉だからこそ、ルーウィンは聞き流すに留めたのだろう。
 なにも事情を知らない人間が放った言葉であったら、どうなっていたかわからない。自分が言っていたら大変なことになっているだろうと、ラクトスは思っていた。

「お前の旅の目的は、ダンテの仇への復讐。そうだよな?」
「なによ。文句ある? あたしの目的は、あたし自身が決めることでしょ。あんたらにとやかく言われる筋合いはないはずよ」
「そういうこと言ってるんじゃねえよ。敵討ちなんて、気の済むようにせいぜい勝手にやってくれ」

 そう吐き捨てて、ラクトスはルーウィンの目を見た。

「お前の個人的な恨みや辛みなんて、おれはどうでもいい。でも、てめえといままで旅してきたフリッツは、今どんな思いをしてるんだろうな」

 ルーウィンは言い返さず、口を閉ざした。ラクトスは顔には出さなかったが、内心ほくそ笑んだ。やはりルーウィンはフリッツに対して、多少の負い目を感じているのだ。

「お前、嘘ついてフリッツをここまで引きずってきたんだろ。ひ弱でなんでも言うこと聞きそうで、一応剣も使えてよ、お手頃な人材だよな? しかもお前はダンテの弟子で、いつ誰に狙われてもおかしくない状況にある。そんなリスクを一緒に背負わせて、ここまで来たんだよな?」

 横で聞いていたティアラは酷い言葉だと思ったが、否定は出来なかった。ラクトスはありのままの真実を述べているだけだった。
 ラクトスは言葉を続けた。

「あいつはお前を信用してる。今回のことだって、自分の不甲斐なさを悔やむことはあっても、お前を責めるようなことは一言も漏らさなかった。そんなあいつに、お前がとった行動がこれだ。本当のことを何も言わずに、黙って消えた。身勝手にも程がある。自分のことしか考えられないのか? バカにしてんのか?」

 話しているうちに、ラクトスはだんだんと苛立ってきた。しかしティアラに視線で制止をかけられ、小さく息を吐きだした。追い詰める側の自分が煮詰まってしまっては意味がない。
 ルーウィンは何も言わなかった。ラクトスに言われるままに、その言葉をぶつけられている。
 いや、聞いているのかどうかすらわからなかった。
 夕日に染め上げられた部屋は、酷く静かだった。

「フリッツを騙してきたんだ。お前のやってきたことは、そういうことなんだよ」

 ルーウィンは視線を逸らして、押し黙った。ラクトスともティアラとも目を合わせず、床のどこか一点を見つめている。
 何か考えているのか、あるいは否か。ラクトスはこの光景をどこかで見たことがあると思った。修練所で、成績が悪く教室の後ろに見せしめとして立たされている門下生のようだった。誰とも視線を合わせず、表情を一つも変えない。その場に立ち竦んで、どうしたらよいのかわからない。
 コンコンと控えめなノックが部屋に響いた。

「みんな、いる? 入るよ」

 その声を聞いて、今まで顔色一つ変えなかったルーウィンの表情が動いた。即座に振り返ると、扉の向こうにはフリッツが立っていた。
 フリッツはルーウィンの姿を認めると、ティアラと同じように微笑んだ。

「…ルーウィン」

 それは一瞬だった。
 ルーウィンは逃げた。
 フリッツは激しく肩がぶつかり、そのままよろめいてしりもちをついた。謝ろうとして顔を上げると、彼女は脱兎のごとく駆け出していくところだった。
 驚いて、フリッツはルーウィンが飛び出して行くのを見送ってしまった。そして、沈痛な面持ちをしたラクトスとティアラの顔を交互に見つめた。

「追え」

 ラクトスが言った。

「いいから追っかけろ!」

 ラクトスは声を上げた。それに弾かれるように、フリッツはよたよたと立ち上がり走り出した。階段を慌しく下っていくのが聞こえ、続いて激しく宿の扉が開かれ、宿の主人が大声で注意しているのが聞こえた。フリッツの足音は遠ざかった。
 そのあとは、静かなものだった。
 ラクトスは長く息を吐いた。そして椅子の背にだらしなくもたれかかり、天井を見上げた。

「あいつを追い詰める口実に使っちまったな。バレたら後で怒られそうだ」

 ティアラはすっと立ち上がった。

「ラクトスさん、わたくしもルーウィンさんを追いかけます」
「だめだ」

 言い終わるかそうでないかのうちに、ティアラはラクトスにダメを出された。不満げな表情で食い下がろうとするティアラに、ラクトスは先手を打った。

「お前、あいつの口からダンテの話を一度でも聞いたことがあるか?」

 それを聞くとティアラは目を細め、大人しくベッドに腰を下ろした。

「成り行き上とはいえ、あいつが自分の口から直接ダンテの話をしたのはフリッツにだけだ。何も知らないおれたちが行ったところで、あいつは説得できないだろうよ。フリッツがあいつを連れ帰ってくるのを、おれたちはここで待とう」

 ラクトスの言うことはもっともだった。ラクトスもティアラも、ルーウィンの旅の目的しか知らされていなかった。そのあと知った事実は、皮肉にも全て自分たちの調査によるものだった。肝心なことは何一つ、ルーウィンの口から二人に語られはしなかったのだ。
 ティアラはとうとう項垂れた。

「わたくしは、ルーウィンさんのことが大好きです。とても頼りにしています。でもそれはわたくしの一方的な片思いで、ルーウィンさんはわたくしのことをなんとも思ってらっしゃらないのかもしれませんね」
「そんなことはないだろ。頼りにはしてないが、お前はお前で、あいつにとって貴重な役回りがあると思うぞ」

 ラクトスは思ったままを言った。現実的すぎるルーウィンや自分にとって、どうしても欠けがちな要素をティアラやフリッツは持っている。ティアラはラクトスの言葉に悲しんでいいのか喜んでいいのかわからず、複雑な表情を浮かべた。
 しばし沈黙があって、ティアラが口を開いた。

「ところで。フリッツさん、ルーウィンさんに追いつけるでしょうか」

 本気で心配しているティアラに、ラクトスは思わず笑ってしまった。

「それをお前に言われたら、フリッツもお仕舞いだな。まあ、気長に待とうぜ」

 今は自分の出る幕ではないと、ラクトスは割り切っていた。不完全燃焼のティアラには悪いが、これが最良の手立てだろう。
 フリッツが帰ってくるまでの間、どう時間を潰そうか考えて、ラクトスは一つ大きく伸びをした。








 フリッツは走った。今までにないくらい、全力で走った。
 正直走るのは得意ではない。さらに夕方のステラッカの街は夕食の買い物客で賑わっており、すみません、退いてくださいと声を掛けながらの追跡だった。ルーウィンは人の波の隙間を見つけ、いとも簡単に走り去っていく。
 その姿を見失うまいと、フリッツは躍起になって走った。
 不良に肩がぶつかって舌打ちされたが、ごめんなさいと叫んで振り切った。通りを抜けると、ルーウィンとの一直線上での勝負になった。情けないことに相変わらず距離は縮まらないが、ルーウィンを見失うことはなかった。彼女は街の外へと続く道を走っていた。
 フリッツの頭に、ふと疑問がよぎった。フリッツに追いつかれたくないのなら、角を曲がるなりどこかに隠れるなりしてやり過ごせばいい。しかしそんな様子はなく、ルーウィンはただただ走っている。
 ひょっとして追いついて欲しいのかとも思ったが、そんなはずがなかった。彼女の走りは本気そのものだ。

(頭が回っていないんだ…)

 小細工を一切思いつけないほどに、ルーウィンは余裕がないのだ。
 ただひたすら、目の前の道を駆け抜けるしかないのだ。
 そう思ってフリッツは悲しくなったが、慌てて首を横に振ると、今までより一層気合を入れて走った。なんとしてでも、彼女に追いつかなければ。
 ラクトスもティアラも、自分に託してくれた。
 今日という今日は、ルーウィンを捕まえる。

 徐々にルーウィンとの距離が縮まってきた。フリッツは駆け出しや走り方は下手だが、速さを維持する体力はほどほどにあった。それに絶対に捕まえるという気持ちも加わって、さらに早く走った。一方ルーウィンはわずかながら、その速度が落ちてきたように思われた。

 絶対に追いつく。なにが何でも捕まえる。

 とうとうフリッツは彼女の手が届くところまで追いついた。すでに街の外だった。
 フリッツは手を伸ばして、ルーウィンの腕を掴んだ。
 ルーウィンは驚いて目を見開き、強い力でその手を振り払った。しかしその際にバランスを崩し、石ころに蹴躓いて倒れそうになる。慌てて受け止めようとしたフリッツだったが、それもルーウィンに払いのけられた。
 転びそうになりながら、ルーウィンはなんとかフリッツとの距離をとった。その間、わずか五歩ほどの距離だった。
 やっと足を止め、フリッツの方を向いてくれたことに胸を撫で下ろす。
 しかし、ルーウィンは身体を震わせ大声で叫んだ。

「来るな!」

 ルーウィンは、フリッツに向かって弓を構えた。反射的に、フリッツは思わず両手を挙げた。
 しかし、思い直してすぐにその腕を下げた。ルーウィンに弓矢を向けられたのは初めてだった。

「これ以上あたしに構わないで。なんなのよ、もう。迷惑なの。うざったいったらありゃしない」

 ルーウィンは弦を最大限に引いたままだ。弦を引き、その体勢を維持し続けることは相当な腕の力を必要とする。いつ放たれてもおかしくはなかった。

「なけなしの旅費使って、何日もこんなところにいて、バカじゃないの? あんたらの目的はどうしたのよ! こんなところで油売ってていいの?」

 ルーウィンの体幹はしっかりとしていた。しかし、その腕はわずかながら震えている。
 疲労のためか、動揺のためか。あるいはそのどちらともか。フリッツには判りかねた。

「ちょっと一緒に旅したからって、仲間ヅラしていい気にならないで。あたしはその気になれば誰とでも組めるし、あんたらの代わりなんていくらでもいる。あんたらはここに来るまでに利用させてもらっただけなの。狙われてる人間と敢えて一緒に旅するなんて、バカバカしいにもほどがあるわ」

 ルーウィンの左手も、カタカタとぶれ始めているのがわかった。しかし相変わらず、その的はフリッツの額に定められている。

「カーソンのことにしたってそうよ。ワルモーンに襲われる危険まで冒して、なに善人ぶってるのよ! 赤の他人じゃない、なに助けようとしてるのよ。こっちにとっちゃ、いい迷惑だわ。なんであんたらがあいつの近くにいるのよ!」

 次々と吐き出される言葉は、叫び声に近かった。
 フリッツは、黙って一歩踏み出した。

「来ないで! 打つわよ」

 フリッツはルーウィンの目を見た。この位置では、まだ彼女の気持ちは読み取れない。
 また一歩、進んだ。

「聞こえなかったの。打つって言ってるのよ!」

 フリッツは一歩、また一歩と踏み出した。
 ルーウィンは息を呑んで、一歩、また一歩と退がりはじめる。
 ルーウィンが退いたのを見て、フリッツは足を止めた。

「なによ! 弱虫のくせに! 臆病なくせに! なに痩せ我慢してるのよ。さっさと後ろ向いてシッポ巻いて帰れ!」

 最後のほうは、もはや悲鳴だった。甲高い声が擦り切れた。
 彼女は泣いてはいない。涙はまったく出ていない。
 しかしその悲しく歪んだ表情が、すべてを物語っていた。

「怖くなんてないよ。だってルーウィンだから」

 フリッツは口を開いた。そして微笑んだ。

「きみはぼくを打てない。だから大丈夫」

 フリッツはまた一歩進んだ。今度は、ルーウィンは動かなかった。
 しかし彼女の右腕は自由になった。手が滑った。
 矢が放たれたのだった。
 そのことに、なによりルーウィン自身が驚いていた。
 矢がフリッツ目掛けてまっすぐ飛んでいく。
 ルーウィンは叫んだ。避けてと言った。
 しかしフリッツは避けなかった。ルーウィンの言葉や、一瞬の出来事に反応しきれなかったか。
 あるいは、避けなかった。
 次の瞬間、フリッツはその場に崩れ落ちた。

「フリッツ!」

 ルーウィンは弓をその場に放り出して、フリッツに駆け寄った。弓を投げ捨てるのは、生まれて初めてのことだった。
 フリッツは地面に倒れていた。ルーウィンはフリッツを見る。自分の心臓の音が、今までにないくらい大きく脈打っている。

 頭が回らない。何も聞こえない。

 ルーウィンはフリッツの身体を探った。矢はどこにも、ささっていない。それならばどうしたというのか。 フリッツの頬に一線、朱が走っていた。そこから血がわずかながらに滲み出ている。
 ルーウィンは息を呑んだ。
 フリッツはルーウィンの腕を掴んだ。
 そして目を開けて、微笑んだ。

「ごめん。今度は腰が抜けたなんてものじゃなかったみたい」

 フリッツは力なく笑った。矢はフリッツの後ろにある木にしっかりとささっていた。矢はフリッツをかすめただけだった。ただ驚いて、腰が抜ける以上のことになってしまったのだった。
 ルーウィンは黙った。
 こんな騙すようなかたちで捕まえることになり、怒っているかもしれない。フリッツは恐々とルーウィンの顔を見た。そしてその意外な表情に驚いた。
 初めて見る顔だった。

「ね、大丈夫だったでしょ」

 フリッツが得意げに言うと、ルーウィンは呟いた。

「…この臆病者」
「うん、そうだね」

 フリッツの手は、しっかりとルーウィンの腕を握っている。
 なにはともあれ、フリッツはルーウィンを捕まえることに成功したのだった。




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