【第6章】
【第十四話 引き際】
広間で歓声が上がるのを聞いて、ルビアスはうーんと唸った。
「そろそろ潮時ね」
数人の伝令専門の部下を前にして、ルビアスはパンパンと手を叩く。
「はい、撤収! そして退却!」
「王宮を攻めないのですか?」
団員の一人がルビアスに尋ねた。この王宮地下にグラッセルの兵力は集中し、肝心な王宮はもぬけの殻であろう。グラッセルを手中に収めるには、またとないチャンスなのだ。
「確かに今攻めれば、警備の手薄になった王宮は簡単に落ちるでしょうね。でも、それがうちのボスの目的じゃないのはわかってるでしょ。ちまちました国取りなんて、あの方の眼中にはない」
ルビアスの紅い唇は弧を描く。
「今回のことで、グラッセルも思い知ったはず。うちが本気を出したらこんな古臭い国、簡単に引っかき回すことが出来るって。あくまで準備段階に過ぎないのよ。揺さぶりをかければ、簡単にこちら側に転がる人間を作るための、ね」
複数人の伝令がその場に跪いている中を、ルビアスはゆっくりと歩いた。
「グラッセルに働いてもらうのはこれからよ。我が漆黒竜団は、まだ何の要求も突きつけてはいないのだから。今回の騒動は、ほんの挨拶程度。本当のおつきあいはこれからよ。さて…」
ルビアスが目配せをすると、伝令たちは頷き、姿を消した。暗く細い通路で、ルビアスは腕を組む。赤々と松明が燃え、濃い陰影を生み出している。そしてその奥の椅子に腰掛けている男が一人いた。ルビアスはヒールの音を響かせ、男に近寄った。
「アーサー!」
ルビアスが憤然と声を上げると、アーサー=ロズベラーはゆっくりとその瞼を開いた。
通った鼻筋に端正な口元、涼しげな目元には何の感情も映し出されてはいない。鍛え上げられた身体と長い四肢。簡単なメイルと、黒いマントが羽織られている。長く艶やかな髪を背中に流して、アーサーは部下の言葉に僅かながら反応を見せた。
「今回の指揮官はあんたなのよ。それを全部わたしに押し付けて自分はぼーっとしちゃって。まったく、ちょっとは働きなさいよ。この給料ドロボウ!」
アーサー=ロズベラーはルビアスを一瞥した。そして、腰に吊るした剣の柄に手をやった。
「む、何よ。あたしの物言いが気に食わないからって斬り捨てるつもり?」
アーサーはものも言わずに立ち上がる。そして、剣を抜いた。
目にも留まらぬ早業とはこういうことを言うのだろうと、ルビアスはいつも思う。アーサーが剣を一振りし、その剣先に付着した血を払う。
すると男たちが三人ほど、バタバタと音を立てて倒れていた。黒い服を着てはいるが、団員ではない。
「グラッセルの隠密兵。この隠し部屋、嗅ぎ付けられてたのね」
ルビアスも気配には気がついていたが、自分では一瞬でここまで鮮やかに始末は出来ないだろうと息を呑んだ。アーサーは相変わらず涼しい顔をし、呼吸一つ乱さず立っている。
その視線の先が何を捕えているか、ルビアスにはわからなかった。
「こいつら、どうします?」
「構わないわ。このまま捨て置きなさい」
ルビアスは部下に言った。
「しかし、楽勝だったわね。さすが、内通者がいると勝手が違うわあ。ねえ」
ルビアスは微笑んだ。そこには小刻みに震えているクリーヴがいる。
顔を真っ青にして、跪いたままのクリーヴは唇を噛み締めていた。ラクトスの前ではああ言ったものの、やはりゴーレムの制御がしきれず、漆黒竜団にも被害をもたらした事実には変わりない。その上、ラクトスたち一介の冒険者ごときに撃破されたとあっては。
「…わたしは、どうなるのでしょうか」
クリーヴは小さな声で尋ねた。
ルビアスはアーサーの顔色を窺った。アーサーの表情はまったく変わらず、ぴくりとも動かない。興味なし、といったところだった。ルビアスはため息をつく。
「仕方ないわねえ。ジンノ」
ルビアスは直属の部下の名を呼んだ。
暗闇から現れたのは、小柄な魔法使いだった。背丈は小さく、歳はクリーヴと同じかそれ以下であったが、どこか疲れ切った老人のような印象を抱かせた。その幼い顔に似合わず束になった白髪が黒髪に見え隠れしている。その暗い瞳は、アーサー以上に何も写してはいなかった。
少年の杖の先に、紫色の光が宿った。それを見て、クリーヴは狼狽する。声を上げようとするが、出せなかった。背中を見せて逃げることも出来ずに、自分の身に迫る死の予感を感じながら、それでもクリーヴは動けない。
瞳いっぱいに絶望と恐怖を浮かべて、クリーヴは目の前が真っ黒になった。
「…お疲れ様。…おやすみなさい」
小柄な魔法使いが、か細い声で呟いた。
地下迷宮に、クリーヴの叫び声が響き渡った。
ゴーレムが姿を消してから、事態は目まぐるしく変化した。漆黒竜団の伝令がやって来たことで、残党が一気に逃げ出そうとしたのだ。ゴーレム撃破に歓喜していたグラッセル兵であったが、その気配を察すると対応は早かった。しかし負傷していた漆黒竜団は捕えられたものの、そうでないものはどこかへと姿をくらませた。しかし隊長は深追いをさせなかった。負傷者の手当てを優先し、グラッセル側も撤退することを決めたのだ。
石柱は倒され、壁は抉られた地下から脱出すると、そこは緑の生い茂る場所だった。連れ去られてきたフリッツは知らなかったが、王宮地下への入り口は立ち入り禁止の敷地内の中にあったらしい。普段は人の出入りもなく、寂れた場所らしかった。
明るい場所へと出たフリッツたちは少し離れた場所で座り込んだ。地下への入り口ではグラッセル兵たちが行ったり来たりしていてせわしない。負傷した兵士を運んだり、捕まえた漆黒竜団の残党を連行したりしていた。担架で運ばれていく人を見てティアラは立ち上がろうとしたが、ラクトスに無言で首を振られて引き止められた。後からまだ余裕のありそうな治癒師が何人かやってきて、それを見てティアラはようやく腰を地面に下ろした。
「いやあ、見事だったよ!」
やってきたのは隊長だった。隊長は地面に座り込んでいるフリッツとラクトスの肩をバンバンと叩いた。すでに体力は風前の灯となっている男二人は、叩かれるままに前のめりになった。
「恥ずかしながら、あの巨大なバケモノ相手に手も足もでなかった。きみたち、ティアラ殿が言うだけあってなかなかやるなあ」
「隊長さんはその前に悪い方たちと戦われているでしょう? わたくしたちは後から来ましたから」
ティアラは隊長に微笑む。しかしそう言っている彼女も、その表情には疲れが浮かんでいた。
「フリッツくん、きみの逃げっぷりなかなかのもんだったよ。敵から逃げ切るというのも、立派な特技だからね」
「は、はあ…」
まったく褒められている気のしないフリッツは苦笑した。
「ルーウィンくんの弓の腕前は素晴らしいし、ティアラ殿もあんなに強いとは! ラクトスも態度が大きいだけあって大したもんだな!」
隊長はゴーレム撃破の興奮が冷めないらしく、豪快に笑っていた。しかしまたしても負傷した兵士たちが運ばれていく。それを見て、隊長は視線を落とした。
「すこしはしゃいでしまったな」
隊長は姿勢をあたらめて黙祷した。ティアラは両手を合わせてその場に膝をつき祈りを捧げる。フリッツはその場で座りなおし、目を瞑った。
しばらくして、ルーウィンが口を開いた。
「そんなに簡単に、めでたしめでたしとはいかないわね、やっぱり」
「ああ。しかし彼らの尊い命は、このグラッセルに息づいていくだろう。彼らの犠牲もあって、こうして賊を退けることができた」
負傷者がみんな行ってしまって、隊長はラクトスに向き直った。
「ああ、それとラクトス。きみの採用についてだが、今晩姫様と大臣との話し合いで決めようと思う」
「たかだかたった一人の人事に、ずいぶんとお偉いさんで話し合うのね」
ルーウィンが呆れると、隊長は答えた。
「きみの採用は正規の入り口ではなく、あくまで私たちとの口約束しかしていないからね。なにか言っておきたいことはないかい?」
ラクトスは顎に手をやって少し思案し、顔を上げた。
「特にないな」
「いいの? 雇ってくれたら誰よりも頑張りますとか、一生懸命働きますとか、そういう一言があったほうがいいんじゃない?」
フリッツがそう言ったが、それでもラクトスは首を横に振った。
「いや、いい。魔法使いとしての腕で要るか要らないか判断してくれれば、それで。今更媚売ったところでなんにもならないだろ」
「まあ、そうだけど」
二人のやりとりを見て、隊長は笑った。
「はは、わかったよ。返事が気になって眠れない、なんてことのないようにな。今日は疲れているだろうから、ゆっくり休むといい」
「ああ、そうさせてもらう」
隊長は四人から離れると、すぐに大声を上げて指揮をし始めた。
漆黒竜団の企みを食い止め、ゴーレムを倒したとはいっても、まだまだ問題は山積みだろう。負傷者の手当てに、兵力の強化、そして王宮地下の捜索だ。しかし本格的にグラッセルの指揮下にない四人は、草むらの上で座り込んでいた。王宮関係者が慌しく行き来するが、誰も四人を咎めはしなかった。
フリッツたちがゴーレムを倒したのを、その場に居るほとんどの人間が知っていたのだ。四人を労うほどの余裕はないが、フリッツたちとしてはだれているところを放っておいてくれるだけでありがたかった。王宮の人間であったら、疲れていても負傷していなければこうはいかないだろう。
「良い返事だといいですね、ラクトスさん」
不意にティアラがラクトスに向かって微笑んだ。ティアラがラクトスの件を知ったのは、つい先ほどのことだ。さすがのラクトスも申し訳ないような表情を浮かべた。
「でもそうなると、あんたとはここでお別れになるわね。ま、あたしとしちゃ清々するけど」
「お前、本当いちいちカンに障るな」
比較的体力の余っているルーウィンがかわいげもなく言ってのける。噛み付きそうなラクトスを見て、フリッツは二人の間に割って入った。
「まあまあ! せっかく一件落着したんだし。今日はゆっくり休もうよ、ね?」
「そうですわね。ゆっくりお湯でも使って、ふわふわなベッドで眠りたいです」
しばらくして四人は疲労の溜まった身体に鞭打ち、重たい腰を上げ王宮へと向かった。
「ほら。おれの奢りだ」
その夜。ラクトスはビンを二つ持ってきた。一つは酒、もう一つはジュースらしい。ラクトスは栓を抜くと、ジュースの方のビンをフリッツに握らせた。飲もう、というのだ。
フリッツは目を丸くする。一行の財布を管理しているのはラクトスだが、財布の紐が硬い彼の口から奢りなどという言葉が出てきたことなどなかった。ラクトスはフリッツの手に冷えたジュースビンを押し付ける。
「お前とこうしていられるのも、あと少しかもしれないだろ?」
「って言ってると、案外違ったりしてね」
フリッツはそう言ってみたが、口にしたことを後悔した。頭はわかっていても、気持ちはまだ整理できていない。言葉に出すことで寂しさを感じてしまったのだ。
漆黒竜団の大元にはまんまと逃げられてしまったようだ。騒ぎの後、隊長たちが地下を捜索してももぬけの殻だったという。あとは捕まえた団員たちを絞り上げて有益な情報が出るかどうかだったが、それはあまり期待できないとラクトスは言った。生かされていることが価値のない証拠で、重要な情報を持ちえる者なら今頃殺されているだろうとのことだった。
しかし、攫われた女王をなんとか無事に帰し、ゴーレムも撃破して漆黒竜団の企みを打ち砕いた。これはラクトスの功績でもある。結果的にだが、ラクトスは女王と隊長の前でその魔法を披露している。フリッツがラクトスの採用に関して心配する点があるとしたら、それは人当たりの悪さだった。それさえなければ、ラクトスは実力も知識も十分にあり、王宮に召されても見劣りはしないはずだ。
彼の内定は硬いだろうと、フリッツは思っていた。
そしてそれは、ラクトスとの別れを意味している。
「そうだな。こんなふうに気持ちが先走ってちゃ、足元掬われちまうかもな」
フリッツの考えなど知る由もなく、ラクトスは苦笑した。二人は椅子ではなく、床に直接座り込んであぐらをかいた。
「この前も言ったが、ステラッカでもグラッセルでも飲酒は十八からだ。よっておれは、法律の範囲内で」
「はいはい、わかったよ。法律で二十歳になるまで飲んじゃいけないところは、マネするなって言うんでしょ。もう、誰に言ってるんだか」
フリッツが言うと、ラクトスは歯を見せて笑った。
「だな。とりあえず」
「「乾杯」」
ビンのままカチンと合わせ、二人はそのまま口に運んだ。喉をそらしてビンを掲げる。息を止めて中身を半分ほど飲み干したところで、お互いにぷはっと息を吐いた。ジュースを飲んでいるフリッツはラクトスに尋ねた。
「どう? お酒の味は?」
ラクトスは口元を手の甲で拭った。
「正直、よくわかんねえ。苦いしな。でもこういうのは気分なんだろ」
「そうだねえ。ここだと、ぼくはあと二年待たなきゃならないけど」
フリッツはビンをくるくると回して、飲み干した。飲み終えたビンを勢いよく床に置く。
「ごちそうさま。美味しかったよ」
「なに言ってんだ。おれはまだ酔ってないぞ。まだこんなにあるんだ、おれの気が済むまでつきあえ」
「ええ、ぼく素面なのに?」
「まあそう言うなって」
眉を寄せるフリッツなどお構いなしに、ラクトスはそう言って次のビンを開けた。