【第7章(前編)】
【第二話 ヒトラス邸】
「いやあ、とんだ失礼を致しました。まさかこちらのお嬢さんのお迎えとは。お嬢さんがうんともすんとも言ってくれないもので、わたくしも手の打ちようがなかったのです」
「まあ、なんとも言えないわよね」
チルルはルーウィンがいることで非常にくつろいでいるようだった。
チルルがルーウィンに懐いていることであっさりと誤解が解け、四人は老年の執事の案内で応接室に通された。若い執事らしき青年がやってきて、てきぱきとお茶の準備を始める。
「おや、美しいお嬢様方ですね。紅茶をお持ちしました。よろしければお召し上がりください」
青年は優雅な手つきでフリッツたちの前に紅茶と茶菓子を置くと、一礼をして出て行った。彼がいってしまうと、ティアラは隣のルーウィンにひそひそと耳打ちした。
「ルーウィンさん、見ましたか? 素敵な殿方でしたね」
「あんたって意外とミーハーよね」
ルーウィンは青年になど目もくれず、今さっき出された紅茶をすでにすすっている。
「わたくし、執事長のセバスチャンと申します。お詫びといっては何ですが、旅でお疲れでしょうし、しばらくここでごゆるりと過ごしてくださいませ。ようこそ、ヒトラス邸へ」
それを聞いて、ラクトスは勢いよく紅茶を噴出した。
正面に座っていたルーウィンはさっと紅茶とお菓子を持ち上げ、ティアラは真ん中に座るチルルをさっと抱き寄せた。女性陣からの無言の非難を受けながら、苦しそうに咽こむラクトスの背中をフリッツは叩いてやった。
「うわ、ラクトス大丈夫?」
「やたらでかいと思ったら、ここはあのヒトラスの屋敷だったのか」
ラクトスは口元を腕で拭った。ティアラは首を傾げる。
「ヒトラスって、いったいどなたですの?」
すると今度は、ルーウィンと、あろうことか守ってもらったチルルまでがティアラからさっと距離を置いた。悲しそうな顔をするティアラに、慌ててフリッツが助け舟を出す。
「いやいや、仕方ないよ。ティアラはしばらく世間と隔絶されてたんだし。ぼくたちもそんなこと説明してないしね」
「では、その説明はわたくしからさせていただきましょう」
セバスチャンはごほん、と一つ咳払いをした。
「我がヒトラス商会は、創始から八十年を迎えます。
先々代が小さな商店を開業したことから始まりました。当時はモンスターの脅威が今と比べて非常に大きく、人々は限られた大地に這いつくばって細々と暮らしていました。人々は立ち向かう武器すらろくに持ってはいなかったのです。
しかしそんな時代に先々代は立ち上がりました。点と点としてこの大陸に存在しているだけの街や村々を繋ぎ、各地にモンスターに負けない繋がりを作ろうと試みたのです」
セバスチャンは、応接間にかけられている肖像画に視線を向けた。
「自らの足で歩き、危険を冒して赴いた土地の先々で、腕のいい職人を見つけては武器を買い、良く効く回復薬を探しては買い付けた。それらを護衛に与えてキャラバンを作り、さらに各地を巡る。
そうして彼は世の中により強い武器、よりよい薬を広めていったのです。それによって人々はモンスターに対抗する術を持ち、以前ほどその脅威にさらされることもなくなりました。武器や薬の普及に、ヒトラス氏は大変な功績を残したのです」
やっと喉の調子を取り戻したラクトスが言葉を続けた。
「当時グラッセルは各地に街道を敷く計画を立てていたが、モンスターの妨害に遭い、なかなかそれは進まずにいた。それをヒトラスの協力で、それまでかかっていた年月の、実に三分の一の速さで完成させた。
街道が敷かれたことにより街や村の間の行き来は盛んになり、各々足りない物資が運ばれ交換され、南大陸は豊かになる。旅人や冒険者はこの頃に増え、旅する人間が増えればヒトラスの需要は増える。
腕のいい職人を雇い、自ら経営する農園を持ち製薬所を構え、市場にはヒトラス製のモノが溢れた。こうしてヒトラスは現在の確固たる地位を築きあげたってわけだ」
ヒトラス社員顔負けの説明をしてみせたラクトスに、セバスチャンは驚いたようだった。
「おや、お詳しいですな」
「こんなもん一般常識だろ」
ラクトスは何食わぬ顔で紅茶をすすった。
「じゃあぼくたちが今まで通ってきた街道は、ヒトラスのお陰で出来たものだったんだね」
「まあ、そういうことになりますかな」
ヒトラスの名こそ知ってはいたが、その歴史や功績までは知らなかったフリッツには興味深い話だった。おそらくルーウィンも初めて知ったのだろうが、それを表に見せる素振りはしない。
ルーウィンはセバスチャンに言った。
「で、チルルがここにいることの説明にはなってないけど」
「おお、そうでした。庭の中に迷い込んだようで、このお嬢さんがうろうろされていたのですよ。あまりにも可愛らしいものですから、わたくしも魔が差したといいますか、ちょっと一緒にお茶でもしようかなという気分になりまして」
当のチルルは並べられた宝石のような菓子のどれを手に取ろうか迷っている最中だった。ヒトラスの敷地内に侵入してしまったことに、彼女も悪意はないのだろう。
「ミチルに早く教えてあげたほうがいいよね。心配になって、門の外でうろうろしてるかも」
フリッツはそう提案したが、ラクトスは腰を上げようとはしない。
「いや、あいつも案外ゆっくりと茶ぁしてるかもしれないぜ。あいつがこの屋敷のことを知らなかったとは思えないしな」
「どういうこと?」
フリッツは首をかしげた。
「目ざとい商人のあいつがヒトラス商会の邸宅のことを知らないはずがねえ。おれたちがこの街に立ち寄ることを踏んで、タイミング見計らってわざとチルルを潜り込ませた可能性もあるってことだ。ヒトラスとのコネクションを持つためにな。
まあそう簡単にはいかないだろうが、今回のことでチルルを返す時に執事と話くらいはできるだろうし、売り込むきっかけくらいにはなるだろう」
ラクトスはそう言って紅茶をすすった。真偽のほどはわからないが、その可能性を思いついたラクトスも、それを断固としてフリッツが否定することができないミチルも、なかなかの曲者だとフリッツは思うのだった。
「ところで、皆さんはあちこちを旅しておられるのですよね。でしたら、ちょっとした人捜しにご協力いただけませんかな」
突然のセバスチャンの言葉に、一同は彼を見た。ルーウィンはケーキを口に頬張りながら気だるそうに返事をする。
「生憎、人探しはお腹一杯なんだけど」
「まあまあルーウィンさん。お話だけでも。それで、セバスチャンさんが捜されているのはどなたなのですか?」
ティアラが微笑みかけると、執事は眼鏡の向こうの視線を落とした。
「ルビィお嬢様です。今は亡き奥様の忘れ形見で、旦那様の一人娘であらせられます」
予想以上に重い話だ、というのがその場に居る一同の感想だった。
「こんな恵まれた家から出て行くなんてよっぽどだな。なんだ、駆け落ちか?」
「ラクトスさん、あなたにはデリカシーがないのですか」
ラクトスの発言に、ティアラが小さく講義する。セバスチャンはラクトスの問いには答えなかった。
セバスチャンは静かに立ち上がり、窓辺にかけられたレースのカーテンを引いた。そこからは中庭がよく見える。そこに白い石で作られた噴水があり、その噴水の上にブロンズで出来た像があった。
「旦那様は像を壊さないのを、重くて撤去するのが面倒だとおっしゃられます。しかし本当は、まだお嬢様のお姿をこの邸内に留めておかれたいのです」
噴水の上の肖像こそ、お嬢様の像だった。
ブロンズはまだ錆びておらず太陽の光を受けて輝き、雨風にさらされた様子がまったくない。おそらく毎日磨き上げられているのだろう。嘶き、身体を起こし前脚を上げ、いまにも天へと駈けて行きそうな駿馬。そしてその上に、馬の腹を両腿でしっかりとしめ、馬上で立ちあがり片手に手綱を、もう一方の手には細身の剣を振り上げる果敢な女性の姿があった。
切り揃えた腰ほどまでの長い髪は宙に扇型を描き、その女性のしなやかで繊細な身体の曲線美といったらない。鎧などを装備している様子はなく、薄い簡素なドレスだけを身に着けているようだ。そのせいで、豊かな胸や細い腰首がよく分かる。
「…ほんとにあんなひとなの?」
思わずルーウィンが疑いの眼をセバスチャンに向ける。彼女の言葉を補うと、本当にこのような完璧な女性がこの世に存在しているのか、ということになる。
「夜になると、旦那様はお嬢様の像を眺めるのです。わたくしが門の錠をかけ庭を横切ると、部屋の明かりで旦那様がよく見えるのでございます。特にここ最近は、毎日お眺めになっておられる」
セバスチャンは窓の外を眺めていたが、振り返りフリッツたちに向き直った。
「もしも、もしもでよいのです。どこかで元気にやっていらっしゃることがあれば、その時はわたくしどもに知らせていただけないでしょうか」
「わかりました。どこかでお見かけしたら、必ず知らせて差し上げますわ」
ティアラが安心させるように微笑むと、セバスチャンはほっとしたように頷いた。フリッツは席から立ち上がり、窓の外のブロンズ像を食い入るように眺めた。
「おっ、なんだフリッツ。お前ああいうのが好みか」
「ち、違うよ。そうじゃなくて」
ラクトスが茶化し、フリッツは顔を赤くする。そしてもう一度、フリッツはブロンズ像を見上げた。
「ぼく、この女の人、どこかで…」
「失礼します」
ノックの音が響き、先ほど紅茶を運んできた執事が現れた。執事がティアラの空いた皿を下げながら優しく微笑む。
「紅茶のお味はいかがでしたか?」
「とても美味しかったです」
ティアラは執事に微笑んで言った。執事も爽やかに微笑み返す。
「そう、それは良かった」
フリッツが席に戻ろうと、窓に背を向けて踵を返す。
するとその瞬間、ぐらりと世界が傾いたような感覚に襲われた。
しかし体勢を持ち直し、気のせいだったかとフリッツはゆっくり椅子に腰掛ける。頭を抑えて、椅子に深く腰掛けたフリッツをルーウィンは覗き込んだ。
「あれ、あんたどうしたの? 具合でも悪い?」
「ねえ、ルーウィン。なんだか、すごく、眠い…」
視界がぐにゃりと、歪む。
耐え難い睡魔に襲われて、フリッツは気を失った。
まだティーカップの並ぶテーブルにお構いなく額を打ち付けたフリッツを見て、さすがのルーウィンも驚いた。崩れ落ちたフリッツの肩を掴み、顔を向けさせて様子を伺う。
「ちょっと、しっかしりなさいよ。あんたまだ呪いが…」
剣の呪いが続いているのではないかと危惧したルーウィンだったが、それが間違いであることに気がつく。ルーウィン自身も、強い眩暈と、そして睡魔に襲われたのだ。隣のチルルはすでに寝息を立てている。ティアラはかろうじてやっと目を開けていたが、今にも落ちてしまいそうだった。
「おいあんた! さては一服盛りやがったな」
「そ、そんな。わたくしは…」
ラクトスはセバスチャンに吠えた。しかし、狼狽しながらもセバスチャンはだんだんと意識を無くしていく。ラクトスは唇を噛んだが、やがて彼も耐えられず限界が来た。テーブルを強く拳で打ち付けたが、そのままずるりと沈んでいった。
ラクトスもだめになったのを見て、ルーウィンは歯を食いしばりポケットからナイフを取り出した。睡魔に侵された頭で、ルーウィンは必死になってナイフのケースをとり、それを自身の太ももに突き立てようとした。逃亡することまで考えるとリスクの高い行為だが、ここで全員が気を失ってしまうのはあまりにも危険すぎる。痛みに代えても、今は目を覚まさなければ。
「……っ!」
ルーウィンはどさりと崩れ落ちた。
ナイフはカラカラと虚しい音を立てて床に転がる。背後から忍び寄った何者かに、後頭部を手刀で落とされたのだった。
つい先ほどまで和やかだった応接間は一気に静まり返った。テーブルの上にはひっくり返ったポットや菓子皿、そして椅子や床には六人もの老若男女が昏倒している。
それは暖かな午後に似つかわしくない、なんとも奇妙な光景だった。