小説『不揃いな勇者たち』
作者:としよし()

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【第九話 予想外の里帰り】
 
 ガタゴトと音を立てて進む幌馬車は、そう快適なものではなかった。ずっと寝転んでいれば背中が痛いし、座っていればお尻が痛い。しかし幸い盗賊もモンスターも出ず、故郷への道のりは順調だった。
 朝を迎え、揺られる荷台の上でビリーは意気揚々とルーウィンに話を聞かせていた。なぜかフリッツの小さい頃の恥ずかしい話ばかりが話題に上っている。

「それでな。フリッツのやつ、木に登ったまではいいが降りてこられなくなってよ」
「もう! やめてよ、昔の話じゃないか」

 フリッツは抗議の声を上げたが、ビリーは聞く耳を持たなかった。

「そのままベソかいてどうにもならなくなって。いっつもアーサーが助けに来てくれるんだよな。あぁ、アーサーってのはフリッツの兄貴のことな」

 よくもまあそこまで覚えていると感心したくなるほど、ビリーはフリッツの過去の話をしてみせた。フリッツ自身が覚えていないこともあったくらいだ。嘘か本当かわかったものではない。

「そうそう。かけっこやるといっつもビリだったな。おかげでおれ、名前を持って行かれそうになっちまったよ。フリッツがビリーに改名しやしないかとひやひやしたぜ」
「あぁ、『ビリー』と『ビリ』ってことね」
「いい加減にしないと怒るよ!」

 フリッツはすごんで見せたが、やはりまったく効果は無かった。案外ルーウィンは面白そうにビリーの話を聞いている。そのせいで、ビリーの饒舌さに拍車がかかるのだった。

「ほら、見えてきたぜ。我等が故郷」

 森の木々が徐々に開けてきた。緑の中に小さな集落がひょこっと顔を覗かせる。こぢんまりとした集落だった。フラン以上、ガーナッシュ以下といった集落の規模だ。村の手前には畑が広がり、周りの農作業に精を出している村人たちが目に入った。子供たちが楽しそうにあぜ道を駆け回り、冒険者ごっこをして遊んでいる。
 土地が広く畑の合間に家があり、隣の家までが離れているフランとは違い、この村は畑が手前にまとまって作られ、奥には寄せ合つめたように家々が連なっていた。畑にはかかしがいくつも突き刺さっているのが見える。ビリーは意気揚々と声を上げた。

「緑の村、カヌレだ!」





 
 乗せてもらった馬車の主人にお礼を言い、村の入り口で別れた。家に辿り着くまでには、畑の中をしばらく歩いていかなければならない。小さな村なので大した苦労にはならないが、久方ぶりに帰ってきたフリッツにはそうではなかった。
 誰も自分のことを覚えていないのではないか、よそ者扱いされたら落ち込むなあと馬車の中で散々考えてきたが、ついに辿り着いてしまった。ビリーを先頭にして、三人は畑の間を縫うように伸びた道を歩いた。それに気がついた農夫の一人が、畑仕事の手を休めてビリーに手を振った。

「おっ、ビリーが帰ってきたぞ」

 ビリーは村人に向かって手を振るが、フリッツはどうしたらいいのかわからずにいた。

「隣のあの子、どっかで見覚えあるんだが、誰だったかな?」

 農夫が隣にいた村人にこっそり尋ねたのを、ビリーは耳聡く聞きつけた。

「フリッツだよ! ほら、ロズベラーさんとこの!」

 離れた村人に向かってビリーが大声で叫んだので、フリッツは顔を赤くした。これでも誰だっけと言われてしまったら、さすがに気が滅入ってしまう。しかしビリーの返事を聞いて、向うの方で村人が納得したかのような反応があった。どうやら自分は忘れられてしまっていないようだと、フリッツはほっとする。
 その様子を見ていたルーウィンはフリッツに訊ねた。

「あんた、どのくらいマルクス師匠のとこにいるのよ?」
「えっと。六歳のときに出て行ったから、十年くらいになるかな」

 歩きながら、変な気持ちだとフリッツは思う。見間違えるわけもない、自分の村。自分は今までの人生の何年かをここで過ごしたはずだ。思い出は頭の中に焼きついて離れない。まぶたを閉じなくとも、昔のことは思い出せるほど、子供の頃の記憶はなぜか鮮明だ。胸が締め付けられるような感覚。これが懐かしさとか、切なさとかいうものなのだろうか。
 しかしそれは多分、大多数の人が感じる郷愁とはどこか違うのではないだろうかと感じていた。

「じゃあ、おれの家ここだから。また後でな、フリッツ」

 ビリーは声を弾ませてドアの向こうへ帰っていった。いよいよ今度はフリッツが帰る番だ。ビリーの家から数件挟んだすぐそこがフリッツの家だった。こぢんまりとした、他と大して変わらない普通の家だ。しかし以前は母の趣味で家の前には花の鉢植えが飾られていたのに、その日はそれがなかった。
 自分の家のドアを目の前にし、フリッツはドアに手をかけるのを躊躇った。ルーウィンが不思議に思って、フリッツの顔を覗き込む。

「どうしたの?」
「なんか緊張しちゃって。長いこと離れていたから、両親はぼくのこと忘れてるんじゃないかなあって」

 眉を情けなくへの字に曲げるフリッツを見て、ルーウィンは背中を強く叩いた。実はけっこう痛かった。

「ばっかねえ。子供の顔忘れる親なんているわけないじゃない」
「うん…」

 それでももじもじしているフリッツの様子を見て、ルーウィンはにやりと笑う。

「ははーん、わかった。もしかしてあんた、家出でもしてたの? 親子喧嘩でもした?」
「ちっ、違うよ! 誰が家出なんて」
「なんだ。ちょっとは甲斐性あるかと思ったのに」

 ルーウィンはつまらなそうに息を吐いた。

「じゃ、入るよ」

 フリッツはごくりとつばを飲んだ。咽がからからだ。鉄製の取っ手に手をかける。冷やりと手に冷たかった。

「おじゃま、します」

 遠慮がちに、フリッツは自分の家のドアを開けた。
 暗い室内。フリッツの鼻は敏感に動いた。どこかでかいだことのある香りだ。あれはそう、確かギルドで。酒と葉巻の匂いだ。少しおかしいと思った。父親は確か、葉巻を吸わなかったはずだ。

「アーサー!!」

 甲高い声を上げて飛び出してきた母親に、フリッツは突然抱きすくめられた。

「違うよ母さん! ぼくはフリッツだよ。ぐえ、苦しい」

 フリッツはカエルが潰れたような声を出した。それを聞いて、母親は我に帰った。

「…ふ、フリッツ?」
「そうだよ。やだなぁ、忘れちゃったの?」

 そう言いながらフリッツは傷ついた。予想は当たってしまったが、覚悟していてもやはり寂しいものだった。母親はフリッツの顔を見、自分の目の端に溜まった涙を隠すように袖で拭った。

「あ、やだわたしったら。そうよね、ごめんなさいね。あぁフリッツ!!」
「いたいどうしたの、母さん」

 フリッツは動揺する。ここまでぼろぼろになった母親の姿を見たことがなかった。フリッツの知っている母親は、もっと厳格でしっかりとした人間だった。目の前の母親は、頬がこけて痛々しいほどだ。昔はきちんと頭のてっぺんで結い上げられていた髪も、いまはすっかり乱れている。心なしか、髪もずいぶんと白くなったようだ。
 母の変わりように驚いたフリッツだったが、それがただの老いのせいでないことはわかった。部屋の奥からくぐもった声が聞こえた。

「…アーサーか?」
「ごめん。フリッツだよ、父さん」

 現れたのは父親だった。酒瓶を片手にしている。以前から額は広かったが、生え際の後退がいっそう激しい。眉間に刻まれたしわも格段に多くなっている。一瞬、昔に亡くなった祖父かと思ったほどだ。

「いったいどうしたの。兄さんは?」

 以前にも増してしきりに兄の名を口にする両親を不審に思った。そしてこの変わりようにフリッツは不信感を抱いた。家の中は荒れていて、片付いているとはお世辞にも言えない。
 昔はこんなことはなかった。床の埃はていねいにふき取られ、テーブルクロスの上には花が飾られ、窓は一点の曇りもなかった。洗濯物が山積みになっていたり、数日分の皿が無造作に流しに置きっぱなしにしてあるなんてことは、間違っても起きなかった。しかしそれがフリッツの目の前の光景だ。

「兄さんになにかあったの?」
「死んだほうがマシだ! あの恥さらし者め!!」

 父親は酒瓶をテーブルに投げつけた。さすがのルーウィンも突然のことに驚いたようだ。ボトルは砕け散り、フリッツはワインをまともに浴びた。

「なにがあったか話してよ父さん。でなきゃわからない」
「あいつはなぁ」

 とうとう母親がわあっと泣き出した。父親はつばを撒き散らす。

「あんな奴はなぁ、もううちの家族じゃない! 居ないも同然なんだよ!」

 それはまるで空気が震えるほどの叫びだった。反動で静まり返った部屋に、痛いほどの静寂が訪れる。掻き破るものは、母親のすすり泣きだけだった。ルーウィンも立ち尽くして様子を窺っていた。両親はルーウィンがいることにもお構いなしだった。

「服が塗れた」

 フリッツは小さく呟いた。

「二階に上がろう、ルーウィン」

 フリッツは階段を上がって行った。ちらと二人を振り返り、ルーウィンは足早に後を追った。






「やっぱり」

 フリッツが扉を開けると、そこは物置だった。ワインですっかりぶどう色に染まってしまったシャツを脱ぎ、フリッツは髪をぬぐう。

「ここ、ぼくの部屋だよ。いや、ぼくの部屋だったんだ。ルーウィンは大丈夫? 濡れてないよね」

 フリッツは沢山の荷物の詰まった箱やら樽やらを踏み分けて奥に入った。出来た道をルーウィンが辿る。

「あったあった。服がこんなところにしまってある」
「棄てられてなくてよかったじゃない」

 ルーウィンは言ったが、フリッツは苦笑した。

「そりゃ棄てるわけないよ。もとは兄さんのものだもん。兄さんの小さい頃の思い出が詰まった服をそんな簡単に捨てるわけない」

 そう言われてルーウィンは返す言葉がなくなってしまった。さすがの彼女も、こういった事態に居合わせるのは初めてのようで、少なからず戸惑っている。それを察したフリッツは慌てて言った。

「ごめん! 困らせるつもりじゃなかったんだ」

 箱をあさって、フリッツはめぼしいシャツをひっつかむ。腕を伸ばしてとろうとしたとき、ルーウィンが声をあげた。

「やだ、怪我してる」
「あ、ほんとだ」

 見ると腕から鮮血が一筋流れている。酒瓶の割れた破片が飛んでしまったようだ。

「いいよ、どうせアルコールがかかったんだし。ほっとけば治るって師匠は言う。でも酒臭いなあ」

 シャツから頭だけを覗かせてフリッツは言った。

「それよりも、辛気臭いね。外に出ない?」

 二人は物置部屋となったフリッツの部屋の窓から外に出た。両親のいるダイニングを通りたくなかったためだ。一階の屋根に飛び降りて、下まで降りた。

「ね、大丈夫? なんか気持ち悪いわよ、あんた。いやに落ちついてる」

 少し躊躇って、ルーウィンは言った。

「あんたの家はもともとこんなんだったの?」

 フリッツは首を横に振った。

「いいや、違ったよ。もっと普通だった。絵に描いたような家族だって、ご近所に言われたこともある」

 ある一点を除いては、ということも言われていたが、ルーウィンに言うのはあえてやめておいた。

「こんな風になってたことは知ってたの?」
「もちろん知らないよ。それに考えてもみなかった」

 十年ぶりに帰ってきて、家が、両親がこんな状態になっているとは思いもよらなかった。いったいいつ頃から、なんのせいで、どのような経緯でこうなってしまったのかさっぱり見当もつかない。原因を伺い知ることができる唯一の言葉は、父が発した、息子である兄に対する罵倒の言葉だけだ。あれだけ大事に、宝物のように慈しんでいた兄に対して、あのような言葉を父の口から聞いたのは初めてだった。

「多分両親がこんなふうになったのは、兄さんのせいなんだと思う。父さんもああ言ってたし、あの二人にこれだけの影響を与えられるのは兄さんだけだから」

 ルーウィンは、落ち着いてそう話すフリッツを怪訝そうに見つめた。

「あんたのお兄さんって、どんなひとだったの」
「優しいひと。ぼくにすごく良くしてくれたんだ」

 そう話して、やっとフリッツは表情を和らげた。

「ものすごく優秀で、なんでも出来た。かっけっこも木登りもケンカも勉強も。小さい頃から剣術を習っていて、村中の期待の星だった。なにをやっても一番でとってもかっこいいんだ。正義感も強かった。ぼく、いじめられてたところを兄さんに何度助けてもらったか分からないよ」

 フリッツは兄が大好きだった。マルクスに師事してからというもの一度も会っていないが、子供の頃の優しい記憶は今でもしっかりと残っている。困ったことがあると、いつも必ず助けてくれた。強く優しい兄で、両親の自慢であったが、フリッツにとっても自慢の兄だった。そんな兄が、両親を悲しませるようなことをするはずがない。

「きっと父さんはなにか誤解をしてるんだ。兄さんは優しいひとだもの」

 フリッツは微笑み、それを見てルーウィンもほっとした表情を浮かべた。

「おい、フリッツ。聞いたよ、お前の家のこと。ちょっとこっち来い!」

 見ると数件先の家のドアからビリーが顔を半分覗かせ手招きをしている。フリッツとルーウィンは頷き、ビリーの家に向かった。中にはビリーと、ビリーの父親が立っていた。

「おじさん! お久しぶりです」 

 フリッツはぺこりと頭を下げる。ビリーの父親はにかりと笑った。

「ああ、久しぶり。あの頃に比べりゃ、ずいぶんとでかくなったなあ」
「お元気でしたか?」
「まあまあだ」

 ビリーの父親はフリッツとルーウィンを招き入れた。ビリーに促され、フリッツは椅子に腰掛けたがルーウィンは壁際にいた。テーブルを挟んでビリーと父親が座った。

「なにがあったか、知ってるところまでは話してやるから」
「ごめんなさい。ご近所にも迷惑かけてるよね」

 あの様子が今日に限ったことでないならば、近所の住人には多大な迷惑を掛けているはずだ。父は飲んだくれ、母は嘆いている。そんな状況の家族が近所にいるのに楽しく暮らせるはずがない。

「そんなことはないぜ、とは言えないな。だがお前さんが気に病むことはないよ。久々に帰ってきたっていうのに驚いただろ」

 ビリーの父親はフリッツにいたわりの言葉をかけた。

「どうしてこんなことになったんだ? ロズベラーさん家っていえば、親父さんは凛々しいわ奥さんは綺麗だわ、アーサーは良くできるわで有名ないい家だったじゃないか」

 横から口を挟んだビリーに父親が答えた。

「原因は一通の手紙らしい。どうやら差し出し人はアーサーみたいだな」
「兄さんの? いったいどうして」

 フリッツの問いに、トーマスは首を横に振った。

「わからん。だがあの二人がおかしくなったのは、あれくらいしかきっかけがないように思う。他に変わったことはなかったはずだ」

 フリッツは黙りこんだ。その手紙に一体何が書かれていたのかはわからない。なんにせよ村人たちは、アーサーがらみのことだとは感づいているようだが事の仔細はわからないらしい。

「その手紙は、確かに兄さんのものなの。筆跡とか」
「それがな、おれが第三者の立場で確認してやるって言ってるのに、ニコラスのやつ耳を貸さないんだよ。家に押しかけてったら、あいつアーサーが家を空けるまで書いてきた文字という文字を全部燃やしちまいやがった! もちろん、その手紙もな。だからお前に見せてやることはできないんだ」

 手がかりは一切なくなったということだ。フリッツはトーマスに尋ねた。

「手紙の内容はどんなのかわからない?」
「さあ。でもあの様子から察するに、尋常じゃないだろうな。奥さんの方はひたすら悲しんでるみたいだが、ニコラスは酒におぼれてあのザマだ。村の連中は暇人だからな、色んなうわさが流れてる。でもどれもこれもくだらないから、気にするな」

ビリーが頬杖をつき、ため息をついた。

「よっぽどのことなんだろうぜ。アーサーが死んだんじゃないかってくらいの悲しみようだもんな。あんな有様じゃ、本人たちに詮索する気すら起こらねえよ」

 ビリーの父親はフリッツに向き直った。ひどく真剣な表情をしている。

「なあフリッツ。ものは相談なんだが、お前、両親のために帰って来ないか?」

フリッツは驚いて顔を上げた。

「父さんたちのために? ぼくが?」

 すっとんきょうな声を上げるフリッツに、ビリーの父親はさらに強い調子で続けた。

「二人はひどく落ちこんでいる。ここで息子のお前が励ましてやらんでどうするんだ」
「ぼくが、あの二人を・・・」

 フリッツは呟いた。幼い頃、厳格な両親の言葉を違えたことなど一度もなかった。大人しくしていろと言われればそうしたし、邪魔になるといわれれば出て行った。幼い頃のフリッツにとって、両親の命令は絶対だった。同じ家族であるのに、ひとつ屋根の下に住んでいるのに、フリッツには絶対に手に届かないところに二人はいた。
 そんな二人を、フリッツが助ける。想像もつかないことだった。

「そんなの無理だよ」

 それを聞いたビリーの父親は眉をひそめた。

「じゃあなんだ。お前はあんな状態になった両親見捨てて、また行っちまうっていうのか」
「それは!」

 フリッツは俯いて黙り込んだ。両膝に置かれた手が、所在無さげにズボンの生地を手繰り寄せている。すぐに返事の出来ないフリッツを見て、ビリーの父親は深いため息をついた。

「まあ無理にとは言わんが。よく考えてみてくれ」
「うん」

 フリッツは下を向いたまま頷いた。

「おれは畑に行ってくるからな。しばらくここにいてもいいぞ。飲み物とか、あと軽いものなら勝手につまんでくれ」

 ビリーの父親はそう言うと、立てかけてあった農具を担いで出て行った。壁際にもたれて三人のやり取りを静かに見ていたルーウィンは、フリッツの傍にやってきた。

「で、どうするの。あんたは」

 たかがおつかい、されどおつかい。
 その寄り道の里帰りが、まさかこんな選択肢をフリッツに与えてくるとは思ってもみなかった。フランに帰り、師匠と今までどおりの生活を続けていくはずだった。それがまさか、家に帰るかどうかを迫られることになろうとは。
 実際に両親の口から言われたことではない。しかし今の二人の状態を知って、知らなかったときのように平気な顔をして帰ることなど出来なかった。しかし、両親との間に長い時間の隔たりがあるフリッツにとって、この事態は予想以上に難しい状況だった。

 フリッツはしばらく黙り込んで考えた。自分がこれから、どうすべきかを。
 そんな中、何の前触れもなくカヌレ村で事件が起こった。






「子供が攫われた!」

 表が騒がしくなって、フリッツたちはドアを開けた。畑の周りで、大人たちがなにやら騒いでいる。

「助けてちょうだい! うちの子が、ニーナが盗賊にさらわれたの!」

 さらわれた子供の母親が、ひどく慌てた様子で叫んでいた。それを周りの村人たちが落ち着かせようとしている。降りかかった災難に混乱してしまいそうになる母親を励ましながら、村人たちは話し合っていた。

「どうする? 今からガーナッシュに行くだけでだいぶかかるぞ。その上ギルドで、依頼を受けてくれる奴を探さなきゃならん!」
「しかしガーナッシュギルドはあのザマだ。まったく、どうしてこんなときに。どいつもこいつも酒ばかり飲みやがって!」

 小さなこの村にギルドはない。剣に長けており、唯一の頼みである剣術師範のフリッツの父はあの様子だ。ガーナッシュギルドは距離があり、頼れる冒険者がいるかどうかもわからない。辿り着いたところで、勇敢な冒険者が名乗りを上げてくれるとも思えない。そんな村人たちのやりとりを聞いて、母親はますますヒステリックに叫んだ。

「誰か! 誰かうちの子を助けて!」
「本当に誰でもいいなら、あたしが行くわ」

 その返事に村人たちはざわめいた。返事をしたのは小柄な少女だったのだから無理もない。村人たちの視線がいっせいに彼女に集まる。隣でフリッツは驚いた。ルーウィンは凛とした様子で、奇異なものを見るような村人たちの視線にびくともしなかった。村人の中の一人がおずおずと尋ねる。

「きみは、確か今日ビリーと一緒に来た子だね?」

 ルーウィンは頷いた。

「見てのとおりの冒険者よ。一応腕に覚えはあるつもりだけど、女だし体格も良くないし、任せられないって思う気持ちはわかるわ。でもガーナッシュまで助けを呼びに行く間、なにもしないでいるよりはあたしが行ったほうがいいと思う。失敗したら見捨ててくれて構わない。上手くいったら、それなりの報酬が欲しい。どう?」

 フリッツは息を呑んだ。彼女の勇気ある言動だけではない。その凛々しさと強さが、彼女から滲みでてくるのがわかるのだ。ルーウィンは年のわりに小柄で、その体つきだけを見ればとても任せる気にはならないだろう。しかし彼女の強いまなざしと雄々しさは、この張り詰めた空気の中でその場にいる全員が認めざるをえないものだった。
 この人ならやってくれるかもしれない、さらわれた少女を助け出せるかもしれない。そう周りの人間が思い始めていることを、フリッツは感じていた。
 さらわれた少女の母親がルーウィンの足元にすがるようにしゃがみこんだ。

「お願いします! 娘をどうか助けてください!」

 ルーウィンは少し腰を落として、母親に話しかけた。

「出来る限りのことはするつもりよ」

 ルーウィンは立ち上がった。

「その盗賊団のアジトの場所に心当たりは?」
「おそらくこことガーナッシュとの間の森の中だろう。あいつら、いつもそこから現れるらしい」
「わかったわ」

 ルーウィンはフリッツに向き直った。フリッツは心配そうに眉根を寄せる。ルーウィンとは反対に、自分はきっと情けない顔をしているだろうと思った。

「ルーウィン…」
「っていうわけだから、ちょっと小遣い稼ぎに行ってくる。きっとあたしたちが捕まった盗賊団と同じだわ。全員倒すのは無理だけど、女の子一人連れて帰るくらいあたし一人でも出来る」

 フリッツはどうしたらいいのかわからなかった。一人で行くのは危険だ。しかしここでルーウィンが行くのをやめれば、さらわれた少女の命が危ない。

「あんたには嫌な思いさせたわね。数日間付き合わせて悪かったわ」

 後ろを向いたままそう言って、ルーウィンは村の出口のほうへ走っていった。フリッツの後ろでは、少女の母親をなだめようと村の女たちが駆けつけ、男たちは混乱しながらもガーナッシュへの助けを求める準備をしている。
 フリッツの両親は、村がこれだけ騒がしいというのに相変わらず姿を見せなかった。フリッツは頭の中がぐるぐると回っていた。
 攫われた子供。行ってしまったルーウィン。慌てふためく大人たち。


 自分は何をすればいい。今、自分の腰に下げているものはただの木の棒なのか。背中に負っているものは鉄の飾りなのか。自分は、ここに突っ立ったままでいいのか。

「フリッツ、お前も手伝え! 馬から農具を外す準備を…」

 ビリーがそう叫んだときには、フリッツはもうその場にいなかった。




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