【第7章(後編)】
【第二話 月夜の女剣士】
月に照らされた道を歩いて、フリッツは酒場に辿り着いた。浮かれた勢いに乗って、そのまま扉を勢い良く押し開いてしまいたかった。しかし、実際にはそうはいかない。フリッツはそこまで気の大きい人間ではなかった。
なにより、それが出来なかった。酒場の入り口を塞ぐように誰か立っているのだ。
「こんばんは。いい月夜ね」
「はぁ、そうですね」
フリッツは困惑しながらも返事をした。突然知らない人間に声をかけてくるなんて、酔っ払いだろうかといぶかしむ。しかしその声音に酔っている様子はない。暗がりにうっすらと見える細い線からも、声の主は女性だとわかった。
早く兄さんに会いたい。今まであったことを話して欲しい、自分がしてきたことを聞いて欲しい。逸る気持ちを抑えて、フリッツ穏やかに言った。
「そこを通してください。人と待ち合わせているんです」
「あたしはルビアスよ。クーヘンバウムで会ったの、覚えてない?」
フリッツは眉根を寄せる。会話が成立していない。
女が一歩踏み出し、店の外壁に取り付けられているランプの明かりに彼女の姿が浮かび上がった。短髪の黒髪で、背がすらりと高く、唇に刺した紅が印象的だ。特に防具は無いが腰にレイピアを吊っている。用心に越したことはないと、フリッツは一歩引いてそれとなく身構えた。しかし、言われたとおりどこか見覚えがあるようにも思えた。
フリッツが警戒しているのを見て、女は手を振りながらへらっと笑ってみせる。
「ほらぁ、一緒に飲みに行ったじゃない」
「あなたは、あの時の!」
フリッツは思い出した。クーヘンバウムでフリッツを強引に酒場に連れて行った、あの女性だった。
「あの時はご馳走様でした。ぼく、お礼も言わずに」
「いいってそんなの。それにね、あたしたち他の場所でも会ってるのよ。さすがにわかんないかな?」
「他の場所? すみません、どこでお会いしました?」
フリッツは首を傾げる。あの時の女性だとわかり、フリッツはすっかり警戒を解いていた。
そんなフリッツの様子を見て、女の唇は怪しく弧を描く。女の赤い唇から、ややトーンの低い声が漏れた。
「グラッセルの王宮地下で」
フリッツは「え?」と目を見開く。ルビアスと名乗った女は剣の柄に手を遣った。
そして目の前で起こったことが信じられずにいた。フリッツの咽もとには、いつのまにかサーベルが突き付けられている。
「……なにを!」
女が剣を抜いたことにも気がつかなかった。一瞬の間、自分の時が止まっていたのではないかと思ったくらいだ。瞬きはしていない。それなのに動作が見えなかった。
(この女の人、強い!)
フリッツは咽元に、鋭利な金属がかすかに触れているのを感じた。身体が冷えてきたのは、陽が沈んだせいばかりではない。フリッツはごくりと唾を飲み込む。
「あと、入れ違いになっちゃったけどヒトラス邸でも。マティオスと戦ったんでしょ、なかなか手強かったんじゃない?」
フリッツは極力喉を動かさないよう、乾いた口だけで呟いた。
「……漆黒竜団」
「ピンポーン。大当たり!」
ルビアスはにっこりと満面の笑みを浮かべる。
「あたしなんかに喉元とられるようじゃ、あんたには止められないわねえ」
フリッツはその台詞にひっかかるものを感じた。
「ぼくには止められないって、どういうこと?」
「剣を取りなさい」
その言葉には力があった。それは命令だった。
抵抗しても無駄だと悟る。フリッツは木製の剣に手を伸ばした。それを見てルビアスは、ちっちっちと左手の人差し指を立てて言う。
「そっちじゃない。誰が棒っ切れ振り回せって言ったのよ。それ、背中のやつ」
フリッツは仕方なく木製の剣を腰に戻し、背中の真剣を抜いた。ルビアスは満足そうに唇を歪める。
フリッツが真剣を手に取ると同時に、ルビアスは動いた。レイピアの切っ先はフリッツの喉元から外される。そしてそれと同時にレイピアは弧を描き、フリッツの肩に振り下ろされた。その流れに持っていく動作は恐ろしく素早い。
フリッツは跳び退って避けた。間一髪だ。
ルビアスはひゅうと口笛を吹く。
「あら、いい勘してる」
ルビアスは楽しそうに言う。
危なかった。心臓が飛び出てきそうだ。
フリッツはあまりにも突然のことに動揺していた。
どうしてここに漆黒竜団がいる? どうして自分に刃を向ける?
とにもかくにも、この場には自分ひとり。一人で、なんとかこの状況を切り抜けなければならない。
早鐘のような自分の鼓動を感じながら、フリッツはできるだけしっかりとした声音を取り繕った。
「そこをどいてください。約束してるんだ」
「ふうん。それはひょっとして、アーサー=ロズベラーと?」
フリッツは身を強張らせた。どうしてこの女が兄の名前を知っているのか。嫌な予感がした。
ひょっとして兄さんは、なにかとんでもないことに巻き込まれているのではないだろうか?
兄さんは漆黒竜団に命を狙われているのだろうか?
明らかに動揺を見せたフリッツに、ルビアスは言う。
「悪いことは言わない、今は行かないほうがいいわよ。でないとあんたは、血にまみれた兄貴の姿を見ることになる」
「……!」
フリッツは唇を噛み締めた。
やはり兄は何かやっかいごとに巻き込まれてしまったのだ。もっとはやく来れば良かったと、自分を恨めしく思った。自分との約束のせいで、アーサーは今危機に晒されている。
おそらくこの女は見張りで、中ではアーサーと刺客が死闘を繰り広げているのだ。アーサーは腕が立つから、命を狙われたって不思議ではない。
「甘いわね。訓練ばかりで、実戦はしない。まるで剣舞でも見ているようだわ、そのナマクラの装飾刀でね。あんた、ナメてんの? 殺す気ないでしょ」
ルビアスはつまらなそうに言った。
フリッツは真剣の柄をぎゅっと握り締める。女はすでに構えてなどいなかった。まるでこちらの攻撃などどうにでもなるといわんばかりだ。
「もう、退いてください。こんなことはやめて」
女は首を横に振った。
「いやあよ」
瞬間、女は間合いを詰めてきた。フリッツは剣を構えるので精一杯だ。
真横に構えた剣に、女の刃が当たって火花を散らす。
しばらく至近距離で睨み合い、両者とも刃を交えたまま動かなかった。ルビアスはふっと微笑む。力では押し切れないことを悟り、軽く後ろに跳び退った。
「やっぱ男女の力の差は仕方がないか。センスはあたしのほうが上みたいだけど」
ルビアスはよく喋った。それだけの余裕があるということだ。一方フリッツは、剣を構えることしかできない。この差は一体なんだろうと考えた。
スピードだ。
さすがにこの歳にもなれば、おそらく腕力では互角に戦えるだけの力はある。しかし相手の技が見きれないのでは対処のしようがない。フリッツも小回りを利かせた戦い方であるため、速さにはある程度の自負はあった。しかし、それは体格の良い男相手の話だと痛感する。
自分と目の前の彼女とでは、その完成度があまりにも違いすぎる。ルビアスはさすがに腕力こそ男性には劣るものの、女性ならではのしなやかさがある。そしてそれを生かした特攻と、急所を突く正確さ。
だが、フリッツの思考はそこで止まった。
右手に虚無感を覚え、信じられない気持ちで右手を見た。
硬質な音が響く。それは地面に金属が落ちる音。フリッツの剣が地面に落ちて、カラカラと音を立てる。
女に剣を弾かれた。
額を冷や汗が流れる。フリッツの手を離れた剣は、打ち捨てられたかのように頼りなくそこに落ちていた。 ルビアスはそれを顎で指し、フリッツに取ってくるように促す。
「手に納めた瞬間、再開よ」
フリッツはルビアスに視線を向けたまま、後ろ向きに歩いた。どうやらこのまま、命を取る気はないらしい。殺すのには、最大の好機だというのに。しかし、弄びたいだけなのかもしれない。フリッツを疲弊させ、己の弱さと力のなさをさんざん思い知らせた挙句、命を奪いたいだけなのだろう。彼女の考えはまったく読めず、フリッツは混乱していた。
剣を飛ばされ、そしてわざわざ自らの足で取りに行くという屈辱。
それも、勝ち目のない戦いを続けるために。
地面に物悲しく転がっている剣を前にして手を伸ばし、フリッツは一瞬躊躇った。
勝てる気がしない。
このまま宿に逃げ帰れば、自分は命を落とすことはない。皆の元に、逃げ帰れば。
そうすれば、自分は、助かる。
その時、酒場から争う声が聞こえた。酒瓶がいくつも割れたような音と、テーブルがひっくり返ったような音。男たちが斬り合い、殴り合う気配。ほどなく女の甲高い悲鳴も上がる。
そして、それはあっけなく途絶える。
「どうやら始まったみたいね」
ふとそちらを見ると、窓には人の背中があった。そして、ずるりと下がっていく。先ほどまで暖かい明かりの灯っていた窓に、血糊がべっとりとついていた。窓ガラス越しの酒場の中の景色が、赤く染め上げられる。
倒れていった、男。
今倒れていったのは、兄さんじゃない! 兄さんなんかじゃないはずだ!
叫びだしたくなるような衝動に駆られて、フリッツは左胸を抑えた。
それは、恐怖。
心臓は怯え、今までにない打ち方をしている。
あの中に、兄さんがいる。人があんなに簡単に絶命してしまう空間に、兄さんが居る。
それなのに、自分は。
今、なにを考えていた?
「兄さんはいつだってぼくを助けにきてくれたのに。それなのにぼくは、今……」
自分が情けなくて、恥ずかしくて、消してしまいたくなった。しかし、わかっていた。
消えるのは今じゃない。消える前にやらなければならないことがある。
今度は自分が兄を助ける番だ。
フリッツは剣を拾い上げた。女が満足そうな表情を浮かべる。
そして疾風のようにこちらに向かってくる。フリッツは剣を構えた。女の刃が激しくぶつかる。一旦離れて、また振り下ろされる。フリッツはまた受け止める。
刃同士が激しくぶつかり、闇に冴えた音を響かせた。繰り返し、何合かの打ち合いが続く。右に、左に、頭に、肩に振り下ろされる刃をフリッツはすべて受け止めてみせた。
女は驚いたように目を見開く。そして一旦攻撃をやめ、距離を置いた。
「お、なになに? いい加減あたしの斬り筋見ぬけてきたってこと?」
「あなたのスピードにぼくは追いつけない。でも、必ず受け止めきってみせる」
フリッツは強い眼差しで、女の目を見据えた。
「よし。じゃあここまでね」
女はレイピアを腰のホルダーに戻した。あまりにもあっさりとしすぎた、まるで稽古の終わりのような言い回しに、フリッツは眉根を寄せた。
「ひとつ学んだみたいだから、今日はここまでってこと。楽しかったでしょ? 命がけの斬り合いでもしなきゃ、ピンチを切り抜ける力は身につかないわよ」
ルビアスはくすくすと笑った。
フリッツは改めて愕然とする。本当に、自分は遊ばれていたのだ。及第点に達したから、彼女はそこでお遊びをやめただけのこと。もしあのままならば、確実に殺されていた。
槍使いにも、目の前の女にも。
自分の力では、まったく歯が立たない。
空虚さと絶望を抱えて、フリッツは立ち尽くした。
「いい顔ね。男の子のそういう表情、あたしは好きよ」
ルビアスは酒場の扉を開けて、客人を迎え入れるような仰々しい礼をした。
「さあどうぞ。真実の世界へ」