※注意:いつもの話に比べ、多少残酷な表現を含みます。大変申し訳ありませんが、苦手な方はご注意していただき、またご了承くださいますようお願いいたします。
【第7章(後編)】
【第三話 扉の向こう】
フリッツは酒場に足を踏み入れる。扉が、静かに閉められた。
そしてその凄惨な光景に立ち尽くす。
そこはすでに酒場などではなく、地獄だった。
先ほどフリッツが窓越しに見た男は、大量の血を流して事切れていた。幾つかの切り傷、そして心臓を一突き。床に座り込む格好で項垂れ、床には大量の血溜まりができている。
幾つかあるテーブルに、大人しく着席している者はいなかった。否、一人だけ椅子に座ったまま背中から斬られていた。手にはジョッキを握ったままだ。首はおかしな角度に曲げられており、テーブルに載せられた顔は驚いた表情のまま血の気をなくしている。
別のテーブルには、標本のチョウのように、男が手首足首を剣で縫いとめられていた。床には女性の姿もあった。腿に腕に、白々とした肢体に痛めつけられた跡がある。うつ伏せになった状態の彼女から奪ったのであろう子供が、額を割られて近くの床に打ち捨てられていた。
天井から吊るされているランプは、すでに消えかかっている。その灯りを怪しくゆらめかせながら、キィキィと物悲しい音を立てて揺れている。片っ端から割られた酒のボトルが当たりに散らばり、灰皿は撒き散らされ、床や天井をはじめ、ありとあらゆるものが血に濡れていた。充満する、酒と、タバコと、血の臭い。
フリッツの目に映るものは、なにもかもが真っ赤だった。頭が、考えるのを拒んでいる。恐ろしい世界に、ただただ、ぐらぐらと目が回る。
真っ赤だ。なにもかも。
ここは、真っ赤だ。
フリッツは胸の奥が苦酸っぱくなるのを感じた。そして、込み上げる。
「……お……ぇ」
鳩尾、喉元を勢い良く何かが逆流する。水分を含んだ物が落ちる、汚らわしい音。フリッツは思わずその場にしゃがみこむ。胃が萎縮する。体の内臓が全てを、「生」を拒む。
テーブルの端を片手で掴み、膝をついて、フリッツは身体の要求のまま吐き出した。反射的に涙が滲む。
なんだ、これは。
なんだ、この光景は。
全てを吐き出しても、まだ震えは収まらない。灼けつく喉の痛みと、痙攣する内臓。床についた左手が、みっともないほどにガタガタ震えている。寒かった。ただひたすらに寒かった。拳で口元を拭い、フリッツは浅く荒い息を繰り返す。
見たくない。何も見たくはない。自然に瞳孔が縮む。何も見たくないからだ。
けれど、この惨状で兄の無事を確かめなければ。
フリッツは、ふらつきながらも身体を起こした。そして死の充満する小さな世界に、数人の「生存者」を見た。黒い腕輪を嵌めた、黒ずくめの男たち。しかし、フリッツの目に飛び込んできたのは、たった一人だった。
肉塊と血の海に佇む兄の姿。
アーサーは無事だった。
返り血を浴びたマントはどす黒く、鈍い輝きを放っている。今までに見たことが無い兄の姿に、フリッツは息を呑む。しかしすぐに、一瞬でも兄を恐ろしいと思った自分を恥じた。アーサーが無事であった安堵から、フリッツは声を上げる。
「兄さん、無事だったんだね」
「……ようやく来たか」
その声音にフリッツは凍りつく。
そこに居たのは、フリッツが親しみを込めて兄と呼ぶ人物ではなかった。
フリッツの心臓は早鐘のように脈打つ。自分でもどんどん、早くなっていくのがわかる。
頭が、身体が、こころが、フリッツの全てが、全力で警告している。
そんなまさか。
そんなバカなことが。
「ルビアスは遊びすぎたな。ほどほどにしろと、あれほど言っておいたのに」
「にい……さん?」
なぜ兄の口から先ほどの女の名前が出るのか。彼女は漆黒竜団だ。兄の命を狙っていた人間の片棒を担いでいる女だ。
フリッツの世界が、ぐにゃりと歪む。足元がふらつく。強い立ち眩みがする。
「……さっきの女の人、兄さんの知り合い、なの」
「あいつは漆黒龍団だ」
「どうして漆黒龍団に、兄さんの知ってる人間が居るんだ!」
フリッツは叫んだ。
お願いだ。否定をしてくれ。
お願いだ。お願いだ。お願いだ。
アーサーは身体を、ゆっくりとフリッツの方へと向けた。
「それは、私が漆黒龍団だからだ」
その答えに、フリッツは動けなくなった。
フリッツは、自分の目の前に立っている男が、果たして本当に自分の兄なのか確信が持てなくなった。アーサーの持っている剣はすでに汚れていた。それはこの殺戮に、彼も加担しているということを示している。この空間に生きているものは、フリッツか、漆黒竜団の者しか居ない。
フリッツの思考は完全に停止していた。しかし本能は、答えを弾き出した。
目の前の男は、兄などではない。
ただの殺人鬼だ。
フリッツは後ずさった。警鐘が、鳴る。鳴り響く。フリッツの頭の中で、割れそうに反芻する。
この男は、危険だ。
「店主の始末、終わりました」
奥から漆黒竜団の男が二人ほど現れた。アーサーは踵を返し、マントを翻す。
「出るぞ」
アーサーは何事のなかったかのように、数名の部下を引き連れて酒場を出ようとした。部下たちはぞろぞろとアーサーの後をついていく。そのうちの一人が、立ち尽くしているフリッツに気がついた。
「なんだ、このガキ。生きてるぞ」
「あらら、呆然としちまってる。お子様には刺激が強すぎたか? 大方、ここを屠殺場とでも思ったんだろう」
もう一人がそう言い、他の団員から笑いが起こった。
「アーサー殿。こいつ、どうします?」
「好きにしろ」
アーサーの冷徹な声が響く。
そんな言葉、聞きたくはなかった。
フリッツは動けなかった。
男達がこちらに近寄ってくるのが瞳に写るが、それだけだ。フリッツは、逃げもしなかった。男が棍棒を振り上げ、フリッツの腹を殴る。まるで打たれたボールのように、フリッツは飛ばされ、詰まれた酒樽に派手な音を立ててぶつかった。男たちが口笛を吹き、囃し立てる。フリッツは、起きあがることが出来なかった。しかし理由は、なにも男の攻撃を受けたばかりではない。
別の男に襟首を掴まれ、無理やり立たされ、顔を思いきり殴られる。男は下卑た笑いを響かせながらフリッツを蹴り続けた。容易く持ち上げられ、反対側の壁に向かって投げ捨てられる。テーブルやイスを吹き飛ばして、フリッツは叩きつけられた。フリッツはぐったりと打ち捨てられる。
光のないフリッツの瞳が、アーサーの姿を捉える。そこに兄はいなかった。代わりにいたのは、返り血を浴び、無感動な瞳をした男だ。
アーサーはなにも言わなかった。侮蔑の言葉すら、投げかけない。
フリッツはどこか遠くの意識で、それを見ていた。冷淡な瞳の中に、フリッツの知るかつての兄はいなかった。
アーサー=ロズベラーは踵を返す。
男たちは数人を残して、その場からいなくなった。
酒場に、火を放って。
「どっちだ?」
「なにがよ」
宿屋の一室で、ラクトスはルーウィンに声をかけた。ルーウィンはベッドに寝転んでおり、クッションを抱えているため表情は見えない。ラクトスは意地悪く口元だけで笑った。
「あいつだけ再会を果たせたことか、あいつが旅から抜けることか。どっちが不満なんだって聞いてるんだ」
ラクトスに向かって勢いよくクッションが飛んできた。ラクトスはなんなくそれを受け止めてにやりとする。
「図星かよ」
ルーウィンは怒るでもなく、またベッドに身を沈めた。どうやら無視を決め込んだようだ。その様子を見ていたティアラが眉間にしわを寄せる。
「もう、ラクトスさん!」
「……悪い」
本気でティアラを怒らせると怖いので、ラクトスはそれ以上何も言わなかった。ティアラは頬に手を当てて小さくため息をつく。
「これでフリッツさんがすぐに旅を終えるとは限りませんわ。今日だけでお兄様を説得できるとは思えませんし」
「そうなんだよ。あいつ、それをすっかり忘れてないか。あんなに嬉しそうにして、会えたことだけで満足しちまってる」
ラクトスとティアラは、フリッツの旅立ちに関する詳しい事情は知らなかった。家庭の事情で、兄であるアーサーの力を借りるためだということは聞いていたのだ。しかし当の本人であるフリッツは、再会の喜びばかりで、目的を忘れてしまっているように思えた。
「十年ぶりに会えたんですもの、嬉しいのは当たり前です。ですからルーウィンさん、元気を出してくださいな」
「別に元気がないわけじゃないし。ただ、ちょっと疲れてるだけ。いちいちおかしなこと言わないで」
ルーウィンはティアラに対してぶっきらぼうに返した。ラクトスとティアラが肩をすくめる。
ルーウィン自身、どうして自分がイライラしているのかわからなかった。夜ご飯の味も、いつもより美味しく感じられなかった。しかし、量は食べたが。
フリッツに先を越されたからかと聞かれると、なんとも言えない。別にどちらが目的を達成するかの競争をしていたわけではないのだ。フリッツは兄を連れ戻すことでハッピーエンドになるが、ルーウィンは目的を果たしたところでそうではない。
待っているのは復讐を終えた空虚さだけだ。そもそも、二人の目的は両極端で、比べること自体がおかしい。そこまで考えて、彼女は気づく。
ああ、これは嫉妬なのだと、ルーウィンは頭のどこかで思った。
フリッツは彼の兄に再会することで、あんなに嬉しそうにしていた。あの表情を、今までルーウィンは見たことがなかった。
敵を倒した時の勝利の喜びとは、また違う。照れくささと、安心感と、そして限りない幸福感。自分はもう二度と、それを味わうことはない。そう思って、置いていかれたかのような少しの寂しさを感じたのだ。
フリッツの満面の笑みを見て、ティアラは自分のことのようにはしゃぎ、ラクトスすら二人の再会を喜んだ。それが、自分はどうだろう。幸せそうなフリッツを見て、あろうことか、フリッツのくせに生意気だと思ったのだ。
ルーウィンは苦笑する。まさか他人の幸せを喜べないほど、自分は根性の捻じ曲がった人間になっていたとは。
あたしの前では、あんな顔して笑わないくせに。
そんな感情もあったが、それに気がつけるほどの心のゆとりは、残念ながら今のルーウィンにはなかった。
「乙女心は色々複雑なんですよ」
「誰が乙女だ、誰が。言っとくが、おれはお前らのこと女だと見なしてないからな。ただの大食漢とド天然だろ?」
「まあ、失礼ですわね! わたくしが……えっと、何ですの? そのド天然というのは?」
「ほら見ろ。お前のそういうところが嫌いなんだよ」
また始まったティアラとラクトスのやりとりを無視して、ルーウィンは気だるげに体を起こす。月の明るい夜だった。窓の外はすっかり日が暮れて、家々の小さな明りが見えるだけだ。
いや、そのはずだった。
ルーウィンは窓に張り付き、自分の目を疑った。
大きな赤い光。それは、火の塊だった。
「……火事だわ」
ルーウィンは声を荒げた。
「村が燃えてる!」
フリッツの周りで、がらがらと世界が音を立てて崩れた。
実際、雪崩のように音を立て、炎の塊が頭から降ってくる。建物を舐めまわす炎によって、屋根が崩れ落ち始めているのだ。
血の海であった地獄は、今度は業炎に飲み込まれようとしていた。酒場の中にはまだ、漆黒竜団の男が二人いた。扉は開け放しており、二人はいつでも逃げられる体制だった。火の回りを確認するためか、全てが飲み込まれるのを見届けたいだけの狂人なのか。
そろそろ危ない、ここを離れようという話し声が、どこか遠くのほうから聞こえているような気がした。
(もう、だめかな)
床に倒れたまま、フリッツはかすれる意識でそう思った。
先ほどまで殴られていたせいで、腹部に鈍痛を感じる。今度は、血を吐いた。初めてだった。口内ではなく身体の中から込み上げるものに驚く暇もなかった。鼻腔にはなにかの焼けた匂いと、血生臭さがこびりついている。
火の手はすでに、かなり回っていた。いくつかの死体は、すでに炎に嘗め尽くされ、飲み込まれていた。肉の焼ける嫌な臭いが立ち込める。吐き気を催す。しかし、もう吐けるものはなにもない。
炎が、踊る。ついさっきまで生きていたものが、灼けていく。飲み込まれる。
燃える。燃えていく。
ふと、誰かと目があったような気がした。
それは床に転がっている死体だった。
男の瞳は開けられたままだった。驚愕の表情。彼にも家族はあっただろう。妻や子が、彼の帰りを待っているのだろう。もしかしたら、こうしている、今も。男は突然降りかかったこの惨劇に、ただ驚くしかなかったのだろうか。自分にこんな最期が待ち受けているとも知らずに、少し酔いたい気分になって、男はここへやって来てしまったのだろうか。
フリッツだって同じだ。まさかこんな最期が来ようとは思ってもみなかった。
フリッツはフラン村の外れの、マルクスの棲む半洞窟を思い浮かべた。マルクスとの暮らしは変化がなく単調であったが、穏やかな日々だった。
しかし一生をあの洞窟の庵で過ごすつもりはなく、いつかどこかの村なり町なりに出て、仕事をして、家庭を持って。漠然と、人並みの人生を想像していた。清潔な白いシーツの敷かれたベッドの上で、静かに死ねるものだと思っていた。
しかし、どうやらそうではないらしい。
「……い……やだ」
声に出ているのか、頭の中で考えが巡っているだけなのか。それすらわからない状態で、フリッツはかすれた自分の声を聞いた。乾いた舌が空回る。
「まだ……たく……ない」
やることも、やれることもたくさんある。人生の半分も生きていない。
一瞬、カヌレに残してきた両親が脳裏に浮かび上がった。あの二人は、これからどうなってしまうのだろう? 一人は漆黒竜団に身を落とし、もう一人はここで死ぬ。いや、両親にはフリッツの死などどうでもよいことだろう。ただ、それが悔しかった。
このままでは終わりたくない。
フリッツはもうろうとした意識の中、ポケットに手を伸ばす。あった。一本だけ回復薬が残っていた。あれだけ蹴ったり殴ったりされて割れていなかったのが奇跡だった。震える歯でコルク栓を引き抜く。瞬間、どくどくと液体が溢れ出した。開いたままの口の端から、琥珀色の薬液が流れ出す。たった一回溜飲するのがやっとだった。
咽が灼けつく。薬が内臓から漏れているような気がした。耳元の血潮が煩く騒ぎ出す。身体が脈打つのをはっきりと感じる。ドクン、ドクンと。
自分はまだ、生きている。大人しく死んでやることなんかない。
フリッツは静かにその身を起こす。身体はあちこち痛むが、気に留めなかった。背中の真剣に、ゆっくりと手を伸ばす。鞘と刀身の擦れる音が、妙に耳に付いた。
そんなフリッツの様子に、漆黒龍団の男たちは気がついた。口を動かしているが、なにを言っているかは分からない。罵倒の言葉か、それとも冥土の土産でもくれてやっているつもりなのか。
フリッツは自分の感覚が研ぎ澄まされていくのを感じていた。剣を支えにして、ゆっくりと立ち上がる。両手で構えて、握りを強く持った。
―――――生きてやる。
そして今までに出したこともないような声を上げ、敵に突っ込んでいった。