一 墜ちてきた龍 6
翌朝。エルゥから突然旅に出ることを聞かされた母は、黒い瞳を大きく見開き、大層驚いた。
「必ず戻るから!心配しないで待っていて」
エルゥはいつもの元気な瞳で、力強くそう言った。
「だけどおまえ、どの位いなくなるんだい?」
「解かんないけど、だいたい一ヶ月くらいかなあ」
エルゥは適当にそう答えた。
「そんなにおまえ…」
「もう!心配しないでってば!ティム爺と一緒だって言ったじゃん。ティム爺が戻って来なかったことがあった?」
母は首を小さく左右に振った。
「ね。だから大丈夫。危険な旅じゃないから。ほんのちょっと、ジャイロに乗せてもらって旅するだけだから」
「…そうだね、解かったよ。行っておいで。広い世界を見て、色々勉強してくるんだよ」
「うん!ありがとう!」
曇った顔をしていた母も、最後には笑顔で激励してくれた。嘘をついていることに胸が痛くなったエルゥだったが、本当のことを言えばもっと心配をかけてしまうので、これで良いのだと自分を納得させることにした。
それから村の漁仲間に挨拶をした後、見送る母と妹を連れ、旅仕度で山の村へと向かった。
(そうだ。イファにもお別れの挨拶しとこう。もしかしたらもう会えないかもしれないし…。いや、そんなことにはならないよ!きっと帰ってくる!…でもやっぱ、ちょっと声かけておこう…)
苦手で嫌なヤツだと思っていたのだが、いざ、しばらく会えなくなるかもしれないと思うと、エルゥは妙に寂しい気分になってきたのだ。
谷の村に着くと、いつもの様にイファは木陰で書物を読んでいた。
「何を読んでるの?」
エルゥの声に、イファは栞を挟み、本を閉じて立ち上がった。
「グリンモアの歴史書だよ。何?こんな朝早くに」
「今からティム爺と旅に出るの」
「今から?ジャイロで?」
「そうだよ。良いでしょ。じゃあね」
エルゥはわざと素っ気無い態度で、イファに背を向けた。
「ちょっと待てよ」
いつも冷静なイファなのだが、何故か少し慌てて、去っていこうとするエルゥを引き止めた。
「明日じゃなくって今日?」
「う、うん。そうだけど…」
「どうして今日なんだよ」
「どういう意味?」
イファはそれには応えず、口を閉ざして、しばらく何かを考えている様子である。
「何だよ、もう…。相変わらずすっきりしない言い方するなあ。行くよ」
「待てよ!ちょっと来い!」
イファは少しエルゥの母親を気にしながら、その腕を取って強引に村外れへ誘った。
「痛いよ!乱暴じゃん!」
意外に力があることに、エルゥは驚いた。一見ひ弱そうなのだが、何とか他の少年並に腕力はあるようである。そんなことに感心していると、イファはようやくエルゥの腕を放し、真面目な顔で振り返った。
「何かあったのか?」
思いもかけないイファの言葉に、エルゥは思わず目を大きく見開いた。
「ど、どういうこと?意味解かんないよ」
「今日、ジャイロで旅に出るには無理がある」
「どうして?」
「だってティム爺は昨日、戻ってきただろう?少し整備をしたけど、すぐにまた、あの龍の騒ぎでジャイロを使った。長旅の後は、少なくとも最低一日はジャイロを休めないといけないって、前に言ってただろ?だから旅立つなら、明日にするはずだ。なのに今日、慌てて旅に出るということは、今日でなければならない事情が出来たんじゃあないかって、思ったんだ」
「う…」
鋭い読みに、エルゥは一瞬言葉を失った。
だが、すぐにつんと膨れながら応えた。
「何もないもん!ただ昨日ジャイロに乗せてもらって、もっとたくさん乗りたいって思っただけだもん!」
「だから、それなら明日旅立つはずだって…」
「これだから本ばっかり読んでるヤツは、理屈っぽくって嫌いなんだ!何も無いって言ったら、何も無いんだ!あんたなんかに、挨拶なんてするんじゃなかったよ!」
エルゥはそのまま、怒ったようにイファの前から走り去って行った。
イファはその背中をしばらく眺めていたが、やがて、自分の家に戻って行った。
「どうしたの?イファとケンカをしたの?」
「あいつったら、うるさいんだもん」
母は思わずクスッと笑った。
「何を笑ったの?母さん」
「エルゥはイファが好きなのね」
「えー!やめてよ!あんなヤツ!そんなこと私一言も言ってないよ!」
「そうね」
そう言いながら、母はまだにこにこ笑っている。
「本当に思ってないもん。ウザイ嫌なヤツだって思ってるもん」
「でもエルゥ、いつもイファの話ばかりよ。島には、他にも男の子いるのにね」
「え…」
エルゥは言葉を詰まらせた。
そう言われてみれば、自分は何かとイファを眼で追っている。でもそれは、嫌なヤツだからあまり近寄りたくないと思ってのことで、好きだからではない。
そう。好きだから追っていたのでは無い…。
だが、どこかで心残りを感じている。
あんな風に、怒鳴って別れてしまったことを…。
(無事に戻ってきたら良いんだ。そしたら、また色々ケンカできるよ)
エルゥは、自分にそう言い聞かせた。
山の村に着くと、すでにジャイロは広場に準備されていた。だが、ティム爺の姿がどこにも無い。
「まだ家にいるのかな」
エルゥはティム爺の家に向かおうとした。すると背後から、威勢の良い声が響いてきた。
「エルゥ!待たせてすまん!すっかり準備に手間っちまってのう!」
振り返ると、そこには今まで見たことも無い装備のティム爺が立っていた。
頭にはいつもの眼鏡付きのヘルメットに、いつものジャイロ用つなぎを着用しているのだが、その腰には谷の村人が使う大小の剣が二本、右手に海の村人が使う槍、左手には山の村人が使う動物の牙避けの丸い楯を持っている。
「まあ、ティム爺さん、その出で立ちは一体…」
ものものしい装備に、エルゥの母は少し不安に思った。
「何、これが本来のジャイロ用装備じゃ。普段はわし一人じゃから、手を抜いておったのじゃが、今回はエルゥも一緒じゃからな。ちゃんと装備を整えて、旅に備えようと思っただけじゃよ」
ティム爺は飄々とそう答えた。
もちろんそれはエルゥを護るための装備なのだが、それを母親に説明する訳にもいくまい。
母親は何の疑いも無く、ティム爺の言葉を信じた。
「そうなんですか。どうかこの子を宜しくお願い致します。エルゥも、ティム爺さんにあまり迷惑をおかけしちゃあ駄目よ。しっかり言うことを聞きなさいね」
「解かってる!大丈夫!」
「エルゥはしっかりしておるから、大丈夫じゃよ。さ、乗りなさい。まず荷物からじゃ」
エルゥは荷袋をまず、後部座席に投げ込み、続いて自分も翼を足がかりに乗り込んだ。ティム爺もその歳とは思えないほどの身軽さで、操縦席へと飛び乗った。
「座席の後ろに荷物室があるぞい」
「ここ?」
ティム爺の言葉に、エルゥは後部座席の後ろにある小さな扉に気がつき、後部座席から身を乗り出して、荷物を押し込めようとした。
「中が一杯で、入らないみたい」
「おお。そう言えば山に登るから、少し厚めの服を入れたかの。しかしまだ余裕があったように思うが…」
「良いよ、ここに置いとくから」
エルゥは荷物を荷物室に仕舞うのを諦め、自分の足元に置いた。
「では出発するぞい」
「うん!」
プロペラが回り始め、音と砂埃が激しくなってきた。
母と五歳になる妹のマァルは、大きくジャイロから離れた。
「じゃあ母さん、マァル、元気でね!」
「おまえも元気でね」
「バイバイ!エルゥ姉さん!」
音が一層大きくなり、フワリとジャイロが浮かび上がった。
「ちょっと装備が重かったかのう」
操縦桿の重い手応えに、思わずティム爺はそう呟いた。だがアルノワ人は、いつ襲ってくるか解からない。あの装備でも不安である。この旅は、いつもの気楽な旅とは違うのだ。
ティム爺は操縦桿を握る手に気合を込めた。
さらにジャイロは空高く浮き上がり、母と妹、それに山の村人たちが見送る中、北の方向へと飛び去って行った。
二 死者の船 1へ続く