小説『斑鳩』
作者:雪路 歩()

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  第八章  紅蓮のペイン

 わたしは彼の左手を取って、それにまるで縋り付くかの様に、胸の前へと持って来た。けれども、そのままでは胸に触れてしまう。それは避けなければならなかった。わたし達は家族でも恋人でもない、赤の他人なのだから……
 その代わりに、彼の顔に顔を近付けて――言った。
「――貴方は呪われてしまったの……」
 少年の目とわたしの目が間近にあった。これだけ近付いて、ようやくわたしはそれに思い当たる。
 こうしていると、彼を少しだけ見下ろす形となっていた。彼の背はこちらよりも幾らか低かった。その差は十センチ無い程――そんなどうでも良い事を、わたしは胸の苦しみを誤魔化す為に、頭の片隅で思い浮かべていた。
 それでも、その間、一瞬も視線を反らさないでいた。こちらは本気だと。冗談ではないと。それが彼に通じる様に。伝わる様に。
 普通ならば、笑われるか、正気を疑われるかする事をわたしは今言ったのだ。そのどちらをされても、わたしは怒らないと決めていた。それは普通の反応だからだ。
 だから……彼がわかってくれるその時まで、何度だって説明する積もりだった。
 十秒程か――それよりも大分長く感じられる空漠が訪れた。
 わたしは、ただ、彼の反応を待った。ただ、彼の言葉を待った。

 ――目の前にいるこの女性は誰だ?
 そうだ……今一度、それを思い出す。まだ名も知らぬ女性だ。そして、自分に必死に謝っている女性だ。
 外観こそ大人びて見えるのに、その感情の揺らぎ様はまるで子どもの様だった。
 もしかすれば彼女は背が高いだけで、自分とそれ程歳が変わらないのかもしれない。
 この人は一体幾つなのだろうと考えていると――突然こちらの左手首が掴まれた。その手首は、しばしの逡巡の後、彼女の顎の下、鎖骨の間と間、首元ら辺に当てられてた。
「――貴方は呪われてしまったの」
 それは……女性が男性に縋り付く時にする行為だった。離すまいと、こちらの腕を取って、胸に掻き抱こうとする仕草そのものだった。
 普通ならば、今の言われた言葉にこそ、先ずは疑問や不信感を抱くのであろう。それでも……自分はそれを知っていた。それは女性が、本当に大切な事を伝え様とする時にする仕草だと知っていた。
 亡くなった母が、最後に自分の手を取って、胸の前に掻き抱いて、必死に語りかけてくれたのを、今でも自分は覚えている……――だからこそ、彼女のおかしな発言を聞いても、その手を振り払う事も、目を反らす事も出来なかった。

 彼の反応は、失笑するでも、視線を反らすでも、そのどちらでもなかった。
 こちらの必死さを汲み取ってくれたのか、彼は沈黙を保つ事で続きを待っていた。その目は、濁りの無い、澄んだものだった。
 それを見て、思考が冷静になった。だからこそ、動揺もした。胸の中に、更なる自責の念が溢れ出す。わたしは、こんな人を、こんな優しい少年を“呪ってしまった”のだ……
「――…………その左腕に付いた傷は、わたしのせいで付いたの。貴方は、あの鳥に会ったのでしょう?」
 左手の人差し指を立てて、わたしは自分の額を指差す。それだけで通じるはずだった。
 それを見て、彼はこくんと、一度だけ頷いて見せた。
「――その傷は……放っておくとずっとそのままなの……そのままにしておくと、いつかは体中に広がってしまうものなの」
 彼はしばし黙っていたが……やがて、ポツリと、こう言った。
「――さっき左腕が疼いた。単に痛いだけじゃなく、変な感じがした。そんなに深い傷じゃないのに、もう塞がっていても良いはずなのに……出血した」
 彼は淡々とそう言った後、わたしの胸元――自身の左腕に視線を向けた。

 彼女の胸の前にある自分の左腕に視線を向けると、彼女も釣られてそれを見た。赤黒く染まっている包帯が、暗い夜の下であってすら、鮮やかな色を主張していた。
 それを見て、彼女の唇が震えたのを確かに見た。それだけで、もう十分だった……それを見て、自分は決して彼女を責めまいと決意した。
 それでも、確認だけはしておかねばならない。
「――この傷は治らないんですか……?」
 彼女はうなだれたまま、コクンと、一度だけ頷いた。そして、彼女は何も言わぬまま、黒いシャツの袖口のボタンを外し、右手と二の腕までを覆う黒い長手袋を外し――それをこちらに見せた。
 その腕には、火傷の様な、裂傷痕の様な、黒く歪な傷痕が、無数に、斑状に走っていた。それは、塞がっていてもなお、痛々しさと醜さを持ち合わせた傷痕だった。およそ女性が持つには相応しくない傷痕……まるで“呪い”の様だった。
 それは女性が抱えるには、あまりに理不尽で、重た過ぎる“烙印”だった……
「――物心付いた時からずっと……わたしはこの傷を抱えて来た……。今では首から上と、手足の末端以外の体、ほぼ全域にこの傷は広がっている……だから、嘘じゃないの。わたしの体がその証拠……貴方の腕の傷は、そのまま放っておくと、どんどん貴方の身を蝕んで行く。一時的に塞がっているかの様に見えても、その傷口は時折開いて出血する事すらあるの……」
 信じられないのならば、更に肌を曝け出さんと言わんばかりに、彼女は首元のボタンに手をかけた。その手を咄嗟に掴んで、自分は止めていた。その瞬間――彼女の言葉を裏付ける様に、左腕に痺れる様な痛みが走った。それに伴って、ポタポタと、血が屋上のコンクリートに滴り落ちた。
 何もしていないのに、包帯で押さえているのに、消毒だってしているのに、それは止まらない……むしろ、ジワジワと傷口は広がり、深くなっている感覚すらした。冷気の様な痛みが走る度、腕の傷は更に裂けている。そんな感覚すらした。それはきっと、事実その通りなのだろう。
 奥歯を噛み締めて、それに耐える……額に浮かぶ汗すら拭えない程に、体が痛みで引きつっていた。
 ――まるで拷問の様な一時が過ぎ去った後……目を開くと、それがすぐに視界に入った。
 こちらの顔を間近で見詰める彼女の顔もまた、悲痛そのものだった。
「――ごめんなさぁああああああああああああああああああああああああいいっ!!!!! 全部わたしが悪いのっ!!!!! わたしのわがままで貴方に迷惑を掛けてしまったの!!!!! だからっ、お願いっ! どうかわたしの言う通りにして……! わたしと一緒に来てっ!」
 胸倉が両手で掴まれる。そのまま、自分は彼女に揺さぶられる――

 堪らず――わたしは叫んでいた。今度こそ本当に縋り付く様にして、彼に詰め寄っていた。
「――それをわたしに返してっ!!!!! わたしと一緒に来て!!!!!……そうじゃないと貴方もお母さんみたいに死んじゃう! 巴みたいに死んじゃうのっ! だからお願いっ……! もう嫌なのよ……わたしのせいで人が死ぬのはもう嫌なのよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっっっ!!!!!」

 初めて出会ったばかりのその少女は……自分と同じ“心の傷”を抱えている、とても弱い人だった……
 彼女は、赤く染まった自分の左腕よりも、もっと痛々しい存在だった。その細い体には、目に見える傷だけではなく、数多くの見えない傷が刻まれていた……
 それは炎の様に赤く見えても……凍て付く風が育んだ傷痕だった。
 彼女の身は、心は……凍て付く風にさらされ続けて、ズタズタに裂けていた。それはまるで、真紅の蓮の花の様に……

 ――決して“混じわる”事の無い、白と黒とが織り成す、斑の傷を持つその少女は、その内側に……紅蓮の痛みを抱えていた――

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