小説『斑鳩』
作者:雪路 歩()

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  第九章  夜明け色のティアドロップ

 その内彼女の涙も枯れて来て、力尽きた様に、その場で膝を付いてしまう。
 それを下からすくい上げる様にして、両手で彼女の肩を左右から挟み込む様にして掴んだ。そのまま背後に倒れ込む様にして腰を付け、そのまま膝を貸す。
 彼女はこちらの膝に縋り付く形に収まった。そうしているとまるで、彼女がこちらに土下座をしている様に見えた。
 彼女が眠りに就くその時まで、自分はただ、彼女の背をさする事だけしか出来なかった。

 ――彼女の背中をさすっている内に、自分は寝入ってしまっていたのであろうか。
 目を覚ますと――彼女の頭はまだ膝の上にあった。今が夏で良かった。もし寒い時期であれば、こうして夜を過ごす事は出来なかっただろう。
 彼女の後頭部を見詰めている内に、ふとそれに思い当たった。そうするべきかしばし迷ったが、結局はそうしていた。彼女の頭にぽんと手を置いて、そっと撫ぜた。
「――……お母さん」
 彼女の寝言が、そっと、こぼれた。
 ――お母さんか……
 それを聞いて、不思議と心が穏やかになる。母を失って苦しいのは、この世で自分一人だけではなかったのだと、それに気付けた。当たり前の事かもしれないが、はっきりと人の言葉を通して聞くと重みが違った。
 彼女は“呪い”のせいで母と巴と言う人が死んだと言っていた。不謹慎かもしれないが、それはある意味で、自分は決して孤独ではないのだと証明された様なものだった。
 自分が抱える苦しみは、実は他者も持っている事実。それは、自分の苦しみを理解してくれる人がいると言う事でもあるのだから。その事実に、自分は救われていたのだった。
 もしかすれば……この左腕の傷があれば、彼女の苦しみを理解する事が出来るのかもしれない。何となく、あくまで漠然と、そう思った。
 ――このまま、この人とずっとこうしていたい……
 穏やかな時間が過ぎて行く。夏の夜の屋上は、昼間の様に強い日差しが差す事も無く、凍える風が吹く事もなく、穏やかで、暖かだった。
 こんな時間がずっと続けば良い。そうすれば、彼女はきっと過ごし易いはずだ。闇の中であれば、日射病になる事も無く、あの黒い傷痕が目立つ事も無く、元気に動き回る事だって出来るはずだ。隣の席に座る少女の様に。
 どれだけの時間が流れたのか……再び眠気が襲って来た頃、彼女は目覚めた。もぞもぞと動いて、手でこちらの体に触れて来る。それが誰なのか、確認している様だった。
「――お母さん……?」
 膝の上から顔を上げる彼女と、目が合った。
 彼女はこちらの顔を見て、しばし呆けていた。そして――慌てて立ち上がった。その際、彼女の頭頂部がこちらの顎を直撃した。
 彼女は頭を押さえ、こちらは顎を押さえ、しばし身悶え、呻き合う。
 やがて、ダメージが低かった方――彼女から口を開いた。
「――何で起こしてくれなかったのよ!?」
 理不尽だった。自分は少しも悪くないのに。もちろん、彼女だって悪くはないのだろうけれど。
 彼女の顔は真っ赤だった。胸の前に両腕をクロスさせて、二の腕をさすっていた。
 その仕草を見て思った。それではまるで、こちらが痴漢をした様ではないか。言い繕うために、咄嗟に吐いて出た言葉は――
「――何もしてませんから。安心して下さい」
 自分も今になって、二人の男女が夜を共に過ごしてしまいかねなかった事実に気付く。でも、そこには後ろめたい出来事、行為、思惑は、一切無かったと、それだけは断言出来た。
「――後ろめたい事なんて何もしてませんから」
 落ち着いて、淡々と語りかけていると、それだけで彼女の方も落ち着きを取り戻す。
「……ごめんんさい。取り乱してしまったわ」
 またも顔を反らして、決まり悪そうにしている彼女。
 二人はしばしの間、居辛さと、気まずさと、羞恥――そういった感情を共有し合っていた。
 ふと、また思い付いたので、言ってみる事にした。
「……お腹減りませんか?」
 彼女は目を見開いて、こちらに向き直った。そして、思い出した様に腹を押さえ……くぅ?と、一度だけ彼女のお腹が鳴った。
 彼女は再び顔を赤くして、顔を反らしてしまう。ふるふると、羞恥で身を震わせている。
「ご飯……ご飯食べに行きませんか? 起こさなかったお詫びに奢りますよ。高い物は無理ですけど」
 そういえば、今日は三食とも食事を抜いていた。朝は食べずに出て来たので、本当に空腹だった。しかも朝はあれだけ体を動かしたのだからなおさらだった。
「何か食べたい物ありますか?」
「――…………がいい」
 彼女はポソリと呟いた。
「え?……もう一度言ってもらえますか?」
 彼女は太腿ら辺のスカートの生地を、両手で握り締めながら言い直す。相変わらず、顔は横に反らしたままで、頬を赤らめながら、
「――……牛丼……前から一度……試してみたかったの」
 もしかすれば、彼女はお嬢様なのではないかと気付いた。そういえば、着ている服も質が良い。
 ――今の時代にそんな馬鹿な……いや、ありうるか。塩や米を切らす様な人だっているんだし。
 また笑いが込み上げて来たが、今度こそ笑っては失礼だと思い、誤魔化す様にしてまた質問する。忘れない内に聞いておかねばならなかった。
 今度は自分から自己紹介をしてみよう――そう思うと同時、言葉はすぐに出ていた。
「――はじめまして。守野青羽です。守る野原の野と書いて守野。青い羽と書いて青羽です。高校一年生です。お姉さんの名前は何て言うんですか?」
 四ヶ月前、三森水穂の時には上手く言えなかった自己紹介が――今だとすんなりと言えた。声もかすれる事無く、すらりと出た。
 彼女はこちらの左腕を一瞬だけちらりと見てから、言った。まるで、名乗らない事は許されないとでも言わんばかりに。
「――灰羽鳥子……名字は灰色の羽と書いて灰羽。下の名前は鳥の子ども子と書いて鳥子……高校二年生よ」
(はいばねとりこ)――(灰羽鳥子)。それは、何とも彼女らしい名前だった。とても綺麗な名前だと、そう思えた。
 そして、よもや同年代だったとは驚きだった。鳥子さんは、老けていると言うか、何と言うか……そう。大人びて見えるのだ。そして、たった一歳しか違わない女性に、身長が大分負けている事実に、今更ながら胸がチクリと痛んだのだった。
「それじゃあ先輩、牛問屋に案内します」
 屋上から校内へと戻ろうと歩みを進めるも、彼女は反応しない。その場で立ち竦んだままだった。少女へと振り返る。
 彼女はどうしたものかと考えあぐねているのだろう。悠長に食事などしていて良いのかどうか、悩んでいるのだろう。
「先ずは食事しないと何も出来ませんよ? 食べたい牛丼って、どこのですか?」
 こう言う時は食べ物の話を振るに限る。お腹が空いた時に食事の話をされて盛り上がらない訳が無いのだ。
「前にテレビで……CMしていたのを見たの。オレンジ色の看板だったわ。字はうろ覚えだけど“吉”って漢字があったわ」
 幾つかある牛丼チェーンの中で、その字が付くのは一つだけだった。
「ああ……あれか。駅前にあるのですぐですよ。値段も安いし、僕でも払えます。あと、味噌汁と豚汁も美味しいんですよ。さ、行きましょ!」
 そんな事、自分からは今まで一度もした事なんて無かったのに――……いや、あった。はやる気持ちを抑え切れず、母親の手を取って駆け出した頃があった事を、何故だか思い出す。
 いつから出来なくなったのだろう。それはこんなにも簡単な事なのに。
 大人にならなければ出来ない事がある様に。若くなければ、幼くなければ、出来ない事もあるのだと、自分はその時、それを感覚的に悟った。
 それを思い出すのは、まだ少しばかり先の事――今はただ、彼女の左手を取って、駆け出していた。
 再び顔を前へと戻そうとした時、彼女の顎から、小さな水滴が一雫だけ落ちたのが見えた。
 自分はそれに気付かぬ振りをした。その水滴は……夜明けの日差しの様に、煌いて見えた。

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