小説『斑鳩』
作者:雪路 歩()

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  第十章  黒と青のエスケープ

 下足に履き替える時も、そうしていた方が良いと思い、手は繋いだままでいた。そうしていないと、鳥子はどこかへ行って……飛んで行ってしまいそうな気がしたから。
 わたしと一緒に来てと、彼女は言っていた。だから突然姿を眩ませる事は無いとは思っていた。あの泣き顔を見た後では疑い様も無かった。こちらに呪いを押し付けたまま、彼女は行方を眩ませる様な人間ではないと確信していた。
 もしそれが嘘だった場合は……――それでもいい。その時は諦める。
 今度こそ、外へと出る。数時間前に来た時よりも、外は更に暗くなっていた。

 自宅の方角ではなく、駅前の方へと移動する。その間、自分達は何も話さなかった。十分か、十五分ほどか、黙々と歩き続けた。
 駅前に着いて、駅の正面に付いている時計を見上げると十時半頃を差していた。
 鳥子が牛丼を所望してくれて助かった。他の店だと、二十四時間営業ではないから困っていた所だ。目当ての牛丼チェーン店は十時過ぎでもちゃんと営業していた。
「――鳥子さんが言っていたのってこれでしょ?」
 鳥子は看板を見上げて、目を見開いていた。そして、コクコクと頷いた。その目は期待感に満ち満ちていた。
 それを見て、何とも微笑ましいと思ってしまう。
 自動ドアを潜り抜けて、二つ並んで空いている席を探す。この時間帯だとそれほど人はいない。仕事帰りのサラリーマンが数人ほど利用しているだけだった。
「牛丼以外にもサイドメニューがあるんで好きなの頼んで下さい。お勧めは味噌汁と豚汁です。栄養が偏るのが気になるならサラダもありますよ」
「……サイドメニュー?」
 彼女は本当に何も知らない様だった。
「牛丼以外にも頼める物があるんです。お肉と炭水化物ばかりじゃ健康に悪いから、こうしてお店側も健康志向のメニューを揃えてくれているんです」
 机の上に置いてあったメニューを鳥子の前へとスライドさせ、サラダや汁物の写真を指差す。
「アイスクリームや餡蜜もあるのね……」
 鳥子は興味津々と言った様子で、メニューを持ち上げて眺めていた。
「ねぇ……何で豚丼があるの? ここは牛丼屋でしょ? 何故なの?」
 あまりにも彼女が大真面目に訊いて来るものだから、思わず吹き出してしまった。
「あはははっ! いやっ、それはほら……焼肉屋さんなんかでも、牛以外にも豚や鳥のお肉も用意しておくでしょ?」
 実は別の理由がある事を、自分は彼女に言う事が出来なかった。これから初めて食べる人に“あの話”をしてはいけない。
「今日は何も全く食べてなかったから、僕は大盛を頼もうと思います。あと、豚汁とサラダも。デザートは後で決めます。鳥子さんはどうしますか?」
「……大盛?」
「大盛にすると分量が増えるんです。その分値段も上がるけど、二杯頼むよりも安いし、沢山食べたい人にとっては丁度良い量で出て来るんです」
「じゃあ……大盛で」
 女性が大盛を頼むのを見ると、はしたなさよりも微笑ましさの方が勝る。少なくとも自分はそうだった。女性は元気がある方が良い。ご飯だって沢山食べる方が良いに決まってる。
「他はどうします?」
 普通ならば、女性にこう言う事を訊くべきではない。けれども鳥子に対してはそれが許される。
「貴方と同じ物を……」
 良かった。彼女はなかなかノリが良い様だ。残しても良いから、色々な物を試してもらいたかった。
「すいません! 牛丼大盛と豚汁、それとサラダをそれぞれ二つずつお願いします! あと、牛丼は一つつゆだくでお願いします!」
 レジ番の『はいっ! つゆだく一丁!』と言う掛け声が、厨房の方へと響き渡る。
 それを聞いて、鳥子が目を白黒させているのが面白かった。
 そして、ものの三十秒も経たない内に牛丼の大盛が二人の前に並べられた。それより少し遅れて、豚汁とサラダも横に並べられた。
「……ねぇ……何でわたしのだけおつゆが少ないの?」
「え?」
 彼女は眉間に皺を寄せて、不機嫌そうに自分の牛丼を見下ろしていた。
「……つゆだくが良かったですか?」
「……何だか無性に損した気分になるのよ……別にこれでいいわよ」
 不機嫌そうに、ぶちぶちと、恨みがましく、鳥子は言った。
 微笑まし過ぎて、笑いを堪えるのに必死だった。
「ふっ……ふふふ……変えて上げますよ……はい」
「――え?」
 ヒョイッと、丼を交換する。
「それじゃ、頂きます」
 箸箱から二人分の箸を取り出して、一つを鳥子に手渡す。
 パチンと箸を割ると、綺麗に裂けた。
 鳥子も遅れてパチンと割ろうとするも、鳴った音はベキンと言う音だった。案の定、箸の上の方が上手く割れていなかった。片方だけが歯ブラシみたいな形になっていた。
 鳥子は再び眉間に皺を寄せて、不機嫌そうな顔をする。いや、不機嫌そうではなく、事実不機嫌なのであろう。
「……鳥子さんって不器用なんだね」
 彼女の両手から箸を奪い取って、自分のと取り替える。
「それでは頂きましょう」
「い……頂きます」
 ペコリとレジ番に頭を下げて、鳥子も復唱した。彼女は本当に変な人だった。今度はしばし、湯気の立つ牛丼を見詰めていた。なかなか食べ始めようとしない。
「あの……食べないんですか? あ、もしかして、実は食べれない物でしたか?」
「違うわ……何だか勿体無い気がして……」
 なるほど……綺麗なケーキにフォークを突き刺す時の心境と言うやつか。それが牛丼でも起こるなんて、何と言うか……凄い。
「熱々が一番美味しいですよ?」
 それを聞いて、鳥子は意を決した様に一口摘まんだ。
 そこだけは何とも女性らしい事に、口元に手を添えながら咀嚼する。そうしている内に、彼女は涙ぐんで来た。
(え????……そこで泣くの!?)
 次から次へと彼女は表情を変える。今までの反応であればどれもまだ微笑ましいと思えていたが、さすがにこれには引いてしまった。幾らなんでも、その反応はびっくりだった。予測していなかった。
「違うの……久し振りに御飯食べたから、つい……」
 鼻をすすって、涙目になりながら鳥子は牛丼をパクパクと頬張る。
「…………そ、そうですか」
 今度は違う意味で引いてしまった。人並に、それなりに満たされた毎日を送っている事に、罪悪感が押し寄せて来た……
「…………お代わり、好きなだけして下さい……安いんで、それほど高く付きませんし……」
 牛丼でこんなにも感動してもらえるのならお安い御用だった。
 その後――鳥子は牛丼の大盛を二杯もお代わりし、最後にソフトクリームの乗ったあんみつ(ソフトクリームはプラス料金)を平らげたのだった。
 彼女曰く『呪いのせいで新陳代謝が激しいから沢山食べないと持たないの』――だそうだ。呪いにも色々あるんだ……
 低価格の牛丼チェーン店で、二人分の食費がまさか三千円行くとは思わなかった。完全に計算違いだった。
 店員も、周囲のサラリーマン達も、美人を見るのとは違う目付きで鳥子に注目していた。
(痩せの大食いって言葉……本当だったんだ)
 彼女だけではなく、自分も違う意味で初めて尽くしだった。



 繋いだ左の手の平からは、確かな温もりを感じる。女性特有の、柔らかく、しっとりとした、滑らかな肌触りの手だった。
 鳥子から屋内に居た方が良いと言われ、駅の中に場所を移していた。どこか落ち着いて二人だけで話せる場所はないかと、探し歩いていた。
「……呪いって、何なんですか?」
 お腹が満たされた今ならば、落ち着いて大切な話が出来ると思った。
 ついにその時が来たと、彼女が身動ぎしたのを、背後から気配で感じ取った。
「それが何かは、わたしにもよくわからないの。ただ……それは苦痛を与え続けるものなの」
「それは……病気みたいなものなんですか?」
 彼女が思案しているのが背後から伝わって来る。
 自分はそこで一度立ち止まり、彼女を連れて歩くのではなく、並んで歩く事にした。
 鳥子は突然こちらが立ち止まった事に少しだけ驚いていたが、特に声も出さず、数歩歩んでから歩みを止めた。こちらを見下ろして、先程の質問に答える。
「そうね……確かに病気みたいなものね。呪いが刻まれれば、体のどこかが不調になったり、前まで無かった持病が増えていたりするから」
「……何それ? 鳥子さんは、今までそんな理不尽なものを抱えて来たの? 一人で?」
 こちらとは目を合わせないで、うつむいたまま、それでも彼女は頭を振った。
「……一人ではなかったわ。母が……わたしを産んだ後も呪いの多くを肩代わりしてくれていた。それと、巴と言う、歳の離れた友人がいたのだけれど、彼女もわたしの呪いを一時肩代わりしてくれた……でも、二人は……」
 ――死んでしまった。彼女はそう続ける事が出来なかった。
「…………」
 それを悟っても、自分は冷静だった。もしかすれば、自身に降りかかる死と言うのは、それほど恐ろしいものではないのかもしれない。今自分は、死刑宣告、あるいは、余命宣告をされた様なものなのだろう。けれども、不思議と恐怖は無かった。奇妙な、歪な……安堵感――それだけがあった。
「でも大丈夫よ……貴方がわたしを“呪えば”、その呪いはわたしに帰って来るのだから。わたしを恨んでくれればいい。嫌ってくれればいい。そうすれば、自然とその呪いはわたしの体に戻って来るのだから……」
 鳥子は学校の屋上で話をした際に、左腕の傷は治る事は無いと言っていた。でもそれは意味合いが違っていたらしい。
 その傷は治す事は確かに出来ないが、転移させる事は出来ると言う意味であったのだ。だから、わたしと一緒に来てと言っていたのか……
 それは傷自体は治らなくはあるものの、確かに一つの治療法としては有効だった。一人を犠牲にする事で……一人が無傷になれる方法だった。
 それを聞いて――自分は鼻で笑っていた。
「――それは無い。その選択はありえない」
 頭がカッとすると同時――再び歩き出していた。
 彼女は息を呑んで、されるがまま、腕を引っ張られ、ただ歩くしかなかった。
 今の自分はきっと嫌なヤツに見えている事だろう。彼女の言った言葉を鼻で笑ったばかりか、腹立ち紛れに強引に手を引っ張って歩いているのだから。
 おまけに早歩きになっているので、彼女は爪先を幾度も引っ掛けて、その度に転びそうになっている。それに気付いているにも関わらず、自分は彼女の顔が見たくなくて、先行を続けた。
 そうしていると、やがて、それがポツリと囁かれた。

「――ひとを呪わばあなふたつ

 ――ひとつ帰せばあなひとつ」

 それは、手鞠唄の様な……不気味で、意味深な歌だった。そして、子守唄の様な、人を惹き付けて止まない……魔性の唄だった。

「――ひとり呪えばひとりが幸せ

 ――ひとり呪いつづければみなが幸せ」

 思わず――立ち止まっていた。気付けば、外に出ていた。正しくは、駅の二階にある、屋上の様な場所だった。そこは、無人の屋外待合所だった。
 天気が良い日は、ここで日を浴びながら電車を待つ事が出来るのであろう。
「これが呪いの真理よ……新たにひとを呪ってしまえば、あなはふたつに増えてしまう……それならば、せめてひとつ帰して、あなはひとつに戻すべきなのよ……」
 鳥子はもう片方の手も使って、ぐっとこちらの左手を掴んで引っ張った。思った以上に彼女の力は強く、自分は体を強引に前に向けさせられていた。
 彼女の手を払おうとするも、それでも彼女は手を離さなかった。ほんの一瞬、強かに彼女の腕を打ち据えてしまうも、謝罪する気にはなれなかった。
 彼女もまた、特にこちらを責めるでもなく、ただこちらの顔を見据えていた。
「……続きの歌をもう一度言ってよ……」
 彼女はそれにはたと気付いたのか、顔を反らしてしまう。恐らく、その部分はこちらに聞かせるべきでなかったと今更気付いたのだろう。
「覚えているよ……言わなくても良い」
 確か――

 ――ひとり呪えばひとりが幸せ

 ――ひとり呪いつづければみなが幸せ

「――何それ?……馬鹿みたいだ!」
 身長では負けていても、せめて睨み上げる事で、こちらの意志を伝える。その思いを武器にして、彼女に相対する。
「呪いを鳥子さんに帰せば僕は幸せなの?……馬鹿にしないでよ!」
「いいのよ……それでいいの……」
「何が良いんだよ!?」
 自分は癇癪を起こしていた。いい加減うんざりだった。ネガティブな女性ほど嫌いなものはないのだから。

「――だから呪われるわたしはみなの幸せ……

 ――だから呪われたわたしは幸せ」

 その唄の続きを聞いて、自分は目を見開いていた。彼女は自分と同じ感情を抱いていた――彼女は、他者が呪いに苦しむくらいならば、自分自身が呪われる方が幸せだと言っているのだ。
「矛盾してる……! 鳥子さんが呪われる事で、幸せになれない人だっているはずだ!」
「そんな人はもういないわ……母も巴も、もう死んでしまったのだから……後は、わたしに全ての呪いを押し付けたい一族がいるだけ……」
 彼女がどうして彷徨っているのか、その理由の一端が垣間見えた。それならば……自分が新たに彼女の幸せを望む者になろうと思った。
「そんな顔をしないで頂戴……わたしの幸せは、貴方が呪いを帰してくれる事よ」
 とことん彼女はこちらを馬鹿にするつもりの様だ。
「……帰さないよ……絶対に」
 ともすれば、それは彼女を今日は家に帰さないと言っている様にも聞こえたであろう。けれども、その真意はしっかりと向こうに伝わっていた――彼女も続ける。
「……わたしも貴方を帰さない……貴方が呪いを帰してくれるまでは……絶対に」
 二人は互いに左の手を繋ぎ合ったまま、挑む様にして、互いを見詰め続けた。
「悪いけれど……貴方をある場所へ連れて行くわ。言う事を聞かないのならば――“呪うわ”。動けない様にして、無理矢理にでも連れて行く……!」
 彼女の繋いでいない方の手――右手から、瘴気が立ち昇っていた。それをこちらに突き付けられる。それは、今朝遠目に見た時の彼女が纏っていたもの。陽炎の様に黒く、たゆたう、異質なもの……
「わかった……どうせ明日から夏休みだ。とことん付き合うよ」
 誓って、怖じ気付いたわけではない。脅されて言う通りにする訳ではない。呪うのなら呪えばいい。むしろ望む所だ。こちらだって、母親を亡くした苦しみを抱えて生きて来たのだから。 人が死ぬ苦しみを抱える事ほど、そして、人が苦しむ様を見る事ほど、苦しい事はないのだと知っているのだから……
 例えそれが、今日出会ったばかりの他人であろうと、自分は他者に苦しみを押し付ける事は出来なかった。それは、母が死んだ時から自分を今日まで支え続けている、病的なほどの強迫観念だった。
 この強迫観念を抱える事は、正直大変だった。けれども捨てられない。これを捨てれば、自分は自分でいられなくなる。自分と言う人間――守野青羽と言う人間であれなくなってしまう。
 ある意味で……これは大切な“呪い”だった。母から貰ったこの名前を持つのに相応しい人間であるための“呪い”だった。
「丁度良かったよ……口うるさい姉に、たまには反抗してやりたいと思っていた所だ。僕はこれからどこに行けばいいの?」
 黒い少女が、誘う様に、ポツリと、呟いた……
「わたしの友人……巴が居た所よ」

 それは……黒い少女と、未熟な少年の、一夏の逃避行の始まりだった――

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