小説『斑鳩』
作者:雪路 歩()

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  第十二章  水色のサマーバケーション2

 夜行列車に乗り換えて、寝室まで来て、その事実に気付いた。寝床は中央の通路を挟んで、向かい合う様にして二つある。これでは、一組の男女が寝室を共にするのに近い形となってしまう。
 けれども鳥子は気にした風も無く、寝床に腰を下ろし、さっさと横になってしまった。そして、仰向けのまま、ポツリと漏らした。
「……気にしないで良いわよ。お金を払って貰っている以上文句は言わないわ。それに、貴方はそういう事をする人ではないでしょうし。仮にした所で、わたしの体なんて見ても気持ち悪くなるだけよ。でも、そうね……もし貴方がそれでもそう言う事をした場合は――“呪うわ”」
 なぜだろう。元から何もするつもりは無かったのだけれど、物凄く損した気がするのは。だって、既に“呪われている”んだから。
「――見くびらないでよ。これでも良識は持ち合わせていますから!」
 そう言い返して、自分も寝床に横になるった。見やれば、寝台の端にはスライドする敷居布が吊り下げられていた。これを使えば向こうを見る事も、向こうから見られる事も無いであろう。
 シャッと音を立てて、その布を走らせる。そうすると、向こうが見えなくなる。普通は女性が最初にそうするべきなのに、なぜだか自分達の場合は逆だった。
 向こうも、遅れて敷居布をシャッと走らせるのが聞こえた。しばし沈黙を保った後……そっと彼、女に囁いた。
「――鳥子さん……お休みなさい」
 しばし、空白の時間が流れた後――ポツリと返事が帰って来た。
「――お休なさい」
 最後の辺りはボショボショと、誤魔化す様に、小さく呟く鳥子。
 こちらの名前を呼ぶ事が照れ臭いのかもしれない。それを微笑ましく思っている内に、睡魔がすぐに押し寄せて来た。
 ガタン……ゴトンと、規則的に、電車の振動が伝わって来る。それは眠りに誘う一つのリズムだった。自分はその音を聞いている内に、いつしか寝入ってしまっていた。
 眠りに就いた瞬間――筋肉痛だった全身から、何かがじわじわと抜け落ちて行くのを感じていた。

 翌朝目を覚ますと――既にそこには着いていた。目的の田舎駅は終点だった。
 時計を持ち合わせていないので、時間の確認のしようが無かった。ただ、日の加減から、まだ午前中ではある事が窺えた。
「――凄い所だね……見渡す限り緑しか見えないや」
 そこは売店すら無い寂れた駅だった。たった一人だけいる駅員が、向こうの出口の方でスタンバイしてくれていた。その駅員は、若い乗客である自分達に対し、満面の笑みを向けてくれていた。
「――御姉弟で来られたんですか?」
 それを聞いて、何となく、複雑な気持ちになってしまう。思えば、そう見られるのが普通だし、事実そう見られた方が好都合でもあるのだが。なぜだかプライドが傷付いた。
「ここは本当に田舎でしてね、名物になるものは古いお寺、それ一つくらいですかね。コンビニすら無い場所でして。あるのは商店が一つか二つくらいです。その代わり自然が豊かなので、森林浴をしたり、川に足を浸けて涼んだり、釣りをしたり、そう言った事が出来ます。まったりと過ごすには良い場所ですよ」
「ええ……本当に良い所ね。ここならゆっくりと過ごせそうだわ」
 鳥子の顔を見上げると、彼女は淡く微笑んでいた。駅のホームからでも見えるその景色を見て、穏やかな表情をしていた。彼女のそんな顔は、昨日から今日にかけて、初めて見た。
「どちらのお孫さんですか? よろしければ連絡して差し上げますよ?」
「いいえ、いいわ。これからお寺まで行く予定なの。先ずは神様に御挨拶しなければならないわ」
 ニコリと微笑んで、鳥子は駅員に切符を渡した。
(――あれ?……鳥子さんってこんな顔も出来るんだ。いつもしかめっ面してるから、てっきりそれが地の顔だと思ってた)
「それはいいですね。先ずはここに来た御挨拶を神様にし、ここで過ごす御許しを頂くのが良いでしょう」
 彼女は仏教徒なのだろうか。別に意外だとは思わないが、無神論者の自分とは相容れない気がした。
「お寺に行く山道は急な所もあるから、弟君がお姉さんの事をちゃんと守って上げるんだよ?」
「はぁ。そうですね……わかりました」
 脇に置いていた学生鞄を掴み直し、自分も切符を駅員に手渡した。そして、少し先を行っている鳥子の後に続いた。
 駅から出て、鳥子の後に続いて歩く事十数秒――鳥子が笑い出すのが先だった。
「――ふっ……ふふふふ!……弟君だって!」
 やはりずっと笑いを堪えていたのか。さっきの会話中、道理でずっと澄ました顔をしていたわけだ。
「鳥子さんって二面性がある人なんだね」
 プライドを傷付けられる様な事を言われて、素直なままでいられる男子は果たしているのであろうか?――少なくとも、自分はそうではなかった。
「何ですって?」
 鳥子はこちらを振り返って、やや腰を屈めながら睨み付けて来る。背の低い“弟”に、わざわざ目線を合わせてくれてすらいた。その仕草は偶然などではなく、露骨にこちらを茶化していた。おまけに、なんとも元気な事に、器用に後歩きをしている。
「――『先ずは神様に御挨拶しなければならないわ』だなんて、淑やかぶっちゃってさ。今時そんなの流行らないよ。いつの時代の人?」
 鳥子もまた、こちらの発言にカチンと来たのか、すぐに言い返して来た。
「貴方だってそうじゃない! わたしの前でだけ嫌みったらしくならないでよ!」
 鳥子はそう言うなり、こちらに手袋越しの指先を突き付けた。
「僕はこれで普通なんです。相手の人の態度に相応しい態度を取っているだけです」
 鼻で笑ってやる――なぜだろう。こんな態度を取ってしまう女性は初めてだった。そして、そうしていても、この人ならばそれが許されるとわかっているのも初めてだった。姉やクラスメイトの女子が相手では、こうはいかないだろう。
「貴方、本当に可愛くないわね。年上に対する礼儀がなっていないわ。もう少し素直になったらどうなの?」
 ムッとしたまま、なおもこちらを睨み付けて来る鳥子。屈めるのは止めて、腰の位置は普通に戻っていた。
「だからこうして、鳥子さんに言いたい事を素直に言ってるじゃないですか」
 こちらも負けじとそう言い返し、ふんと鼻から息を漏らして、鳥子から顔を反らす。
「そっ……ふん!」
 以後――無言の時間が続く。
(……さすがに言い過ぎたかな?)
 顔は横を向けたまま、それでも横目で前方をチラチラと見てしまう。すると、鳥子はこちらに背を向けて、肩を震わせながら歩いていた。もしかして泣いているのかもしれない――そう思ってしまった。
 顔が見えないので、彼女の本意が見えない。大人気無かったかもしれないと、罪悪感が胸に満ちて来る。内心、慌ててもいた。
 だが、彼女は突然こう言い返して来た。
「――そんな程度じゃ、わたしは貴方を嫌いになったりしないわよ?」
 どうやら彼女は、今のやり取りを『帰さない合戦』の延長と解釈していたらしい。軽やかにそう言ってのけた。どうやらさっきの肩の震えは、笑っていただけの様だった。
「そう……それは残念」
 ――なら……そういう事にしておこう。

 歩いている途中で見付けた個人営業の雑貨屋さんで、ラムネを二本購入した。一本八十円。とても安い。
 鳥子は遠慮していたが、自分は「良いから」と言って、強引にそれを握らせた。彼女にお金が無い以上は仕方がない。それに、昨日の様に倒れられては困る。呪いで体が弱い鳥子は、しっかりと水分補給をしておくべきだった。
 店番をしていた老婆は、そんな二人のやり取りを見ている内に、いつしか店の奥の方へと引っ込んでしまっていた。
 百六十円支払う前に行かれてしまったので、店を立ち去る事が出来なかった。
 一分位してから老婆は戻って来た。その際、お盆に何もかけていないかき氷を二皿持って来てくれていて、これはサービスだと言われた。
 店内の壁にぶら下がっているお品書きには『かき氷百五十円』と書かれていた。その分のお金を払うと言っても、決して受け取ってはもらえなかった。
「……わかりました。それじゃあ、また何か買いに来ます」
「それでよか。そうしんしゃい。ゆっくりしてからおゆき」
 ニカッと笑って、腰の曲がった老婆はレジの所にある椅子に腰を下ろした。そのまま、団扇で顔を仰ぎ始める。
 鳥子は渋い事に、数あるシロップの中からみぞれを所望した。自分はブルーハワイを選んだ。二人並んで、庇の縁に吊り下げられた風鈴の音を聞きながら、かき氷を突きながら、空をぼうっと見上げた。
 スプーンで氷を崩し、すくい、口に運ぶ。シャクシャクと氷を噛み砕く音が、隣からも聞こえて来る。少し離れた所にある雑木林からは、ミンミン、シュワシュワシュワ、ジーーッと――あらゆる蝉の鳴く音が聞こえて来る。
「――良い所だね」
 本心だった。本当ならば、今日から夏期講習があるはずだった。一日一教科ずつ。午前中一杯。朝の九時から十二時まで。一教科二万円。英語と数学と化学。計六万円也。
「――ごめんなさい……本当は行きたい所とかあったのでしょ?」
 いや、そんな事は無い。ここほど来たいと思える場所なんて無かった。降って湧いた様な、半ば投げやりな気持ちで付いて来てしまった逃避行だったが、悪くはない。
 一晩経って、冷静になった今では、随分と馬鹿な事をしてしまったと思ってこそいるが、もうここまで来てしまったからには仕方が無いと達観してもいた。
 人生初の無断外泊だった。ここまで馬鹿な事をしてしまったのは初めてだった。けれども、何とも心地良かった。口うるさい姉に従うまま、時折軽く反抗しながらも、それなりに品行方正に生きて来た。小中高通し、犯罪、いじめ、喧嘩などの類をした事は一度も無かった。でも、ついに悪い事をしてしまった。けれども、不思議と、解放感にも満たされていた。
 きっと今頃、姉は心配している事だろう。学校にだって連絡が行っているはずだ。自分は家出の様な事は一度もした事が無かったのだから、なおさら姉は慌てている事だろう。
「――鳥子さん。僕には姉がいるんだ。母親代わりの口うるさい姉が」
 鳥子はそれを聞いて、思わず立ち上がっていた。喉に詰まった氷に咽て、咳き込みながらも、慌ててこちらに詰め寄っていた。
 鳥子が言葉を繋げる前に、最後まで言っておく。
「それと、弟もいる。父は……ずっと単身赴任してる。もう何年も、姉、自分、弟の、三人だけで暮らしてる」
「そういえば忘れていたわ……昨日姉がどうとか、確かそんな事言っていたわね。ごめんなさい。今すぐに家に電話しなさい。電話を借りましょう」
「したら連れ戻されるよ?」
「それなら、せめて、無事だと言う事だけでも伝えればいいじゃない」
 自分は、必死な彼女を見て、その姿を確認して――全く別の事を口にした。
「――やっぱり鳥子さんは悪い人じゃないや……」
 もし自分を利用しようとしているのであれば、家に連絡されると不都合であるはずだ。なのに彼女はこんなにも必死になって自分の家族の事を案じてくれている。むしろ電話をしろとまで言ってくれる。
 世間ずれしている所。一般常識が無い所。少しわがままな所。色々目に付く部分こそあるものの、それは彼女の純粋さの裏返しであって、決して欠点などではなかった。
 自分が今確認したのは、彼女の本意だった。彼女は世間ずれしている人間ではあっても、決して悪質な人間ではなかった。むしろ、善良な心を持つ、優しい人であった。
「…………早く帰して。そうしたら、貴方を早く家族の元へ帰せるから」
 確かに家族の所には帰りたいが、それは鳥子に呪いを帰してまでするべき事ではなかった。それは秤にかけてしまえば、事実、どちらかに傾くのだろう。恐らく、多くの人にとっては、それは秤にかけて選び取れる問題であるのだろう。
「僕が鳥子さんを犠牲にして家に帰れば、僕は一生、姉と弟に顔向けが出来なくなる。僕がそうしたって知れば、姉は怒るかもしれない。弟だって、一生僕の事を兄として見てくれないと思う」
 そうだ……自分はちゃんと別の物差しを持っている。秤にかけて、選び取ってはならないものだってあるのだと知っている。
「だから……帰さないから」
「………………」
 しばし、お互い黙り込んでいた。
 気付けば、ブルーハワイのかき氷はすっかり溶けてしまっていた。それをゆっくりと飲み干してから、自分も立ち上がる。
 拳を握り締めて、足元を見下ろしている鳥子の手を取って、日影に誘導する。元いた場所、自分の隣に座らせる。ベンチが再び二人分の体重を支えて、ギシギシと軋んだ音を立てる。
「――そうだ。帽子を買おう。鳥子さんに似合うのがあればいいな」
 ね?――と、未だうつむいたままの鳥子に向き直り、自分は不器用に笑いかけた。

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