小説『斑鳩』
作者:雪路 歩()

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  第二十章  水色のサマーバケーション10

 小屋の中に保管されていたキャンプ用品を確認する。大まかな物では、テントが二つに、寝袋が二つ。他に目立った物では、折り畳み式のデッキチェアが二つに、錆びないタイプの金属製の食器類があった。どれもこれからの生活で必要となるキャンプ用品であった。
 全斎から言われた事にも関係する話だが、鳥子と一つのテントで夜を共にするわけにはいかない。
 必要な物を一通り外へと出した後は、テントをすぐに組み立て始めた。説明書を確認しつつ、色にも手伝ってもらう。
 色はテントを張った経験があるのか、せっせと作業を進めてくれる。手慣れたものだった。御陰で作業は楽に進んだ。
 一方、鳥子には力仕事以外の仕事を任せている。細々とした生活用品を探し出してもらうのと、それらの整備をしてもらっていた。洗うのもその内の一つだった。
 テントを組み立てながらも、チラリと鳥子の様子をうかがう。彼女は川縁に腰掛けて、湿らせた布巾で食器を丁寧に拭いている後姿が見えた。彼女は川の水に足を漬け込みながら洗い物をしていた。
「――鳥子さん! あんまりそうしていると、風邪を引いちゃうからほどほどにね?」
 十メートルほど離れた水辺にいる鳥子にそう声をかけると、彼女は軽く背中をピクンとさせた。恐る恐るこちらを振り返って、思い出したかの様に素足をスカートの裾で隠した。
「――エッチ! こっち見ないでよ!」
 なんだその反応は。昨日は良くて、今日はだめなのか。微妙な乙女心と言うやつなのかもしれない。本当に意味不明だった。女子は都合の良い時だけ男子をセクハラ扱いする事があるから困る。いつから女尊男卑の世の中になったのだろうか。
「……はいはい、ごめんなさいね。テント一つ組めたから、鳥子さんの荷物を移しておいてね?」
 腕で指し示すと、鳥子は釣られる様にしてそちらを向いた。
 示した先には水色のテントが木陰の下に立っていた。角の丸い、三角錐型のテントだった。正面から見ると、おにぎりの形に見えた。
 もう一つ組んでいるテントの色は黒だった。黒色は熱を帯び易い。だからこちらは自分が使う事に決めていた。冬場ならば逆にしたのだが。
 すると、鳥子はそれを見て、またも声を荒らげた。
「――嫌よ! エッチ!」
 なぜ、またもセクハラ扱いされるのかがわからなかった。
「はぁ?……いい加減しつこいよ?」
 露骨に眉をしかめて見せて、言い返す。少しばかり睨む事も忘れない。この手の女子には容赦をしてはいけない。付け上がるだけだ。自意識過剰もいい加減にしてほしかった。
「さっきのは冗談で、今度は本気よ! 水色だと中で着替えている様子が影になって透けて見えるじゃない!」
 確かに正論だった。そこまで考えていなかった。
「黒いのだと中の気温が高くなると思ったんだよ。別にそういう事を期待したわけじゃないから!」
「ここは水場が近いから、朝と夜は気温が低くなるの。だからわたしは黒でいいわよ」
「本当? 普通に暑いんだけど……」
 色にそう問いかけながら、シャツの襟をつまんでバタバタと震わせて、胸元に風を送る。
「この辺の朝は確かに冷え込みます。とはいえ、どちらのテントでもそれほど変わりは無いかと思われます。私もたまに全斎様に愛想が尽きた時は利用する事があるのでよくわかります。どちらのテントの使い心地も、それ程変わらないです。ですが、水色のテントだと確かに人のシルエットが透けて見えてしまいます」
「そっか。じゃあ黒い方は鳥子さんが使えば良いや。それに、黒い方のが大きいから、鳥子さんにも丁度良いよね?」
 笑顔で鳥子にそう語りかけると、今度は何が気に食わなかったのか、またも噛み付いて来た。
「黒い方が大きいから良いってどういう意味よ!? どうせわたしはでかいわよ!」
「またなんか誤解してる……ほんとに面倒臭いなぁ。女性は荷物が多そうだから、その方が都合良いでしょって言ってるだけなんだけど?」
 鳥子は立ち上がって、両膝のスカートの裾を握り締めながら、なおも言い募って来る。まるで駄々をこねる子どもの様だった。
「貴方の言い方が悪いのよ!」
「はいはい……すいませんね。僕小さいから、なんでも大きく見えちゃうんですよ」
 こちらも適度に悪意を返していないと付き合い切れなかった。あくまで軽く、言葉のジャブを返す。だが、鳥子はその言葉もいたく気に入らなかったらしい。
「貴方、わたしをそういう目で見てたんだ? でっかい女だって思ってたんだ? だから大食らいなんだって思ってたんでしょ!?」
 大食いなのはともかくとして、前半は明らかに難癖だった。
「確かに背が高い人だとは思ってたけど、でかいとは意味が違うでしょ!? ほら、なんて言うの……? 長身で細身で、モデル体型って言うの?」
「青羽様……そこはスタイルが良いと言えばよろしいかと思われます。長身で細身であると言うのは、長身痩躯と言えばよろしいかと思われます」
 合いの手を入れてくれた色に頷きかけて、鳥子へと向き直る。
「そうそれ。鳥子さんわかった? そういう事だから、僕に悪意は無いんだよ」
 色はなぜだかそこで溜息を吐いた。その反応を見るに、今の発言もどうやら失敗であった様だ。
 鳥子もなぜか、益々機嫌を悪くしていた。
「ふ、ふふふふ…………さすがね。わたしから嫌われて、呪いを帰さないで済む様にしようとしてるんでしょ? こんな程度で嫌ってなんか上げないんだから!」
 こちらにビシリと音がしそうなほどの勢いで指を突き付ける鳥子。言い終えるなり、再び背を向けてジャバジャバと食器を洗い始めた。本当にわけがわからなかった。
「鳥子さんって、たまにわけのわからない事を言うよね……」
 そう呟くと、色がボソリと漏らした。
「青羽様。つかぬ事を御聞きしますが、“夫婦喧嘩は犬も食わない”と言う言葉を御存知ですか?」
「知ってるけど。それがどうかしたの?」
 色は再び溜息を吐くと、一言だけ「いえ」と言って、テントを立てる作業に没頭し始めた。
「?」
 色もたまにわけがわからない事を言う。
 数分後、テントを張り終えた。その後は鳥子と合流し、一緒に食器を洗い始めた。
 鳥子はその間、こちらと目を合わせようとしないばかりか、一度も口を利いてくれなかった。こちらが話しかけようとすると、しきりに色と話をし始める。どうやら拗ねている様だった。
 こういう態度を取る以上は、まともに相手しているだけ損だ。さっさとこの場の仕事を終わらせて、次の仕事を始める事にした。
「よいしょっと! それじゃあ、そろそろ釣りを始めようかな。洗い物は二人に任せるね?」
 一人でのんびりと釣りを楽しむのも悪くないだろう。折角なので、昼と夕飯の分をまとめて釣っておこうと思う。そうなると、大分釣らないといけない事になる。自分が昼と夜とで三匹ずつ食べるとしても、六匹釣らないとならない。これが鳥子だと、一食あたり五匹以上必要となるはずだ。今から釣り始めないと、お昼にも間に合いそうになかった。
 立ち上がって、一人小屋の方へと進んで行くと、鳥子が突然叫んだ。
「――一人だけ狡いわよ!」
 今まで何も言わなかった鳥子が、改めてこちらに声を飛ばす。
「なに?」
 別に睨むでもなく、振り返って普通に応対した。
 すると、鳥子は目を合わせ様としないで、しきりにもじもじとしていた。しばらくそうしていたかと思うと、ようやく意を決して、はっきりとこちらの目を見て、その思いを口にした。
「それは二人でやらないと駄目なの!」
「……そうなの?」
 鳥子ルールだった。彼女の中では一体どの様なルールが定まっているのだろうか。本当に謎だった。
 いつの間にかこちらの隣に近付いて来ていた色が、耳元に口を寄せ、そっと囁いた。
「――鳥子様は一人にしないでと言っているのです」
 目を見開いて、色の無表情顔を見下ろした。そうすると、色は頷いてから後を続けた。
「鳥子様は寂しがり屋です。洗い物は私がしておきますので、御二人は釣りをなさって来て下さい」
 そこまで聞いて、自分は鳥子の家庭事情を思い出した。ほんの少しの間、その事を完全に忘れてしまっていた。鳥子の姿があまりに普通の少女然としていたから、それを失念していた。
 可能な限り、鳥子がこちらを求める限り、そばにいてやらなくてはならないのだと気付いた。
「あちらに浅瀬があります。魚が溜まる様に細工をした場所が御座います。そこで釣り糸を垂らせば良い釣果に恵まれるかと思われます」
 鳥子の方を向いたまま、視線や顔を向けないで色に一度だけ頷いて応じた。次いで、鳥子に語りかける。
「それじゃあ僕が荷物取って来るから、鳥子さんはその間に足を拭いていてね!」
 そう言って、その場を後にした。振り返る間際、スカートの裾を押さえていた彼女の手がそこから離れて、背後にそっと回されるなり、途端に笑顔になるのが最後に見えた。

 折り畳み式のデッキチェアのパイプを肩にかけて、左手は餌を入れたバケツをぶら下げる。二本の釣竿は左脇に抱える。そんな姿で川の方へと戻って来ると、鳥子は例の麦藁帽子を被って待っていた。
 さっきまでは木陰になっている川辺で作業をしていたから必要無かったのであろうが、これからまた日の当たる場所へと移るから、テントの中から取って来たのであろう。
 麦藁帽子を被って、これからの事に期待に目を輝かせる鳥子。その姿はお出かけ前の子どもそのものだった。その姿を見ると胸が苦しくなった。それは正と負の感情が混在したものだった。
 笑顔ではしゃぐ様を見ると微笑ましく思えるのとは別に、彼女が十七歳になってようやくそれが得られたと言う事実に気付いた。そんな当たり前のものを、彼女は今まで持っていなかったのだ。経験していなかったのだ。
「釣竿なら軽いから持てるわ。貸しなさい」
 少しだけ偉そうな口調と態度の鳥子。微笑ましいと思うと同時、胸が改めて苦しくなった。
「うん……それじゃあ、お願いします」
 鳥子は人形を抱える様にして、胸の前に二本の釣竿を抱き留めた。
 川の上流を目指して、二人並んで歩いて行く。時折水面から反射して来る光がキラキラと眩しくて、目を細めてしまう。数十秒ほどか。そのまま無言で歩いた。
「――ねぇ……どうすれば貴方は呪いを帰す気になってくれるの?」
 あくまで世間話の様に、何気無い風に、鳥子はそう尋ねた。
 ――そうだった。今回こうして二人で暮らす理由、その名目は“それ”だった。呪いを移すか、帰すのか。自分達は話し合わなければならなかった。鳥子はそれをちゃんと覚えていたのだ。
「そうだなぁ……――」
 この場の空気や、二人を取り巻く微妙な雰囲気のせいか、感情があわ立つ事は無かった。不思議と、穏やかな気持ちで言い返せた。
「――わかんない。仮に鳥子さんが極悪非道な人物だったら帰してたかもしれないけどね」
 新聞で見たあの事件の事を思い出す。鳥子はあの時、呪巫女としても、人としても、全うな選択をした。全斎からその話を聞いた後では、鳥子を嫌える要因がいよいよ無くなってしまった。彼女はいわば自分達の恩人だ。どうして恨めようか。
「それは難しいわね。幾ら呪われているからって、わたしは犯罪に手を染め様とは思わないわ。わたし、呪いを言い訳にして、悪い事や狡い事はしないって決めてるんだから。お母さんからもそう言い聞かされて育てられたからなおさらね」
 鳥子は弾んだ調子で言った。あまりに真っ直ぐなその言葉に、その何気無さに、今度は純粋に胸がキュッと締まった。
「そうなんだ……僕もだよ。僕もさ、鳥子さんより大分前に母親を亡くしてるんだ。だからって、それを言い訳にして、ぐれようなんて考えた事は無かったよ」
 自分達は同じものを抱えていた。母親の死と、父親に対する不満。もしかすれば、僕達は似た者同士なのかもしれない。
「ふーん?……それはお姉さんの御陰?」
「それもあるね。お姉ちゃん、僕を厳しく育ててくれたから。でも、一番の理由はお母さんの遺言の御陰かな。あの言葉があったから、僕は今こうしていられるんだと思う」
 だからこそ、犯罪に手を染める様な事も無く、少年院に入れられる様な事も無く、今この場に居る事が出来るのだ。
「何て言われたの?」
 この事を他人に話すのは初めてだった。そして、この人にならこの話をしても構わないと思えたのも初めてだった。それがまさか、歳の近い女性だと言うのは驚きだった。
「死ぬ間際にさ、お母さん、僕にこう言ったんだ――『青羽って言う名前はね、人にとっての幸せの青い鳥になれますようにって願いを込めて付けたの。だから青羽、人を幸せに出来る人になってね』――って」
 ――ああ……これはいけない。目の前が霞んで来た。話す声も、途中から震えていた。この歳になっても泣けるほど、その思い出は深く心に刻まれたものだったのだと、今更気付いた。
「だから……貴方はわたしに優しくしてくれるの? だから……わたしが酷い事を言っても帰ったりしないの?」
 鳥子の声は、平坦で抑揚の無いものだった。感情が込められていなかった。
 自分は頭を振っていた。それだけが理由ではないのだと、そういう意味で否定した。恐らく、その正確なニュアンスは鳥子には伝わらないかもしれない。それでも構わなかった。その場では、ただ、否定だけをしておいた。
「僕さ――お姉ちゃんと父親と血が繋がってないんだ。母の連れ子だったから」
 鳥子が息を呑んで立ち止まった。次いで、慌ててこちらに顔を向けたのが気配で判った。
 自分はそれより更に遅れて、数歩進んでから立ち止まる。それでも、言葉だけは止まらなかった。
「――でも、お母さんは大分前に死んじゃった。弟を生んで、しばらくしてから死んじゃった……だから、僕だけ、あの家にいても良い理由が無いんだ。父さんが長い事単身赴任してるのも、世間体に対するただの言い訳で、本当は違うんだ。お父さんが一人だけ離れて暮らしているのは、僕のせいなんだ……」
 父だけが長年別居しているのは自分のせいであった。自分のせいで、あの複雑な家庭環境を生んでしまった。まるで呪いの様な、澱んだ空気を家庭にもたらしてしまった。
 青い羽の名を持つ少年は――青い鳥にはなれなかった。
 長年蓄積されて来た罪悪感が、その思いが、鳥子と出会った事で溢れ出してしまった。だからあの日、自分は鳥子の誘いに乗る事にしたのだ。あの誘いは自分にとって、とても都合の良いものだったから。
「ごめん……僕が鳥子さんに付いて来た理由は、もしかしたら、こっちの方が大きいのかもしれない。僕は善意からではなく、ただ逃げ出したくてここへ来たのかもしれない……」
 背後で、カランと音を立てて釣竿が転がった。それに一瞬遅れ、鳥子がこちらへ駆け寄って来た。
 それは――思えば当然の事だった。人を慰めるのにそうするのは極自然な事だった。けれども、僕達は恋人同士ではなかった。だから鳥子も咄嗟に、無防備に抱き締める事はためらわれたのだろう。それでも嬉しかった。
 鳥子はこちらの背中に目頭を押し当てて、ぐりぐりと擦り付けて来た。まるで子犬が飼い主にそうする様に。次いで、こちらの左手を取って、両手でそっと包み込んでくれた。手袋越しの手でも、その温もりはしっかりと伝わって来た。
 それでも、それだけでも、全身をギュッと抱き締められるほどの安堵感と幸福感が得られた。もうずっと、長い事、母の代わりに、誰かにそうしてもらいたいと焦がれていたそれ……
「――ごめんね……鳥子さん。暗い話なんかしちゃって、本当にごめんね……」
 鳥子はふるふると頭を振って、しばらくこちらの背中に顔を押し当てていた。
 自分はその時に気付いたのだった。背中と手の平越しに伝わって来るその温もりを介して、それを理解した。
 あの時、母を救う事が出来なかった代わりに、今度こそ苦しんでいる女性を助けたいと思ったのとは別に、自分は鳥子に対して“お母さん”を求めていたのだと。母性を求めていたのだと。
 あの時、保健室で頭を撫でられた時から、その思いは募っていた。そして昨日、彼女は再びそうしてくれた。そうしてもらう事で、どれほど自分は満たされていたのか、それに気付いた。
 救われていたのは自分の方だったのだと、それに気付いてしまった。

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