小説『斑鳩』
作者:雪路 歩()

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  第二十一章  水色のサマーバケーション11

 ――旧姓森野。現守野青羽は、ニ歳の時に父親を亡くした。だから一人目の父親の事はよく覚えていなかった。それからは母の瑠璃子と二人きりの、母子家庭となった。
 それから二年して、森野瑠璃子は旧知の間柄であった守野夕大と結婚する事になる。それは青羽が四歳の時であった。
 二人は苗字が同じ読みである事から、そして、下の名前もや行とら行の隣り合わせなので、学生の頃は常に席が前後だった。いわゆる、腐れ縁だったのだと言う。
 夕大の方は高校を卒業してすぐに結婚しており、当時、既に十五歳にもなる娘を抱えていた。夕大の方も早くに伴侶に先立たれており、長年父の手一つで娘を育てて来たのだと言う。
 瑠璃子の夫が死んだ時、夕大は遠方から度々相談に乗っていたと言う。瑠璃子の方も、夕大が娘の扱いがわからない時は色々と助言をしていたと聞いている。
 夕大の一人娘の名前は紅羽と言った。青羽と色違いの名前であった。これは偶然の一致などではなく、紅羽と言う名もまた、かつて瑠璃子が付けたものであった。
 紅羽が生まれてすぐに夕大の妻は死んでしまい、一人残された彼は娘にどういう名前を付けようかと途方に暮れていた。その際に、遠方から幼馴染の瑠璃子が駆け付けて来てくれた。その頃の瑠璃子はまだ結婚しておらず、付き合っている異性もいなかった。実の母の代わりに紅羽の面倒を看る事を買って出てくれただけでなく、名前まで考えてくれたのだと言う。
 瑠璃子はその時にこう言った。
 ――共同募金の象徴になっている赤い羽根にちなんで“紅羽”なんてどうかしら? 人の為に尽くす、親切な人に育って欲しいって思いを込めたの!
 夕大はそれを聞いて苦笑したと言う。瑠璃子は昔から“羽”と言う字が取り分け好きだった。まさか自分の娘の名前にまで彼女の嗜好が及ぶとは思わなかったのだろう。けれども、それでもその名前に込められた意味はいたく気に入ったらしく、その赤子の名前は紅羽となった。
 それから時は流れ、その頃には瑠璃子は守野家から去って自分の人生を歩んでいた。夕大とは十年遅れで結婚を果たした。その一年後に青羽が生まれた。そして、その三年後、瑠璃子も伴侶を失う事になった。
 夫の死因は過労死だった。軽い風邪をこじらせながら仕事を続けたせいで、ある日ぽっくり逝ってしまったのだと言う。
 その話はすぐに夕大の元へと届いた。親一人で子どもを育てる大変さを知っていた夕大は、しばらくしてから結婚を前提とした付き合いを瑠璃子に申し込んだ。生まれて間もない紅羽の面倒を看てくれた頃からずっと、友情以上の感情を瑠璃子に抱いていたのだと告げた。
 瑠璃子はそれに応じた。長年交友の続いていた間柄であった事もあり、二人の仲は順調に進展して行った。互いに援助し合いながら、付き合い始めて二年経った頃、二人は婚姻届を出した。
 夕大の娘の紅羽は難しい年頃であったため、再婚に懐疑的であった。急に出来た一回り年下の弟の存在にも戸惑っていた。
 また、紅羽は瑠璃子と全く口を利かなかった。弟に対しての態度も同様で、いてもいなくても一緒だと言う姿勢を崩さなかった。
 自分は何も悪い事をしていないのに、なぜああして無条件で自分の事を嫌う人がいるのだろうと、幼心にも青羽は悲しくなった。
 紅羽に冷たくされ、泣き帰って来る息子に対し、瑠璃子はこう言った。
 ――確かに酷い事をされたのかもしれないけれど、それでもお姉ちゃんの事を恨んだりしちゃだめよ? お姉ちゃんもね、前に青羽のお父さんが死んでしまったみたいに、お母さんを亡くしてしまっているの。だから今は我慢して上げて。いつかきっと、青羽の事を受け入れてくれる時が来るから。
 母の膝に顔を埋めながら、そんな話を幾度も聞かされた。幼い青羽は、盲目的にそれを信じるしかなかった。
 それからしばらくして、瑠璃子は夕大の子を身籠った。けれども、喜んでいるのは両親だけだった。
 紅羽は何も変わっていなかった。高校を卒業したらすぐに職に就いて、家を出て行くとすら言っていた。最近は自分の本当の親である父に対してすら反抗的だった。
 一方、青羽の方はただ不安だった。その不安の具体的な正体については、当時まだ幼かった青羽にはわからなかった。それは漠然とした恐怖と言えるものだった。得体の知れない恐怖を、その時青羽は覚えていた。
 自分に冷たくする紅羽。そんな態度を取る原因は、母を失った事に起因すると聞かされていた。姉が、弟が生まれる事を素直に喜べないのはもしかして……――そして、瑠璃子もまた、かつての夕大の妻と同様、それほど体が丈夫な方ではなかった。
 子どもの感性と言うものは侮れないものだ。青羽の予感は的中した。
 守野家の次男坊となる黄羽(こうは)が生まれてからしばらくして、瑠璃子は他界した。産後の肥立ちが悪かったのだと聞いた。その言葉の意味は、それから数年経ってようやく理解出来た。
 母が目の前で息を引き取った時、青羽はかつてないほどの衝撃を受けた。自分を無条件で支えてくれる人が、その瞬間、一人もいなくなってしまったからだ。
 けれども、青羽以上に衝撃を受けた者がいた。それは瑠璃子のニ番目の夫であり、青羽の義理の父である夕大であった。続けて二回も伴侶を失った事で、彼の精神はおかしくなってしまった。
 反抗的だった紅羽に対し、感情のままに手を上げる様になってしまっていた。そして、その矛先は時に、血の繋がらない息子にまで及んだ。大抵の場合は紅羽にだけ手を上げていた。血の繋がりが無い事から、青羽に対しては多少の遠慮があったのかもしれない。あるいは、瑠璃子の面影を持つ青羽の顔が見たくないだけだったのかもしれない。
 けれども、それはいつしか逆転した。女性である紅羽の方が、一人目の妻の面影を色濃く残していたからだ。最終的に行き着いた所はそこだった。男である青羽の方が、血の繋がらない息子の方が、手を上げ易くなってしまった。
 そして、ついにそれは起こってしまった。紅羽が亡き瑠璃子の代わりに病院から黄羽を連れて帰って来た日の事だった。
 青羽はそれを目の当たりにした。居間の向こう側の床に投げ出されて、泣き叫んでいるまだ赤ん坊の弟の姿が先ず目に付いた。
 次いで、制服のブレザーとシャツのボタンが弾け飛んで、鼻と口端から血を流し、壁を背にしてうずくまっている紅羽の姿が見えた。
 紅羽はそれでもまだ動こうとしていた。泣いている黄羽の方へと這い寄って、その体を抱き締めた。
 それを見て、夕大がすぐに紅羽の髪を掴み上げた。乱暴に黄羽を奪い取ると、そのまま床に叩き付けようとした。
 そうはさせまいと、紅羽がすぐに掴みかかる。
 ――そこは地獄だった。
 紅羽が悲鳴を上げて、泣き叫ぶのが聞こえた――一つ目の何かが弾けた。姉を守らなければならないと決意した。
 黄羽の泣き叫ぶ声が聞こえた――二つ目の何かが弾けた。弟を守らなければならないと決意した。
 もう、なにもかもが、限界だった。連日殴られ、蹴られ、罵声を浴びせられ……姉が同じ事をされるのを見るのも、弟がこれからそれをされるのも、耐えられなかった。最早限界だった。
 やらねば自分達がやられる――本能的にそれを悟った。その時の思考は極めて淡々としたもので、無慈悲なものだった。どこまでも機械的なものだった。
 洗面所へと駆けて行き、流しの下にある戸を開いて、ストックから“それ”を抜き取った。
 母が死んで以来、“それ”を振るうのは紅羽の役目となっていた。慣れない手付きで、時に切り傷を負いながらも、血の繋がらない弟と、毎晩の様に暴力を振るう父のために、毎日料理をしてくれていた。
 今、それを握り締めているのは自分だった。
 居間へと戻ると、その行為はまだ続いていた。決意は揺らがなかった。
 黄羽を抱き締めて、まるで土下座する様にして床にうつ伏せている姉の姿が父の背中越しに見えた。こちらに近づいては駄目だと、姉がこちらに頭を振っていた。
 必死に弟を守ろうとする姉に対し、父は一切容赦しない。力の限り、感情のままに、蹴りを入れ、物を投げ付けていた。
 ドスッ、バキッ、ドスッ、バキッ――と、幾度も、幾度も……姉の体が鈍い音を立てる。その度に、姉はくぐもった悲鳴を上げる。
 ――もうやめて、やめてよ……もうやめてぇええええ!!!!!――
 姉が泣き叫びながら父を見上げた瞬間――“自分”は駆け出していた。両手で“包丁”を握り締め、無言で、淡々と、全力で、父の背中に、それを突き立てていた。
 ――ドスッ!
 バシャッと、顔に、生暖かい液体がかかった。その液体は、錆びた鉄の匂いがした。
 次の瞬間――父の口から絶叫がほとばしった。その光景、その悲鳴を、今でもよく覚えている……
 黄羽を胸に抱き締めて、信じられないものを見る様な目付きで、こちらを見詰める姉。
 自分はその時、どんな顔をしていたのだろうか。心ここにあらずと言った感じであったのは、あくまで感覚的に覚えている。
 その日――少年。守野青羽は、わずか八歳で人を刺してしまった。幸せの青い鳥になるようにと望まれた少年は、その“手”で――その“羽”で、人を傷付けてしまった。
 その羽は傷だらけで、もう飛べなくなってしまっていた。そして、その飛べない羽は、最後は青い鳥自らの意思で血に染めてしまった。
 それからだった。少年の心に、病的なほどの強迫観念が生まれたのは。母から“幸せの青い鳥となれるように”と願って付けられた青羽と言う名の少年は、それから人に対して手を上げる事を極度に忌避する様になってしまった。そして、御節介過ぎるほどに、困っている者を放っておく事が出来なくなってしまった。それはどんなに些細な事であっても同様だった。
 公立高校の受験日。青羽は試験会場である学校に行かなかった。
 彼が公立高校の試験を棒に振ったのも、そこに起因する。青羽はその日も人助けをしていたのだった。

 ――少しでも取り戻すために。

 ――少しでも幸せの青い鳥に近付き直すために。

 ――少しでも血に染まった羽を青く染め直すために。

 そうして、彼はあの私立の高校へと通う事になった。



 あの日の夜、鳥子が屋上で泣き付いて来た時と立場が逆転していた。今、膝に顔を埋めて泣いているのは自分の方だった。
「――父を刺した後は大変だった……お姉ちゃんが『私が刺した』って言い張って……でも、結局は僕がやったんだって調べはついて……弁護士や、医者や、カウンセリングの人が家にやって来て、学校の先生とその手の施設の人も家にやって来て……弁護士とカウンセラーの人を介して、父と姉の話し合いは進められて、お姉ちゃんはお父さんを訴える積もりはないと言って、しばらく入院して正気に戻った父も僕のした事を責めなくて、あくまで家族間の問題だからって……その御陰で、父は刑務所に入れられる事もなくて、僕も施設に入れられる事もなくて……」
 一度溢れ出したものは、もう止め様が無かった。
「今なら、今の僕になら、それがわかるよ……だって、お父さんは、二回も大切な人を失ってしまったんだよ? 人の死ってのは、大切な人の死ってのは、大の大人であってすら持て余す事なんだよ……? 頭や心がおかしくなって、あんな事してしまうのも仕方ない事なんだっ……! お母さんが死んで、一番傷付いていたのはお父さんだったんだっ……! だから、あれは仕方なかったんだ……! なのに僕は、僕はっ……! あの家をぐちゃぐちゃにしてしまった……! 姉と弟から父すらも奪ってしまった……!」
 大切な人を二人も亡くした鳥子ならば、この気持ちをきっと理解してくれると思っていた。父親を刺した経験があるなんて話せば、大抵の人はそれだけで引いてしまう。以後、自分には近付こうとしないはずだ。
 それでも、止められなかった。この人にならそれを求めても良いと思ってしまった。助けてもらいたかったのは実は自分の方だったのだと、それに気付いてしまった。
「それからだった……溝が埋まるまで、生活費だけ子どもに送って、お父さんだけ離れて暮らす様になったのは……お姉ちゃんは幼い弟二人のために、高校を卒業してからはしばらく家事に専念してくれて……黄羽が送り迎えの必要が無い年頃になってからも、出来るだけ家に近い職場を探して、でもなかなか上手く行かなくて、何度も職場を転々とする羽目になって、それでも真面目に頑張ってくれて……今はちゃんとした会社に就職出来て……そのお金も、全部僕達のために使ってくれて……万が一、父がいなくなってしまっても大丈夫な様にって、ずっと自分を犠牲にしてくれてて……」
 そこまで語って、ようやくそこに行き着いた。
「あんな事しなければ良かった……あれ以来、家はまるで呪われてしまったかの様に暗くなってしまった。親子が離れて暮らす、異常な家庭環境を生んでしまった……それもこれも、全部僕のせいなんだっ!」
 鳥子は頭を振って、こちらの頭を全身で抱き締めてくれた。ずっとそのままでいてくれた。逃げる事も無く、怯む事も無く、日が暮れても、ずっとそのままでいてくれた。
 人を刺し殺しかけた事があると告白してもなお、彼女は自分のそばにいてくれた。
 ようやく出会えた。そんな人と、今ようやく出会えた。自分は孤独から、この抱え切れないほどの苦しみから、今ようやく解放されたのだった――

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