小説『斑鳩』
作者:雪路 歩()

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  最終章  虹色のヴィジョン

 あれから……あの夏の最後の日から、彼らから連絡が来る事は一度も無かった。そして、鳥子が再び自分の前に現れる事も無かった。
 自分から連絡する様な事も無かった。左腕の呪いは、あの夏の日以来、疼く事は無かったからだ。結局、全斎に連絡を入れる事は今まで一度も無かった。
 それとは別に、鳥子の居る場所へ自ら赴く事も考えたのだが、学生の義務と家の手伝いに忙殺され、実行に移せる事は無かった。自分は相変わらず、実力不足の、実行力不足の、理想論者のままだった。
 自分は連絡が来ない事も、しない事も、内心で寂しいと思っていた。所詮はそれだけの関係だったのであろうかと、不安に思う事もあった。
 このまま時が流れてしまえば、そして、距離が離れたままでは、いつか、寂しいとすら思えなくなってしまうのではないかと、夏休みの最後の日から、ずっと思っていた。
 それでも、何かに打ち込む事で、鳥子を忘れまいと決意した。鳥子の事を忘れてしまえば、あるいは鳥子の事をもうどうでも良いと思えてしまうまで時が流れれば……いつかは思いの強さで負けてしまう時が来るはずだった。そうなれば、左腕の呪いは鳥子へと帰ってしまう。
 ――何か拠り所が必要だった。
 鳥子の事を、心の中に、いつまでも繋ぎ止めておく必要があった。どの感情を用いて、何に取り組めば良いのか、わからなかった。
 最初の内は、鳥子と始めて出会った学校の裏庭へと足を運んでいた。その場所を見る事で、鳥子の記憶を薄れさせまいと努めた。
 夏休み明け、無断外泊した事と、夏期講習を一度も受けなかった事を、教師達からは厳しく注意された。自分は教師達からの信頼を、あの一件で完全に失ってしまっていた。
 今でも鳥子に付いて行った事を後悔はしていないし、信用を失ったからと言って、これからの学生生活を適当に過ごすつもりは無かった。今まで通り、遅刻もせず、居眠りもせず、試験だって良い点が取れる様に、真面目に勉強するつもりだった。
 けれども、それだけではだめだった。他人との交流を疎かにしていては、人は他の事も疎かにしてしまうものだからだ。他人を省みない者は、愛する者を省みる事が出来ない。愛する者だけを省みても、それはつぎはぎの張りぼてに過ぎない。そんなものはすぐに剥がれ落ちてしまうはずだった。
 鳥子以外の人間とも交流を持たねば、最終的には鳥子すらも守る事が出来ないのだと気付いた。人の輪の中に在って初めて鳥子を守る事が出来るのだと気付いた。
 他者の姿を通して鳥子を見る事で、思い返す事で、彼女への思いを抱き続けようと決意した。そして、どの感情を用いて、何に取り組めば良いのか、ある日、ようやくそれに気付けた。
 その時も自分を奮い立たせてくれたのはあの感情だった。あの強迫観念だった。死んだ母が自分に託してくれた、あの言葉だった。

 ――人にとっての幸せの青い鳥になれますように。

 いつか鳥子を助けるために、その予行演習として、青い鳥として、少しでも多くの人の事を助けて行けば良いのだと気付いた。
 ただ無気力に、時間に流されるままに生きるのではなく、何かに精力的に取り組む事で、鳥子への思いを抱き続ければ良いのだと気付いた。
 足の骨を折って登校している生徒が居る事に気付けたお陰で、そして、その姿が鳥子と重なって見えたお陰で、その日から、自分の中に一本の芯が通ったのだった。その感触を……今でも、覚えている。
 足の折れたクラスメイトの介添えと、校内設備の見直しをしている内に、時は目まぐるしく過ぎて行った。
 それでもそこに通う事は忘れなかった。鳥子と出会えた、あの朽ちた庭園に通い続けた。そうして、頑なに、鳥子への思いを抱き続けた。
 一つ……一つ……少しずつ……一日毎に。新たな可能性をそこに蒔きながら、鳥子への思いを抱き続けた。冬休みに入るその日まで、そうし続けた――
 冬休みも終わり、そのまま流れる様にして短い三学期も終わりを迎えると、春休みが始まった。春休みは毎日学校へと通った。鳥子と出会ったあの場所に通い続けた。
 そうしている内に新学期が始まった。
 去年の夏休み明けに、教師達から厳重注意をされた事以外は問題無かった。いつの間にか教師達の信頼は戻っていた。クラスメイト達からもよく声をかけられる様になっていた。自分は無事、二年生に進級を果たせていた。
 始業式の日、正面玄関のガラスに張り出されているクラス分けの紙を見て、自分の配属先を確認した。一年二組から変わって、二年一組に編入となっていた。今年の出席番号は後ろから数えて二番目だった。
 理系を選択していたので、一組に配属されるのは必然だった。それ以外にも、大学に進学を希望する生徒も配属されていた。その中には、去年親しくなった級友達の名前も数多くあった。でも、それに特に一喜一憂する事は無かった。進路希望調査の時に、既に大方の予想は付いていたからだ。
 自分の配属先をもう一度だけ確認して、校内へと歩みを進めた。ロッカーの場所は三年間共通だった。下足入れから上靴を取り出して履いた後は、使い慣れたその場所へ革靴を納めた。
 やはりと言うべきか。手紙が入っている様な事は無かった。パタンと蓋を閉めて、廊下へと進む。最寄の階段を上り始める。四階ではなく、三階まで上がり、二年一組の教室へと入る。
 すると、三森水穂はまたもや近くの席だった。苗字の読みが近いためか、彼女とは必然的に出席番号が近くなるのだった。始業時期は出席番号順に席は割り振られるものなのだから仕方が無かった。
 これも腐れ縁と言うやつなのかもしれない。三森水穂とはまだ一年しか付き合いがないとは言え、少なくともその言葉が一番しっくり来る様な気がした。
「――やっほぉ〜〜! 今年もよろしくねぇ〜!」
 三森水穂は、まるで幼い子供がそうするかの様に、元気一杯に手を振っていた。
 こちらも思わず笑顔になって、手を振り返してしまう。あくまで遠慮がちに、小さく手を振り返した。
「三森さん。今年は理系同士、頑張って行こうね?」
 今年の理系は六人とかなり少ない。三森水穂もその一人だった。意外にも、彼女は理系を選んでいた。
 三森水穂曰く『家業の道場の役に立つ様に、保健体育以外にも、剣道にも応用が利く力学的な仕組や、人体の構造等について学びたいの! 知識としてしか活かせない文系の教科よりも、実戦に活かせる知識が欲しいの!』だそうだ。その考えはわからなくもない。
 そうなると、必然的に理系になる。三森水穂は理系にするか、文系にするかでかなり悩んだ。周囲からも、馬鹿な事は止めておけ、無謀な事は止めておけと、散々言われた末に、最後は理系を選択したのだった。
 彼女の悩みはそれだけでは終わらなかった。その次は、選択教科を物理にするか、生物にするかでも悩んだのだった。最終的には生物を選んでいた。
 今年は三森水穂にとって辛い一年となるはずだった。本当に大丈夫なのだろうか……何だか三森さんが可哀想に思えて来た。
 しかし、三森水穂曰く『いざとなったら青羽君に教えてもらえるから大丈夫!』だそうだ。何て他力本願なのだろう。この子の将来が心配だった。自分が居なければ、はたしてこの子はどうなるのであろうか。とにかく心配だった。
 今年の自分の席は、またもや窓際だった。そして、後ろから二番目の席と、中々の好条件だった。別に居眠りするつもりは無いのだけれど、席が後ろだと、それだけで、なんとなく嬉しいものだ。
 そして、三森水穂の席はその席から右斜め後ろだった。彼女は一番後ろの席だった。こちらもなかなかの好条件だった。ちなみに彼女は『これで居眠りできるじゃん!』と喜んでいた。
 実際は後ろの席ほどかえって教師の目が届き易いので、居眠りには向かないのだが、あえてそこは言わないでおく。人の幸せに水を差してはいけないのだから。
 今年の守野青羽の出席番号は、後ろから数えて二番目。これだけ後ろになるのは珍しい事だった。そして、このクラスの出席番号最後となる、自分の後ろの席の生徒はまだ来ていなかった。それが誰なのか、クラス分け名簿を見た際に確認していなかった。男か女かすらも確認していなかった。
「やったね! また窓際だ。三森さん、羨ましいでしょう?」
 ふふんと笑って、どかりと席に着いた。小柄だから、そこまで大げさな音はしなかったが、そこは気分の問題だった。
「ムッカ!……おい! 席変われよ! 毎年窓際だなんてずるいぞ! この窓際族め!」
「あははははははははっ! それ意味違うからっ!」
 爆笑してしまった。三森水穂がいる教室ならば、今年も退屈しないで済みそうだった。
 結局、自分の後ろの席の生徒は、ホームルームが始まっても来る事は無かった。
 担任曰く『明日転校して来る生徒が居るから』との事だった。

 始業式が行われる体育館へと、クラス単位で並んで向かう。体育館に入るなり、すぐにそれが映った。今年の新入生達の姿が在った。まだ下ろし立ての、新品の制服が煌いて見えた。
 クラスの男子達は、可愛い女子生徒が居ないものかと、しきりに囁き合っている。
「――あの無表情なボブカットの子、可愛くね!?」
 一年生の女子の方を指差している、自分の前の方に並んでいる男子が居た。まだ名前を覚えていない生徒だった。
「――私のこと? まいったなぁ〜……」
 恐れ気も無く、その男子の会話に割って入る三森水穂。
「――ちげぇよバカ!」
「――バカって言うほうがバカなんだぞ! 私は選ばれた人間なんだぞ! 理系なんだぞ! 敬えよ!」
「――絶対お前単位落とすからな! そん時は笑ってやる!」
「――このヤロォ〜〜……え? なぜ私がバカだと知っている!? まさかっ……ストーカー!?」
「――違うわ! そんぐらい見ただけでわかるわ!」
 今年は思ったよりも背の順は前の方ではなかった。入試対策用に、運動部でない生徒が多く集まってしまったからかもしれない。もちろん、運動部の生徒が皆無なわけではなかったし、運動部でないからと言って、全ての生徒の背が低いわけでもなかった。
 そうしている内に、校長先生の話が始まり、それもやがては終わりを迎えた。
 全校集会が終わった後は、各自掃除担当箇所へと直行する段取りだった。
 自分の掃除担当箇所である、玄関の下足置き場へと向かおうとした所で、一人の女子生徒が目の前に立ち塞がった。その新入生は、はっきりと自分の方を見て立っていた。
「――え? 何で……ここに……」
 そこには、あの巫女の少女が立っていた。無論、今は巫女の格好はしていない。この学校の制服姿であった。黒いリボンタイが結ばれた白いセーラー服に、白いプリーツスカート姿だった。
 彼女はこちらに頭を下げてから口を開いた。
「――御久し振りです。青羽さ…………失礼しました。守野先輩。これからよろしく御願いします」
 途中で一度言い直してから、色は再びこちらに頭を下げた。
「えっ!? 何で? 何で色がここにいるの? えっ? えっ? もしかしてここに入学したの? え? 何で? どうして?」
 思いがけない新入生に度肝を抜かれた。
「ここなら何かと都合が良かったのです……この学校のレベルであれば“色々”と両立がし易かったのです。だから選びました」
 色は去年と変わらず、あくまで淡々とした口調で説明した。いつもの色だった。
「色って……勉強はあまり得意じゃないの?」
 そこの所は去年、彼女の夏の宿題を見て上げた時に察してはいたが、改めて確認した。
「はい。通学や家事で時間を取られる為、通知表の評価は大体3でした。ですが家庭科と体育だけは5をキープしていました。それ以外は良くても4止まりでした」
 改めて色の佇まいを見た。色が纏えば、白いセーラー服も、白いプリーツスカートも、どこか落ち着いた雰囲気を醸し出す。胸元の黒いリボンタイが一際映えて見えた。紅白の装いでなくともよく似合っていた。
 その姿を、目を細め、しばしの間見詰めた……色の姿を通して、あの少女の姿を垣間見た。
「――……その制服、良く似合ってるよ……入学おめでとう……色」
「恐縮です。どうか、これからも“色々”とよろしく御願いします。それでは――」
「うん……またね!」
 色は最後にもう一度だけ頭を下げると、一足先に、混雑している体育館から出て行った。相変わらず、足音を立てない、静かで素早い足取りだった。そんな色の後姿を見送った。
 それはそうと……やけに“色々”を強調していたが、一体どういう意味だったのだろうか――



 ――無人の校内を、まだ慣れない松葉杖を突きながら、一人、進んでいた。明日から通う事になる校舎内を見て回っていた。
 一年前に見た時と、ここはほとんど何も変わっていなかった。それでも、所々変わっている箇所が見受けられた。体の不自由な者に対しての配慮が、細々とした所まで行き届いていた。
 全校集会がある内に、わたしは内緒で校内へと侵入していた。もちろん、ちゃんとここの制服を着ている。万が一見付かってしまっても大丈夫なはずだった。言い訳もちゃんと考えている。
 のんびりと、ゆったりと、コツーン、コツーンと杖を突く音を響かせながら、校内をまったりと探索した。
 そうしながら、ふと、数日前の事を思い出す。この学校の応接間で、面接官と話をした時の事を思い返していた――

『――どうしてこの学校を選んだのですか? 君ならもっと……その……うちの学校よりも、もっと上のレベルの学校に編入する事も出来たはずです。うちはお世辞にも学力のレベルが高くないですからね……』
 面接官を勤める教師は苦笑しながらそう言った。前の学校でのわたしの成績表と、前の学校の校長に用意してもらった推薦状とを見て、やはり疑問に思ったのであろう。
『――ここは男女共学だから、前の学校とは大分勝手が違うと思います。そういう意味でも大丈夫かな?』
 飾らない、ありのままを伝えてくれる事に益々好感を抱いた。更に、この学校の事が好きになれた。
 わたしは頭を振って、答えた。
『――はい。大丈夫です。それに……ここが良いんです。見ての通り、わたしは足が不自由なので、通うのであれば、この学校の様に設備が行き届いた環境が望ましいんです。去年ニュースでこちらの学校が“バリアフリー化”をした際に報道されて、それを見て確信したんです。ここならきっと大丈夫だって……それに、わたしは病弱でもあるので、きっと欠席する事も多いはずです。それならば、今度はあまりレベルの高くない学校で、伸び伸びと勉強したいと思ったんです』
 教師は苦笑を取り払い、いつしか真面目な顔をしてこちらの話に聞き入ってくれていた。そして、最後には満面の笑顔を浮かべてくれた。
『――そうですか……それでこちらを選んでくれたんですね。ありがとうございます。凄く嬉しいです。実はあれは我が校の生徒が提案してくれた事が切っかけなんです。ここだけの話ですが、実はその生徒は去年私のクラスの子だったんですよ。今年もその生徒のクラスを担当する事になりました。実の所、この面接を担当する事になった理由もそれ絡みでして……校内のバリアフリー化以来、この手の話は全て私に回される様になってしまったんです。いやぁ、ほんと、困ったもんです……まだまだ若輩者なのに、責任重大ですからね」
 言葉でこそそうは言うものの、その青年教師は満更でもない顔をしていた。
『――あの……御願いがあります。実は――』
 何度も相槌を打ちながら、その教師はわたしの話を熱心に聞いてくれた。そして――
『――成程……わかりました。その件については私からも他の職員達に御願いしておきます。大丈夫です。私に任せて下さい! 推薦状もあるので、後は簡単な筆記試験を受けて頂ければ結構です。大丈夫です。絶対受かります。ここだけの話……0点さえ取らなければ受かりますから!』
 それを聞いて、思わず吹き出してしまった。
『――ふっ……ふふふ、はいっ!……わかりました。すいません、どうか、よろしく御願いします。それでは、今日はありがとうございました――』

 ――そんな話をしたのだった。
 通うのは明日からだと言うのに、まだ部屋の整理も済んでいないのに、朝一で届いた新品の制服を見て、居ても立っても居られなくなってしまった。すぐ様その制服を着込むなり、アパートを飛び出してしまった。
 そうして、今に到るのである。
 わたしが校内散策で最後に訪れたのは、あの裏庭だった。そこは全てが枯れ果てて、死に絶えた庭園だった――はずなの……だが……
 そこへ辿り着くなり、わたしは目を見開いた。何も生えていない、殺風景な、モノトーンの庭園を想像していたのに、角を曲がった瞬間に見えたその光景は、まるで違っていた。
 そこには、無数の花々が咲き誇っていた。
「――………………」
 わたしは、長い、長い……感嘆の吐息を漏らしたのだった。
 あの人は……わたしの事を覚えていてくれたのだった――この庭がその証明だった。
 一本だけ、まだ若い、何も花を咲かせていない木が新たに植えられていた。それはあの日、わたしが背にして枯らしてしまった木のある場所に植えられていた。
 それが一体何の木なのか、その手の知識に疎いわたしにはわからなかった。
 わたしはそれらを見た事で、これから別に、どうしても行きたい場所が出来てしまった。もう、明日まで待つ事なんて出来なかった。
 来た道を戻って、杖を突きながら、内心はしゃぎながら、早歩きで、わたしはその場所を目指した。
 もうじき全校集会が終わってしまう。だから急がねばならなかった――



 正面玄関の掃除を終えると、外にある焼却炉へ誰かがゴミ捨てに行かなければならなくなった。
 どうせ交代制であるのならば早目に終わらせておくに越した事は無かった。自分が行くと宣言すると、皆は礼を言って教室へと帰って行った。
 靴入れのロッカーの前までやって来ると、朝には無かったはずのそれを見付けた。靴入れの蓋の隙間に、一枚の紙が挟まっているのが見えた。
 自分はそれを見るなり、半ば放心しながら、半ば動揺しながら、その紙を素早く抜き取った。そして――すぐにその内容を確認した。

 ――放課後に屋上で待っています。大切な御話があります。必ず来て下さい。去年の夏、貴方に助けられた者より。――

 そこまで読んだ瞬間――自分は駆け出していた。
 ゴミ捨て当番なんて引き受けるんじゃなかった。いや、でも、引き受けなければこうして気付けなかったはずだ。だから引き受けて良かったのかもしれない。
 頭が沸騰していた。混乱していた。何を話せば良いのか、真っ白になった頭では思いつかなかった。
 こんな時であるにも関わらず、ゴミ袋を持ったまま、自分は廊下を駆けていた。もちろん、後でちゃんと捨てに行くつもりだった。
 階段を駆け上がって行く。三年生の居る二階、自分達の学年である三階、新一年生の居る四階をあっと言う間に駆け抜けて行く。その間、周囲の生徒達が、怪訝気に自分の姿を見ていた。そんな事、全く気にならなかった。脇目も振らず、屋上を目指し、駆け上がって行く。
 屋上へと到る扉のノブは、やはりと言うべきか、取り外されていた。隅の方に転がっていた。
 ゴミ袋を放り出して――開かれた扉の向こう側へと飛び出した!
 上がった息を整える間もなく、中央へと躍り出る。そのまますぐに周囲を見渡した。誰も居ない……――誰の姿も見えなかった。やはり、放課後に来るべきだったのであろうか……いや、そうじゃない。
 確信を込めて、背後へと振り返り、そして――見上げた。
「――鳥子さんっ!」
 そこには、給水タンクに右手を付いて、左脇に松葉杖を差して立っている、白衣の少女が居た。烏の濡れ羽色の長髪と、白いセーラー服の上下が、対比的に、艶やかに、鮮やかに、見事なまでに映えていた……
 胸元の黒いリボンタイが、風をはらみ、鴉の濡れ羽色の髪と共に、まるで梳られる様にして、風の中をたゆたっていた。
 彼女はこちらに向かって、両腕を広げ、片足で立って見せた。そうした事で、杖を下に落としてしまう。カラーン――と、木製の杖が、一際甲高い音を立てて屋上に転がった。
 すると、今度はそのまま彼女は前のめりになって、こちら目掛け、倒れて来る――
「――青羽! わたしを受け止めて!」
 慌てて抱き止めた。その勢いのまま、鳥子を両腕で支えたまま、二人して、くるくると回った……落下の勢いが消えるまで、しばし、そうして回り続けた。
 その間、鳥子は笑い声を上げていた。
「――止めてってばっ! くすぐったいってば! もぉう……!」
 小さな子どもに高い高いをする要領で、鳥子を何度も持ち上げた。非力なはずなのに、この時ばかりは、不思議と力が湧いて来るのだった。

 ――今、自分の腕の中に、その人が居た。

 ――今、再び、その人は自分の前に現れてくれた。

 自惚れても良いのであろうか、それを確信しても良いのであろうか。
 思えば、色と会った時に察するべきだった。
 鳥子は今、目の前に居た。自分の手が届く場所に在った。
「――鳥子さん!」
「――なぁに?」
 鳥子は小首を傾げて、微笑みかけてくれる。
「――鳥子さん!!」
「――なぁに!」
 仕方が無いわねと言わんばかりに言い返す。
「――鳥子さん!!!」
「――だからなぁにっ!」
 それでも笑顔のまま、心底嬉しそうに返事をしてくれる。
「――鳥子さん!!!!」
「――もう! だからなぁに?」
 二人して、笑い出した。
「――鳥子さん!!!!!」
 何度も呼びかける。そうせずには居られなかった。もう、どうしようもない位、幸せだった。
 鳥子は空へと抱え上げられたまま、慈愛に満ちた眼差しで自分を見詰めていた。
「――……わたしね、この一年、頑張ったのよ。また色んな呪いをこの体に移したの。そうしたら、こんな足になっちゃった……」
 鳥子はふらふらと、力無く揺れる左足を見下ろしながらそう言った。切なげ表情のまま、説明を続ける。
「――わたしね……留年しちゃったの。夏休みの間に補講を受ける事も出来なかったから、もう、どうしようも無かったの。また前の高校に通うべきか悩んだわ……でもね、そうしているとね、ある日それが目に付いたの。鬱屈としながら、何気なくテレビを見ていたら、この学校の事が報道されていたの。それは数ヶ月前に、裏庭で毒ガスが発生したと言う疑惑の上がった学校だった。でもね、今度は良い意味で報道されていたの。だから驚いたわ」
 この学校が校内のバリアフリー化のために大改修をした後、それを聞き付けた地元のテレビ局と新聞社が大々的に取り上げてくれた事があった。そのお陰で、この高校の知名度とイメージのアップに繋がったと、三学期の始業式の際に表彰されたのとは別に、改めて学校側から感謝された事があった。
 もしかすれば、自分は今まで、この時のために頑張っていたのかもしれない。この時のために、去年、この学校内を奔走していたのかもしれない。
「――貴方がいつまでも帰してくれないから帰って来ちゃった……」
 鳥子をやんわりと下ろす。片足で立たねばならない所を、そっと、腕を差し伸べて支えた。
「――お帰りなさい……絶対に帰さないからね?」
 口元はほころばせながら、言った。
 澄ました顔をして、少しだけふんぞり返って、こちらを睨みながら、鳥子は口を開く。
「――そう……なら貴方がそれを帰してくれるまで、ずっと付き纏ってやるんだから」
 鳥子はそう言って、不敵に笑った後、再び満面の笑みを浮かべるのだった。
「――帰すもんか……だって、帰さなければずっと一緒に居られるんでしょ?」
 左腕の傷はまだそこに……確かにあった。
「――じゃあ……貴方がそれを帰してくれるまで、貴方がわたしを嫌いになってくれるまで、傍にくっついて離れないんだから! 貴方が卒業するまで、ずっと……傍にいるんだから!」
「――一緒にいてもいいんだ!? これからずっと一緒に居られるんだ!?」
 これ以上嬉しい事なんて、今まで一度も無かった。まるで人生全ての幸せが一度に押し寄せた様だった。
「――ちょっと! くすぐったいってばっ! あははははっ! 止めてよもぉう!」
 鳥子を再び持ち上げて、くるくると回る。一頻り回ってから、また彼女を下ろした。
 あれから、身長はそれほど伸びていなかった――
「――僕……鳥子さんより背が低いけど、それでも良いの?」
「――わたしね、わたしより背の低い人が好きなの!」
 それじゃあ次は――
「――僕……お金持ちじゃないけど、それでも良いの?」
「――それが何なの?」
 そうだ。そんな事は関係無いはずだ――
「――僕……年下だけど、それでも良いの?」
「――わたしね、わたしより年下の人が好きなの!」
 それならば自分達はお似合いだった。最高の相性だった。
 なら、最後は一番大切な事を確認しよう――
「――鳥子さんは……僕の事嫌いじゃないの?」
「――何の事かしら?」
 あっけらかんと、言ってくれる。
 弾む呼吸を抑えながら、こちらを真っ直ぐに見詰める鳥子に対し――言った。

「――灰羽鳥子さん……あなたの事がずっと好きでした。僕と付き合って下さい!」

 鳥子は満面の笑みを浮かべ――頷いた。

「――はいっ!」


    斑鳩 =第一翔=
                 了

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