オーディンの前から転移して逃げた朧は、『禍の団』が現在攻め込んでいる、ヴァルハラから少し離れた場所にいた。
「初心に戻れ、か……」
朧はさっきオーディンに言われた事を思い返していた。
(初心。つまりは神器が発現した時の気持ちか?)
手に黒手袋を出現させ、その手の上で黒の粒子を変幻自在に動かす。
「それだったら、忘れたつもりはないんだけど」
手を握り締め、さっきまで操っていた黒の粒子を握り潰す。
(何故なら、俺はあの時を除けば、今も昔も――)
近くを旧魔王派の悪魔が通りかかり――
「復讐にしか、生きてない」
朧の手刀によって、腹部で真っ二つになり、更に体は燃えて灰になった。
「分からない。俺は一体どうすればいいのか。どうなればいいのか……」
朧の声は誰にも届かず、風に紛れて消えてゆく……。
「朧、無事?」
いつの間にか朧の近くに来ていたオーフィスが、朧へと声をかけた。
「平気だよ、オーフィス。俺がこんな些事で怪我をするわけないさ」
「そう、良かった」
オーフィスはそう言って、朧の背中にしがみつく。
「オーフィス、他がどうなってるのか分かるか?」
「我、他の事に興味無い」
「だよな」
端から期待していなかったが、それでは困ると、朧は近くに誰かいないかと辺りを見回した。
「お、いたいた。ゲオルグ!」
近くにいたローブ姿の男が声に気づき、朧に振り向いた。
「何か用か?」
「現状がどうなってるか分かるか?」
「こちらも善戦しているが、やはり神は強いようだ。全体的に押され気味だ」
「こっちで神に対抗できそうなのは、神殺しの槍を持つ曹操と、『覇龍』状態のヴァーリぐらいだからなぁ……。ここらが引き時かね」
「同感だ。こちらの構成員はまだ未熟な者が多いが、こんな所で失わせる訳にはいかない」
「逃げるか」
「そうしよう」
朧とゲオルグは頷き合うと、予め決めてあった通りに、魔術の花火を打ち上げる。
「これに気づかなかった者はどうする?」
「知らん。周りに誰もいなくなっているのに気づかないほど戦いに熱中しているなら、放っておいても死にはしないだろう」
(本音は、死のうが死ぬまいがどうでもいいだけなのだが)
しかし、ふと気づきそうにない奴が数人いることに気がついた。
(あいつらは殺しても死ななそうだけどなぁ……)
朧はその場に留まり、悪魔や天使、人間たちが転移などで退避するのを見ていたが、朧が探している人物は現れなかった。
「やっぱりあいつらは未だに中で遊んでるのか……」
朧はため息を一つ吐くと、目的の奴らのいる場所へと転移した。背中にオーフィスがしがみついたまま。
朧が転移した場所では、禁手状態のヴァーリと美猴、黒歌がトールと戦っていた。無論三人はボロボロで、トールの方はほとんど傷を負っていなかった。
「やれやれ、世話のかかる。余計なお世話がな」
朧は状況を把握すると、まず近くにいた黒歌の襟首をひっつかみ、少し遠くにいる美猴を引き寄せ、左手で掴んだ二人ごと、振り下ろされたミョルニルが当たりそうなヴァーリの前に現れ、右手で背中の翼を掴んで後ろに引っ張る。
「初めまして、こんにちは、そしてさようなら」
自分の目の前に迫った、確実に自分を粉砕できるミョルニルを前にして、朧はその三言だけ言って、世界中十指に入る強さを持つトールから、あっさり転移で逃げ出したのだった。
「礼は言わないぞ」
「え? 何か言われるような事したっけ?」
ヴァーリのその声に、朧は普通にそう答える。心底何のことだか分からないと言った風に。
「礼を言われるほどのことでは無いという事か?」
「だから何のことだ? 俺はただ戻って来ないお前らを連れ戻しただけであって、それ以外の何かをした積もりもないのだけど?」
これは朧の本音である。さっきの朧の目的は三人の回収であり、それが出来たのなら、経過がどうであろうと気にしない。先ほどのことで言うなら、ヴァーリたちが戦っていたのがトールであろうがフェンリルであろうがアリ一匹であろうと、朧にとってはどうでも良かったのだ。
「礼を言われるような事をしたつもりはないし、それを恩に着せる気もないけど、これに懲りたら少しは人の言う事に従ってくれ。いちいち探すのも、迎えに行くのも面倒だ」
そう言って朧はどこかに向かって歩き出す。背中にオーフィスをしがみつかせたまま。