第三十一話「大工『樹ノ下 毅』」
俺は夢を見た。そう、幼き夢…それはまだ、俺の家族が全員家にいた時の時代…。
相変わらず賑やかな俺の一家は、今日も朝食をすませていた。そんな賑やかな食卓も幕を閉じる…
そう、姉である唯姉ちゃんの一言によって…。
母さんは、俺達よりも早めに朝食を終わらせ、溜まった皿を洗っている手を止めた。
そして、母さんが椅子を引き腰かけ、父さんが新聞を閉じたところで姉ちゃんは話し始めた。
一週間ほど前に家に来た男の顔を思い出し母さんが訊く。
姉ちゃんのその言葉など、当時小学六年生だった俺と、小学二年生だった弟にとっては突飛押しもない
一言だった。何かの冗談かと思った。姉ちゃんが家からいなくなる。そんなこと当時の俺は
想像もしていなかったのだ。だが、今思えばそれも仕方のない事だった。人はやがて、親元を離れ
赤の他人とくっついて新たな家庭を築く。しかし、両親は彼女のその言葉にこう言った。
今の姉ちゃんとは違い、この頃の姉ちゃんは心に思っていることを素直に表情に出す女の子だった。
いつからあんなにもひねくれてしまったのだろうと俺は思う。
父さんは少し険しい顔で訊いた。すると、姉ちゃんは少しうつむきながらもこう言った。
ダン!!
俺が少し余所見をしていた時のことだった。急に食卓が揺れ、大きな音が鳴ったため、俺はビクッと
してしまった。その瞬間、父さんが大声を上げた。
二人が言い争っていると、父さんと姉ちゃんの言い争いを、少し怖そうに見つめていた弟に気付いた
母さんが、弟と俺を部屋に戻っているように言った。俺と弟の亮祐は手を繋いで、その場から
退散した。
二階に上がっている最中のことだった。亮祐は俺の服の袖をグイグイッと引っ張って言った。
弟は半べそをかいていた。その顔を見た俺も、思わずもらい泣きしそうで怖かった。しかし、そこは
グッと我慢し弟にしゃんとするように言い、そのまま上へと上がって行った。
俺と亮祐のいなくなった食卓に沈黙の時間が流れる。静止しした空間に時計の針の音のみが鳴り響く。
すると、母さんが口を開いた。
母さんはまるで今の彼氏と分かれろと遠回りで言っているような感じだった。そのことに気付いたのか
姉ちゃんは言った。
姉ちゃんは制服のスカートの端をギュウッとつかみながら言った。
父さんは少し心配そうに姉ちゃんに訊いた。姉ちゃんは一瞬黙り込んでしまったが、しばらくして
ゆっくりと口を開いた。
母さんは驚愕を露わにしていた。無理もない、何せ、さっきまで付き合っていたとか言っていたその彼氏
から金を借りたとか、どうとかいう謎の言葉がいくつも出てきたからである。
その話を聴いていた父さんは急に立ち上がり言った。
父さんは急に声を荒げて血相を変えて出て行こうとした。それを、姉ちゃんと母さんが慌てて
止めにかかる。
今を想えば、あんな父さんの顔は見た事なかった。と、その時ギイィィと扉が開いた。
そこには本来いるはずのない人物がいた。そう、幼き頃の俺だ。
当時、姉ちゃんは俺のことを“響ちゃん”と呼んでいた。俺も、当時はそのあだ名っぽい名前を
気に入っていた。その時の姉ちゃんの心配そうな目は今でも忘れられない。
俺はパニックになって思わず謝ってしまった。とりあえず、なんとなく謝らなければそう思ったのである。
そんな俺のボソッと呟いた俺の言葉に父さんはどうやら気を静めてくれたようで、二人の止める
手をそっと放すと、元の位置に座った。そして、ふぅ〜と深いため息をつき、手を交差させ、
それをテーブルにつき、しばらく考えこむと、
と言った。父さんとはつまり、俺から言う爺ちゃん…つまりバブルドリームカンパニーの社長、
神童豪佑のことである。
姉ちゃんも母さんも驚いていた。
母さんが心配そうな顔をする。
父さんの言葉に全員が黙り込んでしまった。
そう言って、姉ちゃんはリビングを出て言った。そんな姉ちゃんを母さんと父さんは留めなかった。
俺は姉ちゃんのその何か話しかけてほしそうな背中を見て、思わず彼女の後を追い掛けてしまった。
リビングを出て、階段を上がり自室へ向かおうとする姉ちゃんを俺は何の考えも持たず
呼び止めてしまった。
俺のその言葉に彼女は少し目を僅かに動かしたが、すぐに元の表情に戻り、俺の頭をなでながら言った。
そう言って彼女は俺の体をギュウッと抱きしめた。すると、すりあう俺と姉の頬の間にツツ〜ッと
熱い何かが伝った。俺はそれが何なのか瞬時に理解した。そう、姉ちゃんの涙だった。
その言葉に姉ちゃんは顔を上げてハッとした。
その言葉、その言葉が耳から離れて消えなかったのはなぜだろうか…。実の所、俺もよく分からない。
もしかすると、俺は姉ちゃんが心のどこかで好きだったのかもしれない。そんな大好きな姉ちゃんを
苛めるその得体の知れない男が許せなかったのかもしれない。だが、それは今ではもう過去の話。
そんな昔話、今の姉ちゃんが覚えているわけがない。第一、今の姉ちゃんはあんなにガサツなのだ。
そのせいかもしれないが、今の姉ちゃんの周りには男など一人もいない。常に、周りに男を寄せ付けない
ようなバリアを張っているのか?という程である。
そんな夢を見ながら俺はハッと目を覚ました。随分、懐かしい夢…しかし、実際にあった出来事。
心の奥底からなかなか抜けないその思い出。悲しいようで嬉しいような不思議な感じのする想い出。
俺はふと心臓に自分の手を当てた。鼓動が早い。心臓が痛い。胸が熱い…張り裂けそうなその痛み。
なぜ、昔の姉ちゃんのことでこんなにも胸が痛くなるのだろうか…まさか、これは恋!?
いや、ないない…だって今の姉ちゃんを見てみろ!以前のような、彼女の面影はどこにも残ってや
しない。俺はそんなことを心の中で呟きながらふと上を見上げた。
「そういや、屋根…修理してなかったな……」
もうかれこれ数ヶ月そのままなのではないだろうか?何せ、この屋根が壊れた…というか
壊されたのは霄が来てからなのだから。
「そうだ…金…確か、霄が用意するって言ってたな…」
俺はふと以前彼女が言ってた言葉を思い出した。
「えっと…同じベッドに寝ている護衛役の中から霄を探し出す俺…こう多いと、探し出すのも一苦労だ。
何せ、彼女達の特徴はほとんどが同じ。髪の毛の色は同じ…残りの特徴で探し出すと言えば、
体つきくらいのものなのだから…。そして、俺は霄を探し出し彼女の体を揺さぶった。
「おい、霄起きろ!」
「ん?なんだ響史…まだこんな時間ではないか。今日は休みなのだろう?だったら、少しくらい
休ませてくれても…」
「いいから起きろ!お前、あの屋根修理してないまま一体何か月過ぎたと思ってんだ!」
「おお、そういえばそうだったな…すっかり忘れていた」
「あのな…」
俺ははぁとため息交じりに言った。すると、彼女は懐から何かを取り出した。
「これ…」
「ん?なんだコレ…」
「お金だ…」
「いや、それは見て分かる!問題は、何で俺に金を渡してるんだってことだよ!」
「屋根を直すのだろう?お金がいるのではないのか?」
「いや、そうだけど…お前は行かないのか?」
「いや…だって面倒だし…」
「て、てめぇ…」
俺は怒りに震える心を落ち着かせ、深呼吸すると彼女に言った。
「あぁはいはい。分かった…じゃあ、俺一人で行くからお前はそこで待ってろ!その代り、修理屋の
人が来た時にはちゃんと起きてろよ?いいな?」
ダメ押しの様に言う俺の言葉に霄は不機嫌そうに分かった分かったと言った顔をした。
「じゃあな…」
そう言って俺は部屋から出ると、下に降りて行き、私服に着替えた。そして、リビングへと向かい、
念のためと書置きをして外に出ようと玄関扉に手を掛けた。と、その時階段を降りる足音が聞こえてきた。
―な〜んだ…なんやかんや言って、ちゃんと行くんじゃないか!やっぱそれが武士としても筋ってもん
だよな〜!!
と、俺が勝手に納得していると、上から降りてきたのは霄…ではなく、あくびをしながら目を擦る
霙…だった。