小説『追憶は緋の薫り』
作者:因幡ライア()

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『セイちゃん!セイちゃん!おかあさん、セイちゃんシんじゃうよっ!』


 まだ先月中旬に降った雪が所々に残る二月上旬、都内にある百五十階建ての高層マンションの一室ではそんな

穏やかではない幼い声が響いていた。


『………………チトセっ、……ダイジョ…ブ……から…………シズかに……してっ』


『ダイジョーブじゃないよっ!おかあさんっ、おかあさんっ!』


 目の前にはガラスの向こうで食い入るようにこちらを見て、泣き叫ぶ少女がいる。

 顔の横で切り揃えられたちょっと癖のある髪が小刻みに揺れているのをどこか他人事のように彼は見ていた。

 自分とは顔は似ていないが、旋毛までそっくりな大事な妹。

 彼女を護るためならば、他の誰かが名乗りを上げる前に自らを差し出そう。

 それが青磁のポリシーでもあり、約束でもある。

 最初は体が凍ってしまうのではないかと心配したが、一時間以上室内着のままベランダの外に閉め出されて

いると、次第に五感も麻痺しだし………………もうどうでもよくなってくる。

 こんなことをしでかした張本人である母親は今頃、日本酒一瓶空けてフローリングかどこかで寝ていること

だろう。

千歳がガラス越しでも分るほどに大きな声で泣き叫んでいるのだ。

あのヒステリックな人ならば二言三言罵声を浴びせた後、このいたいけな少女をもベランダに突き飛ばすだろ

う。



 ……そんなことをしてみろ。



 少年は口角を上げ、その歳に不似合いな笑みで純朴な心を満たそうとした。


『……ダメだよ。子供がそんな顔をしちゃ』


 ガラガラっと引き戸式の窓が珍しく二時間以内に開いたのを境に、青磁(せいじ)の意識は遠退いた。


「いたか!?」


「ダメだ。そっちは?」


 十一月上旬ともなれば陽が傾くのは早く、十二時四十五分にもなると世界がほんのり黄色に染まり始める。

 あと少しで何の感情も包み込んでしまうあのオレンジで統一される刻限になる。


『俺はお前の兄にはなれない』


 黄昏時は苦手だ、その美しさの中に追憶を覚えてしまう。

 彼は今の自分のように軽く荷物をまとめて東雲(しののめ)の家を出て行った。

 何を聞いてもその口から事務的なこと以外、発しようとはしなかった。

 元々、卯月は馴れ合いを得意としていないことぐらい本当の弟ではない自分だって知っていた。

 でも、……だからこそ、そんなことを言って欲しくなかったのに………………あの濃いオレンジに侵された

世界に背を向け、歩き去る兄は決別を最後の贈り物として選んだ。



 ………………何が、卯月にそうさせたのだろう。



 それまで良い弟であろうと、子供ながらも張り詰めていたものがあった。


『お前、名前は?』


 それを氷解させてくれたのが彼だった。


『……シっ……シコンですっ』


『そうか。俺は卯月だ』


『今日からお前の兄になるらしい。………………見ての通り、俺は人付き合いが苦手な方だ。だから、……

これからは我が家のお姫様の面倒を一緒に見てもらうぞ、紫紺(しこん)』


『はいっ!』


 誰かに必要とされたことが嬉しかった。

 誰かに自分の存在を認めてもらえたことが嬉しかった。



 ………………なのに、それは僕の独りよがりだった……なんて、実にくだらな過ぎて笑えない。



 どうやら僕は余程、運命に嫌われているようだ。



 それは仕方のないことだと自分でも理解しているつもりだが、やはり信頼をしていた誰かに裏切られるのは

辛い。

 時間は刻々と迫っている。

 千歳をあの世界になる前に探し出さなくては……。

 しかし、先程から走り回っているが、幼稚園児の少女など簡単に見つかるものではない。

 況して学園祭初日の今日はどこからこんなに人が溢れてくるのか、正午を回る頃には足の踏み場もないほどに

多くの人々が行き交う光景に、少しだけ眩暈を覚えてしまう。

 大学内は広い。

 グラウンドを一周するだけでも万年、長短距離共にビリの彼が何度立ち止まったか知れない。


「おいっ、大丈夫か!?」


「………………無理をするな」


 両膝に手を付いて荒い呼吸を繰り返す紫紺に聞き慣れた声が掛けられ、思わず疲労を蔑ろに顔を上げた。


「右近(うこん)っ!左近(さこん)っ!……っ……どうしてっ」


「それはこっちの台詞だっての。何で体力ないクセしてこのだだっ広いとこなんか走り回ってんだよ」


 顔を上げた先には出かける際に見送りに来なかった彼が今朝とは違い、心配の色を滲ませていた。

 きっと、この見た目が派手な双子が外見も性格も統一していたら最早誰も判別できないであろう。

 ……ただ一人を除いては。


「はあ……っ……はあっ…………うるさいっ!僕だって好きで……んなことっ」


「解っている」


 荒い呼吸を伴い、いつものように悪態を吐いた所で何の覇気もないことに今更気づいて黙る。

 一言目で自然と毒が唇から零れるのは最早彼を縁取るフレームとなっていた。

 尤も、それを含めて東雲紫紺と言う存在を認知し、そして少なからず愛されていることを本人は何時知る

ことになるだろうか。

 青年は金の瞳を細め、右掌を紫紺(しこん)の額に翳した。

 瞳を閉じるのと同時にそれを中心に体が少しずつぽかぽかと温まってくる。

それはまるで、明け方まで潜り込んでいた布団の中の温もりを連想させた。


「何だと思えば迷子かよ…」


 あまりの気持ち良さに危うく舟を漕ぎそうになった彼に心底嫌そうな声が聞こえ、反射的に目を開ける。

 視線を向ければやはり銀髪の青年がやれやれと言った調子で息を吐いており、紫紺(しこん)は一瞥してから

その瞳に右近(うこん)を映した。

 いつもの無表情は健在だが、どことなく疲れているように見える。

 無理もない、自分の気力をこの小柄の青年に分け与えたのだ。

 寝れば明日には回復すると解っていても……そうさせてしまった自分の浅はかさに思わず唇を噛んだ。

 こんな時、桜井ならばきっと例え己が悪くなくとも謝罪を口にするだろう。

 そこまで解っていて実行に移さないのは彼らの主だと言う自惚れなのか、それとも……。


「………………そんな顔をするな」


 ぽんっと頭の上に乗せられたものが先程の掌だと知ったのは、その弾みで俯いた顔を上げた時だった。

 右近(うこん)はやはり無表情だったが、その瞳は立春を経て吹く風のようにどこか温かい。


「で?………………何なんだ、その格好は?」


「フフッ……よくぞっ」


「左近(さこん)には聞いてない」


「この時代の若者に合わせた。紫紺(しこん)の家族に会った時は正装で良かったが、……あれでは目立ち

過ぎる」



 ……だったら、それも脱色しろよ。



 先程から背筋に感じる視線が痛い。


「誰?あの二人。超カッコよくない?」


「ねっ、ねっ、彼女いなかったらお茶に誘っちゃおうよっ!」


「あの子、何?もしかして彼女?」


「うわ……負けた。アレの前で声掛けられね」



 ………………そこの二人、後で体育館裏に来いっ!!



 軽くあしらわれ、拗ねている顔は今朝のままだが、シャドースノーの長袖Tシャツの上にノースグリーンの

チェック柄シャツを着ている彼からはいつもの神主姿は想像できない。

深い青のシャツの上に紺のセーターに身を包む青年も大学生にしか見えない。

 一体どこから情報を収集しているのだろう。

 似合ってないこともないが………………今日は学園祭だ、見た目は人間の二十代前半にしか見えないこの

二人ならば何らかの仮装だとカモフラージュできただろうにと言えば実にあっけらかんと……


「周りが煩わしい」


「周りがうぜえっ」


 ………………と白状した。

 他人のことをとやかく言える立場でないことは重々理解しているつもりだが、性格破綻も甚だしい。

 これもその時の主に準ずるということだろうか。


「……薫風で探せないのか?」


「あっ!」


「忘れてたのかよっ」


 左近(さこん)のカウンターツッコミをいなし、再びその場で目を閉じた。

 意識を集中させた彼の前には立冬を過ぎた霜月とは違う温かな風が見えない壁となり、小道を造る。

 どうやら彼らが見つけてくれたようだ。


「行こう」


 あの子をこれ以上、独りにさせてはならない。


「待てよ、紫紺(しこん)っ」


 いくら術で呼び寄せたとは言え相手は自然だ、いつ気まぐれにどこかへ行ってしまうとも限らない。

 一つ息を吐いてからなるべく早足で風の小道を歩いた。

 ジーンズのポケットに両手を突っ込み、不貞腐れている彼にやはり無表情な右近が少し首を曲げてその後に

続く。

 なよやかに吹く風の中はビニールハウスや温室とはまた違う暖かさがあり、すっかりこの季節を覚えて

しまった三人の体を一時癒した。

 壁とは言え、何の塗料も材質含まない透明なそれは秋空を飛ぶ烏やすれ違った人間がどういう服装をしている

のか映したが、今はそんなことに構ってはいられない。

 高等部の何倍かはある広いグラウンドを越え、十七階建ての五号館の入り口の前で風の小道は途切れた。

 この〈展示場〉と立て札に書いてあるだけの何のそっけもない建造物の中に、本当にいるのだろうか?


「ったく、……ホント気まぐれだな」


「………………何か聞こえてこないか」


 しかめっ面の左近(さこん)の隣で両耳の裏に掌を宛がい、彼は目を閉じるとそう呟くように言った。

 それに習い、瞼を下ろす彼の耳にも確かに何かが聞こえてきた。



これは……。



「子守唄?」


 追憶の水面に映ったのは産まれて何ヶ月かした花桜(かおう)を腕に抱いたまま、ゆらゆらと体を揺すって

歌う義母の姿だった。

 当時はあの姿を物陰に隠れながら見ている度、まざまざと思い知らされた。

 自分はこの家に招かれただけで必要のない子供なんだと…。

 あの時の唄を誰かが口ずさんでいる。


「おいコラっ!迷子探しはどうすんだよっ」


「こっちにいるかもしれないだろ。少しは頭を使え、バカ」


「バっ……バカって言う奴がバカだっ!!」



 ………………何と言う低レベルな売り言葉を買っているのだろう。



 二人と再び出会い、数ヶ月の時が流れたが、兄の方は解るが未だに弟の方は人間でないことに疑問を覚え

てしまう。

 五号館の入り口から右の歩道を突き当りまで真っ直ぐ行くと、何百台もの乗用車が停められてある駐車場が

ある。

 義父や在学生のように通勤通学に使用している者もいれば、今日明日の二日間限定の業者もいるだろう。

 人工の森を歩いて数分後、ちょうど四号館の裏にある出入り口に差し掛かると途端に唄は途切れ、代わりに

当人が満面の笑みで出迎えてくれた。

 自分たちよりも早く到着した……と言う事だろうか、それとも……。


「おやおや、紫紺(しこん)くん。………………っとそちらは初めまして……かな?」


「そこで何をしているんですか。校倉(あぜくら)さん」


 どこか人を見下すようなおどけた仕草で背に両手を回したまま、恭しく頭を垂れた。

 見た目はこの時代とは不釣合いだが、季節的には暖かそうな小豆色のねんねこを羽織った背の部分には小さめ

の荷物を背負っているような妙な膨らみがあった。


「今はこの格好で失礼。……ようやくこの子が泣き止んでくれた所なんだ」


 そう言うと聴は長身の体を折り曲げ、羽織ったねんねこの不自然な膨らみの正体を小柄の彼に見えるように

屈んだ。


「っ!?」


 瞳の中に飛び込んできたのは先程自分にもくれた赤い風車だった。

 だが、担がれたとは誰も疑わなかった。

 それは確かにそこにいるのだから……。

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