小説『追憶は緋の薫り』
作者:因幡ライア()

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 ……夢を見ていた。



 『僕』は降りしきる豪雨の中、『彼』と対峙していた。

 着物から身に着けた装飾品さえもずぶ濡れだがお互いその場から動こうとはせず、ただじっと見ていた。

 『僕』の心を哀しみだけが満たしている。

 何もできない愚かな自分を『彼』はきっと見限っているだろうと……。

 地面に叩きつけられた雨は次第に量を増し、既に濡れている踝まで水嵩を溢れさせたがそんなことはどうでも

良かった。

 行かないで、そんなことはやめて、その他に思いつく万言が浮かんだとしても口にすることは憚られた。

 『彼』を止めるのが怖いわけでも、そうすることで命を落とすのを恐れているわけでもない。

 ただ暇を告げられることを怖れていた。

 雨が身体中を痛いくらいに叩き続けてくる。

 これは罪だ、『彼』をこうも変えてしまった報いだ。

 今も尚降り注ぐそれはまるで滝のようで、その勢いはまだ治まらない。

 この豪雨でどれだけの人や動物たちを困らせているのだろう、そう思うと目頭が熱くなってくる。

 ごめんなさいっ……ごめんなさいっ……何度謝ったところで結果は変わらないと知っていながらも『僕』は

祈った。

 これが受刑と言うのなら、喜んでこの身が砕けるまで打たれ続けましょう。

 ですが、困っている者の頭上には一滴たりとて降らせないで下さいと…。



 ……それは一時的なものかもしれない。



 あんなに強かった雨足が少し弱まり、尋常ではない深さを誇る水溜りを跳ねていた粒は音を変え、全ての

声をかき消した。


『……』


『えっ?』


 先程より弱まったとは言え、依然空は号泣し続けている。

 手を伸ばせば触れることが出来る距離にいるはずなのに、濡れ鼠の所為か『彼』の発した言の葉が鼓膜に届く

ことはなかった。


『待って!』


 何かに弾かれたように踵を返し、こちらに背を向けて歩いて行ってしまう。

 ようやく口に出来た声は虚しく『彼』には届かない。



 どうしてこうなってしまったのだろう。



 これが夢だったら、何か違ったのだろうか。



 『僕』の声が届かない……誰にも触れることを許されない現実を永続に傍観する、それはどんなに生き地獄

だろうか。

 『彼』が姿を消した先にはまるで碁盤のような正方形で縁取られた街が眼下に広がっていた。

 ………………探そう。早々に追いつくことが出来たら間に合うかもしれない。



 『彼』は『僕』の大切な……。



 長かったような短かったような夏休みは終わり、最悪にも台風の接近と共に二学期を迎えることになった九月

一日。

 白梅学院大学高等部では約二ヶ月ぶりに顔を合わす生徒たちの歓声が鬱屈した校内を賑わせていた。

 ほとんどが幼稚部からのエスカレーター組とは言え、高等部からは地方からでも入学できるようにと寮が

設けられてあるため休みを大いに国で満喫した者や慎ましくお盆にだけ帰省した者など様々おり、午前中で終了

する始業式の後でお互い「これはっ!」と思った土産を密かに交換することだろう。

 この学校にはそのためだけに風紀を破るバカはいない。

 そこは進学校の良い所と挙げるべきだろう。

 日本中が帰省ラッシュを迎えていたお盆の3日間墓所に篭っていたその後の力は絶大だった。

 明けてから何日かしてロマンスグレーの艶やかな老夫婦が華宵殿(はなよいでん)を訪れた。

 どうやら数日前から可愛がっていた猫の姿が見当たらないらしい。

 全体的に黒いが腹と口元だけが白い美人な子でとても自慢だった。

 二人に良く懐いていただけにいなくなった当初はあまりにものことで警察に駆け込んでしまったが当然の

ことながら相手にしてくれるはずもなく、途方に暮れていた彼らの目の前に光が差し込んだ。

 それは真夏のものとは違い、目に痛い眩しさを持ってはいなかった。

 これを神々しいとでも言うのだろうか、慈愛に満ちたその温かさとかすかに香る季節外れの梅の香りが混乱し

ていた心を中和し、浸透していくのにある種の心地良さを覚えた。

 光の中に一歩踏み出すことに躊躇いはなかった。

 溺れる者はわらをも掴むとはよく言ったものだ、あの子に関する情報が少しでも得られるのならば例え望ま

ないものであっても受け入れようと二人の心は既に決まっていた。



 ……そして、……それは的中していた。



 老夫婦の自宅から十五分離れた十字路の近くの空き地で無残な姿で発見された。

 二人の落胆振りは第三者の側から見ているこちらとしても辛いものがあり、毎度ケースは違えどこういう

場面には一向に慣れない。

 移し身の追加依頼を受けたからとは言え、御簾越しに口にすることさえも憚られるがそれが二人の願いであり

彼女の遺志であるのならば真実を伝えることを恐れてはいけない。

 後日改めて華宵殿(はなよいでん)にやって来た彼らは喪服を着ていた。

 今までコントロールできなかった夢は新たなる罪をすべからく紫紺(しこん)に告げた。

 子宝に恵まれなかった老夫婦にとって実の娘と代わらぬほど愛していたのだ、疲れているのか瞳はどこかを

彷徨い座っても尚、こちらに焦点を合わしてはくれなかった。

 後で聞いてみると当然で、今日は火葬の帰りだったそうだ。

 手元がわなわなとかすかに振るえている。

 彼は唇を少し噛んでから語り出した、彼女の最期を…。


 『僕』は何をしたんだろう?


 今まで怒って引っかいたり噛んだりしたことはあったけど、『彼』に手を出したことはない。



 やだっ!やめてよっ!!お腹を刺そうとしないでっ。



 『僕』にはあの優しい場所に帰らなくちゃいけないんだ。


 『僕』の帰りを待ってくれているお父さんとお母さんがいるんだ。



 助けてっ、誰か助けてっ!



 『僕』は死に物狂いで走る。


 後から追いかけてくる靴音が聞こえる。



 怖いっ、怖いっ。



 縄張りの見回りをしていただけなのに何で『僕』がこんな目に遭わなきゃならないのか。

神様がいるのなら何をしているんだと言ってやりたい。



 ………………息がっ、荒くなる。



 いくら四本足とは言え『僕』は野良じゃない。


 運動不足の人間より早く息切れすることも走るのが遅いわけでもないけれど、それでも『僕』は疲れていた。


 きっとここで撒いて逃げることをすればいいのに、『僕』はまっすぐ見知った場所を目指して走る。


 普段からいろんな道を歩いていれば良かったのに、『僕』は臆病過ぎた。


 見慣れた十字路がだんだん近づいてくる。


 良かった、ここまで来ればもう少しで家に帰れる。


 あともう少しなんだと、疲労いっぱいの足に鞭を打ったのと体に浮遊感を覚えた刹那、『僕』の意識は途切れ

た。


「……っ……のめっ……東雲(しののめ)っ!」


「っ!?」


「どうしたんだ?さっきから何度も呼んでるのに。心此処に在らずって感じだったぞ」


「……悪い。寝不足なんだ」


 部活と家族旅行で行った海ですっかり全身小麦色に日焼けした太一は一体この夏、何があったんだと心底

驚いていた。

 単なる二学期の始業式だ。

 彼にとっては久しぶりの再会であっても、感情をなかなか表に出さないのが東雲紫紺(しののめ しこん)で

ある。

 本来ならばネグられるか良いところでうっちゃられるのが関の山なのに、一体何があったのだろうか。

 彼が慢性的寝不足なのは小等部の頃から知っているし、今更詳細な事情を求めようとは思ってはいない。

 ただこれ以上不幸せになってくれるなと、密かに祈っているだなんて口が裂けてもこの外見は可愛くても

吐けば毒の花が咲く本人には言えないが。


「そう言えば……お前さ……この休み中一体どこに行ってたんだよ?」



 今のは自分の声ではない。



 今まで聞くまいと心に決めていた言葉が無意識に口から零れてしまったのかと、不思議に思う太一の視線に

厳しい形相の紫紺(しこん)が映った。


「どっどこって、それはこっちの台詞っ」


「お前に発言権はない」


「えっ?それって酷くない?」


「うるさい……この休み中どこ遊びほっつき歩いていた。僕がどれだけ苦労したと思っているんだ」


 送り火の翌日、痺れを切らした彼は自分を挟んで歩く二人に相談した。

 修学経験のない彼らに話したところでまともな答えは返ってこないだろうと期待はしてなかったのだが意外に

とんとん拍子で進み、結局この期間で仕上げることを考慮して月に関する物語をレポートすることにした。

 さすがに文献を集めるのに右近(うこん)たちに頼むことは出来ないので誰もいないことを確認させてから

東雲(しののめ)家の自室に戻り、ネットでヒットしたものを印刷し学生カバンに全て詰め込だかを確認してか

ら部屋の外の廊下で聞き耳を立てて見張っていた左近(さこん)と合流し、何とか期日まで仕上げたのだ。

 二人のことには一切触れずに課程を話し聞かせている内によく日に焼けた顔が見る間に青くなってゆくのを

先潜りした紫紺(しこん)はため息を吐いてから彼の苦手科目である英数理の宿題を机上に乗せた。

 解っている、こんなのはただの八つ当たりで何一つ太一に非がないことくらい知っているはずなのに自分の卑

屈さが嫌になる。

 素直になれればと思いながらも当の昔にそんな弱さと決別したある朝を思いやれやれと左右に首を振った。


「どうしたんだよ?良いから写せよ」


 尚もその場に立ち続ける親友にやはり高飛車な物言いをしてしまったことに少々の胸の棘を感じつつも、

これが自分なのだから仕方がないと開き直る。


「……東雲(しののめ)」


「何だよ」


 今更彼に見限られるわけがないと言う何の根拠もない妙な自信があった。

 万が一、自分と絶交なんてしたら誰が太一にノートを見せるのだろうか。

 逆に言えばそれしか誇れるものはないのかと誰かにツっコまれそうだが、彼は本当にそれしかないと思い込ん

でいた。

 例え今のようにノートを写すことがなくとも彼本人はとっくにその不器用さを知って傍らにいるのだが、

紫紺(しこん)にはあとどれくらい経てばそれに気づくだろう。


「お前の兄ちゃんってマジで怖ーな」


「っ!?卯月に会ったのかっ」


 <兄ちゃん>と言うキーワードが凪いだ彼の心を一気に逆撫でるには充分すぎるほどの威力があり、思わず

席を立つ姿を見たことがないクラスメートの中からは燻るような話し声がちらほらと聞こえてくる。

 だが、彼の胸では今も尚疼く暮色に染まるマンションのオレンジを背景に、理由を問いただす幼い自分を

冷たい眼差しで遮った彼が視界に過ぎっていた。


『俺はお前の兄にはなれない』









 ※設定などはフィクションですが、因幡の近所で猫が惨殺されたまま放置されていたのはノンフィクション

です。

 この場を借りて追悼と共に、こちらまでご覧になられた皆様に今一度「命」のことをよく考えてくださること

を切に願っております。

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