小説『追憶は緋の薫り』
作者:因幡ライア()

しおりをはさむ/はずす ここまでで読み終える << 前のページへ 次のページへ >>

 十月中旬、秋の運動会の余波はここ白梅学院大学高等部にも届き、あちらこちらのグラウンドからは早くも

歓声が響いていた。



(……何で高校に入ってまでこんな行事に参加しなきゃならないんだっ)



 何度目かの荒い呼吸を吐いた後、先刻まで自分がいた方を見遣る。

 全体的に白地に学年カラーである黒に縁取られた体育着を纏ったクラスメートたちが、今か今かと教師の

発する合図を待っている。

 左の胸元にはジャージとお揃いで水色の糸で苗字が刺繍されてある。

 その名を持つ者を目敏く捉えると同時にスタートの命が下された。

 白い残像を残して一斉に走り出す五名の青年達の中で一際群を抜いて躍り出る人物に紫紺(しこん)は周りと

は真逆に嫌な顔をする。



(全く、…どうして僕の周りは無駄に足が速い奴らが多いんだ)



 如何にも納得できんと言う顔で息を乱さずに軽く一着を決めた我がクラス代表で学年対抗リレーにそれも、

アンカーで参加する桜井太一を見上げた。

 始業式には何十年前の俳優のように小麦色の肌をしていたがその後、ボロボロと剥け始めた彼に痛々しさと

共に歯痒さを覚えた数週間、放課後の教室には手の生え変わりの犬の如く大量の皮が残されていたそうだ。

 当時は廊下や階段などの掃除当番だったから風のうわさでしか聞いたことがないが、それが半端ではなかった

ことくらいは担当していた班メンバーの顔色を窺えば容易に把握できた。


「……お前、手抜き過ぎ」


「えー!いいじゃん。練習にマジになる方がどうかしてるだろっ」


 その発言は全ての生徒に対しての冒涜だと思ったが、周りは口数の少ない彼の発した声にこいつは底なしか

よと、ため息を吐いていた。

 実際、太一が全速力で走ったのはあのやけに冷えた九月の夜しかない。

 そう昔のことでもないのに、こうして思い出すと何だか懐かしい。

 あれは良い夜だった。

 村雲一つない月が冴える空だった。



 ……だからだろうか、彼の瞳から零れ始めた涙がとても美しく……とても冷たく思えたのは。



「そう言う東雲(しののめ)は今年もビリかよ」


 悪かったなと、顔を背けながらも別段腹を立てているわけではない。

 こうすると太一は先に言った言葉を打ち消すことを知っているから。

 自分は何て利己主義者なのだろう、傍からは何も求めていないように装っているくせにちゃっかりその代償を

彼に、家族に、右近(うこん)左近(さこん)に支払わせている。


『お前はもっと愚かで良いんだっ!』


 いつか言われた言葉が胸を過ぎる。



(……すっかり僕は桜井に依存しているな)



 ダメだと解っていても口の端を上げてしまう頃、紫紺(しこん)の頭には骨で角ばったごつごつとした大き

な掌が乗せられた。

 それは始めこそはまるで壊れ物でも扱うかのようなゆっくりとした動作だったが、次第にワシワシとした

暴慢なものへと変わり思わずうわっと声を上げてしまう。


「そこっ!授業中にふざけないっ!」


「す、すみませんっ!」


「緑青(ろくしょう)ぉー、いーじゃねぇか。俺たち愛し合ってるんだぜ」


「ははっ、面白いことを言うな。でも、授業中は控えて欲しいな。…あ、後、先生と呼んでください」


 黒縁眼鏡のフレームを親指と人差し指の腹に挟んで持ち上げると逆光でキラリと反射した。

 注意をされたことに軽くショックを受けた自分とは違い、はーいと何とも心の篭っていない生返事でいなす

彼を横目で睨む。

 晴れ渡る秋空にホイッスルの甲高い音は短く響いた。

 あの事件から約四ヶ月、発生時はさすがに数十名派遣されてきた報道関係者も何の音沙汰もないと解るとあれ

だけこの町を引っ掻き回しといて恰も、何事もなかったかのように次の現場へと鞍替えして去っていった。

燻りは白梅町に残されたが元々忘れ去られた町だ、事件前の静けさが戻って来るのにそう時間は掛からな

かった。


『今日から君達の担任になる緑青貴仁(ろくしょう たかひと)です。科目は日本史です。まだ赴任してきた

ばかりで君達に迷惑を掛けるかもしれませんがよろしくお願いします』


 風当たりが強くなった白梅学院大学高等部には一人の教員が赴任してきた。

 結局、二学期初日までに二年五組の担任が決まらず、悩んだ末に姉妹校である雪柳女子学園高等部から教師歴

六年の彼に押し付けたと言うわけだ。

 うわさでは理事長直々の推薦だったらしいが、一生徒である紫紺(しこん)がその真意を確かめる術を知る

はずもなく、ただ時だけが過ぎていった。


「すまないな、体育祭の練習で忙しい時に」


「い、いえっ!こっちこそすみませんっ」


 その日の放課後、部活のある太一と別れ、付属の大学内にあるカフェテリアに入ると携帯電話のメールで

ここまで呼び出した本人が100円ショップでも売ってそうな白いコーヒーカップを片手に掲げて合図をする。


「で、どうなんだ。ちゃんとやっていけそうか?ちゃんと睡眠は取れているのか?飯はちゃんと食べている

のか?またこんなに痩せて…だから女に間違われるんだぞ」


「ちょっ!?父さんっ!!」


 入り口からさほど離れていないテーブルに着くなり彼の中性的な顔を掴み、下瞼の裏を確かめ、歳相応の青年

らしからぬサイズの制服の上から両肩を触った掌には以前のものとは比にならない事実に思わず目を鋭くする。

 昼時ではないとは言えまだ何か用があるのか、カフェテリア内にはちらほらと学生たちが同じようにテーブル

を囲んで何やら談笑している。

 その内の誰かが若しくは、入り口から居場所を求めて誰かが今の状況を見たら絶対誤解されるだろう、今は

とにかくやめさせねばっ。

 この一見セクハラのような行動に本人は気づいているだろうか。

 いや、もしもそうならばこんな問題紛いなことすらしないだろう。

 彼の足枷にだけはなりたくない、それは単に幼かった自分を東雲紫紺にしてくれたことへの感謝と共にこの人

をこれ以上関わらせてはいけないと言う気持ちがそうさせていた。

 いつもならば放任主義で特にアクションを起こす方ではないのだが、家を出て約二ヶ月だからだろうか普段

から不規則な生活をしていたからだろうか、理由はその他にも思い浮かぶが今はこの状態を打開したい。


「肉はちゃんと食べているのか?お前は昔から食わず嫌いが激しいからな」


 額に手を当て嘆息する姿に自分は離れても尚、この人に迷惑を掛けてしまっているのかと思うとすまない

気持ちでいっぱいになる。

 少し待っていろと言い残しそのままどこかに行ってしまう。

 きっと、出て行ってくれて正解だと自宅にでも電話をしているのだろう、自分が彼の側ならそうする。

 太一ならば何でも言えるはずの言葉も、この壁を前にすると宙に溶けてしまう。

 それは恐れと言う弱さ。

 それは成長した今も常に付きまとい、恐らく一生この壁から逃れることは出来ないだろう。


「すまない、呼び出しておいて待たせてしまって」


「いっ、いえっ…」


 俯いていた紫紺(しこん)に再び掛かってきた声は先程のものと同じ質のような気がした。

 数分間で気晴らしが出来たとは考えにくいと敢えて下を向いたままでいると、相席の方から何か良い匂いが

漂ってきた。

 時刻は十七時を軽く回っている。

 早めの夕食か若しくは、遅めの昼食を兼ねてなのかもしれない。

 父は大学で平安文学の教授をしている。

 自分が夏休みの間も学会やら何やらで飛び回っていたと定期的に送られてくる母からのメールで知った。

 勝ち負けで判断しているわけではないが、やはり彼には頭が上がらない。


「紫紺(しこん)…」


「……はい」


カタンと何かがテーブルに置かれた音がした。


「食べなさい」


 呼ばれて顔を上げた彼に実に不本意極まりないと言う顔でため息を吐かれた。

 自分の前には出来上がったばかりであろう、溢れる肉汁でジュジュウ音を立てる和風ハンバーグが置かれて

ある。

 恐る恐る見上げた先にはご自慢の老眼鏡の中で目を細め、実に不器用に笑う父がいた。


「食べなさい、紫紺(しこん)」


「で、でもっ」


「これを食べないのなら良いのだよ?私が毎日華宵殿(はなよいでん)にスーパーで買った肉や魚のパックを

届ければ良いのだからな」



 ………………想像してみる。



 彼が小学校に毎日パンを届ける某国民的認知度のあるアニメのキャラクターや若しくは、自分のように独りに

なってしまった青年のために山の幸川の幸を置いてゆく世界的にも知られている某物語の主人公と同じく華宵殿

(はなよいでん)を訪れる姿を。


「食べますっ!」


「よし、それでこそ私の息子だ」


 何か良い様に誘導されたようだが、不慣れなナイフとフォークに戸惑いながらハンバーグを口に運ぶ紫紺

(しこん)は微塵も疑おうとはしなかった。

 その姿を相席から見守る父はどちらかと言えば後者の方が最も適しているだろう。

 その微笑にはあの頃から晴れることのない曇天が今も変わらずそこにあった。



(……夕飯……っ………………腹に入るかな?)



 時刻は十八時二十一分。

 白夜のように永く感じていた日の入りも次第に短くなり、学校を出た頃にはまだ乳白色の校舎を染めていたの

に仰いだ天にはいつの間にやら現れた厚い雲で今宵も月も星さえもそれに覆い隠されてしまっている。

 どうやら今夜は十六夜(いざよい)らしい。

 寝起きでぼおっとしている紫紺(しこん)とは違い、朝から無駄にテンションの高い左近(さこん)が言って

いたことを思い出した。

 真倖が最も好きだった、そして唯一その最後を見送った月、季節も月日も違うのは解っているつもりだが、

やはり思い入れは拭い切れない。

 今まで意識して夜空を仰いだことはなかったがそこまで彼が愛した存在だ、この目で見てみたいと思っていた

のだがそう簡単にいかないのもまた現実。

 節電の影響かそれとも単なる取り替えることを渋っているだけなのか、華宵殿(はなよいでん)の近くの

散歩道をこの時間、無意味に照らしていた街灯はその冷たい光を灯さず、暗闇にうっすらとその存在を現す姿は

最早ミステリーかホラーのオブジェに近かった。

 しかし、そんなことに全く持って無頓着なのが東雲紫紺(しののめ しこん)である。

 ただ暗いな、夕飯入るかなと歩いている彼の目には危険のきの字しか見えていない。

 当然の如く華宵殿(はなよいでん)の周辺には一切街灯はない。

 そんな文明の域までを無視したあの場所の近くまで行けば篝火の明かりで少しは道が見えやすくなるだろう。

 慣れた道とは言え油断をしていたら精神力で漲っている樹の根に今にも足を取られかねないほどだ。

 役所が定期的に実施する大規模な剪定作業ほど税金の無駄遣いだと思ったことはあるが、こうもうっちゃらか

すと何万年後の未来にはまるで縄文杉のように育つかもしれないと思うと、年に一回くらいはした方がいいの

かもしれないと考えを改めさせられる。

 足元に気をつけながら歩いていると神経がそっちに向いている所為か腹の虫が小さく鳴った。

 だが、もしもこの場に紫紺(しこん)以外の人間がいても夜長を制したこおろぎなどの秋を代表する虫たちの

鳴き声にかき消されている。

 万が一聞き取れたとしても彼らの仕業と思われるだろうが、生憎この道を歩いているのは彼一人だ。

 些か残念に思いながらも大きな鳥居の前まで来ると、篝火に照らされて映し出される向かい合う稲荷も昼間

とは違って見える。

 ピタリと両足を揃えたまま立ち止まり、一息吐いてから徐に振り返るが伸びた自分の影以外は何もない。

 最近、帰り道によく視線を感じる。

 華宵殿(はなよいでん)には初代の華衣(はなごろも)により邪気払いの呪いが施されており、邪なものは

近づけず必要とする者のみ、この鳥居を潜ることができる。

 だから、特に危険性を感じてはいないのだが、ある種の薄気味悪さが彼の心を支配していた。



(ムカつく、ムカつく、ムカつく、ムカつくっ!!!!)



 しかし、ここで鬱するような寛大さを持ち合わせていないのが東雲紫紺(しののめ しこん)だ。

 相手をするとバカがツケ上がるだけだと身を以って知っているが、ここまで来ると余計に見下されているよう

でいよいよ我慢も決壊してしまいそうだ。


「っ!?」


 もう一度深く息を吐いてから再び鳥居に体を向けた彼の目には昔ながらの狐の面を着けた長身の黒いスーツ

を着こなす青年らしい人物が立っていた。


「誰だ?」


 何とか平常心を保って右近(うこん)左近(さこん)のように空間を裂いて現れた彼にそんなお決まりな

台詞をぶつけてみるが勿論、答えは返ってはこない。

 きっと、最近感じる視線の主はヤツだと直感が叫んでいる。

 だが、何故だがそれほど嫌な気はしない。



 寧ろ、この感覚は………………そう、懐かしいものに近い気がした。



「……」


 何を思ったのか急に歩き出しこちらに向かってくる。

 一歩、また一歩とまるで踏み締める事さえも躊躇うかのような動きに、つい瞬きも忘れて見入ってしまう。



 ヒサメ、………………そう呼ぶ声はまるでうわ言のようだった。

-8-
Copyright ©因幡ライア All Rights Reserved 
<< 前のページへ 次のページへ >> ここまでで読み終える