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涙を拭い、ゆっくりと目を開けた。
視線の先には、輝く円冠。
それにそっと手を伸ばし、持ち上げると深く頭に被せた。
薄曇りの空から降り注ぐ淡い陽光が、アルンの古代様式の街並みを柔らかく照らしている。
ログイン地点にはみんなの姿はなく、マップを確認すると、今いるドーム前広場は世界樹の南側で、北側にはイベント用の広大なテラスがあるようだった。
多分、あそこでリーファを待っているのだろう
でも、お兄ちゃんから何を言われるのかが予測できない。
リーファは悄然と数歩歩くと、広場の片隅にあるベンチに腰を下ろした。
俯いたまま何分経過しただろうか。不意に、目の前に誰かが着地する気配がした。
反射的に顔を上げると、そこに居たのは意外な人物だった。
「んも〜〜〜〜〜、捜したよリーファちゃん!」
馴染みの深い、頼りないくせに元気いっぱいな声が響き渡る。
唖然としてその黄緑色の髪をした少年シルフを見た。
「……れ、レコン!?」
思いがけない彼の出現に、思わず今まで悩んでいた全てが吹っ飛んだ。
「どうしてここに!?」
そう訪ねると、レコンは両手を腰に置き、自慢そうに胸を反らして言った。
「いやー、地下水路からシグルドがいなくなったんで隙見て麻痺解除してサラマンダー2人を毒殺して、いざ旦那にも毒食らわせてやろうと思ったらなんかシルフ領にいないし、仕方ないんで僕もアルンを目指そうと思って、アクティブなモンスターをトレインしては他人に擦り付けトレインしては擦り付けでようやく山脈を越えて、ここに着いたのが今日の昼前だよ。
一晩かかったよ、マジで!」
「……アンタそれはMPKなんじゃあ……」
「細かいことはいいじゃんこの際!」
リーファの指摘など気にする風もなく、レコンは嬉々とした様子で、隣に密着する勢いで腰を下ろした。
そこで今更のようにリーファが独りでいることに疑問を持ったようで、周囲をキョロキョロ見回しながら言った。
「そういやダークエルフとあのスプリガンはどうしたの?もう解散?」
「ええと……」
リーファはそれとなく腰をずらして隙間を空けながら言葉を探した。が中々上手い言い訳は浮かんでこず、気付いた時には心の裡をぽろりと口にしていた。
「……あたしね、どうしたら良いのかわかんなくて……でも、本当はどうしたら良いのかなんて、わかってるのに、踏ん切りがつかなくて……。」
再び涙が溢れそうになったが、リーファは必死に堪えた。
彼は単なるクラスメートで、その上ここは仮想のゲーム世界。
彼を困惑させるようなことはしたくなかった。
リーファは顔を背け、早口で続ける。
「ゴメンね、変なこと言って。
もう帰ろう……スイルベーンに……」
そう例えここで逃げても、現実では数十メートル離れていないのだ。
でも……やっぱり、まだ悩んでいる。
これでいいの?って問いかけてくる自分が、まだ心の中に居るんだ。
顔を上げて、リーファはレコンの顔を見る。そして思わずぎょっとして仰け反った。
「な……なに!?」
レコンは、茹で上がったかのように顔を紅潮させ、眼を見開き、口をパクパクと開閉させていた。
一瞬ここが街の中であることを忘れ、水属性の窒息魔法を掛けられたかと思ったその時、突然レコンが猛烈なスピードでリーファの両手を取り、胸の前で固く握った。
「なななんなの!?」
「リーファちゃん!」
問いただす間もなく、かなり遠くにいるプレイヤーたちも振り向くような大声でレコンが叫ぶ。
顔をぐいーっと突き出し、限界まで後傾したリーファを至近距離から凝視しつつ言葉を続ける。
「り、リーファちゃんは泣いちゃだめだよ!
いつも笑ってないとリーファちゃんじゃないよ!
僕が、僕がいつでも傍にいるから……リアルでも、ここでも、絶対独りにしたりしないから……ぼ、僕、僕、リーファちゃん……直葉ちゃんのこと、好きだ!」
壊れた蛇口のように一気にまくし立てたレコンは、リーファの返事を待つこともなく更に顔を突出させてきた。
いつもは気弱そうな目に異様な輝きを貼り付け、膨らませた鼻の下の唇がにゅーっと伸びてリーファに迫る。
「あ、あの、ちょっ……」
アンブッシュ(待ち伏せ)からの不意打ちはレコンの得意技ではあるが、それにしてもあまりの展開に度肝を抜かれて、リーファは硬直した。
それを許諾と取ったか、レコンは顔を傾け、リーファに覆い被さらんばかりに身を乗り出して接近を続ける。
「ちょ……ま、待っ……」
顔にレコンの鼻息を感じるまで肉薄され、漸くリーファはスタン(金縛り)から回復して左拳を握った。
「待ってって……言ってるでしょ!!」
叫ぶと同時に体を捻り、全力のショートブローをレコンの鳩尾に叩き込む。
「ぐほェ!!」
街区圏内であるゆえ数値的ダメージは通らないがノックバックは発生し、レコンは1メートルほど浮き上がったのち、どさりとベンチに落下した。
そのまま腹部を両手で押さえつつ苦悶の声を上げる。
「うぐぐぐぐぐううぅぅ……ひ、酷いよリーファちゃん……」
「ど、どっちがよ!!
い、いきなり何言い出すのよこのアホチン!」
漸く顔がかーっと熱くなるのを感じながら、リーファはまくし立てた。
危うく唇を奪われるところだったと思うと、怒りと恥ずかしさが相乗効果でドラゴンブレスの如く燃え盛り、とりあえずレコンの襟首を掴み上げると右拳を更に数発ドカドカと見舞う
「うげ!うげぇ!ご、ごめん、ごめんって!!」
レコンはベンチから転げ落ち、石畳の上で右手を翳して首をぷるぷると振った。
リーファがとりあえず攻撃姿勢を解除すると、レコンは胡座をかいて座り込み、がっくりと項垂れる。
「あれ〜〜……。おっかしいなあ……。
あとはもう僕に告白する勇気があるかどうかっていう問題だけだったはずなのになあ……」
「……あんたって……」
リーファはほとほと呆れ、ついしみじみした口調になりつつ言った。
「……ほんっとに、馬鹿ね。」
「うぐ……」
叱られた子犬のようなレコンの傷ついた顔を見ていると、呆れるのを通り越して笑いがこみ上げてきた。
ため息と笑みの混合したものを大きく吐き出す。
同時に、すーっと胸の奥が軽くなったような気がした。
今まであたしはなんでもかんでも呑み込みすぎたのかもしれない。
もしあの時、彩斗さんが来てくれなかったら、お兄ちゃんにすごく酷いこと言って傷付けてたと思う。
ーーまだ、待っててくれてるかな……。
そう考えて、リーファは肩の力を一度抜き、空を見た。
そのまま、ぽつりと言った。
「ーーでもあたし、アンタのそういう所、嫌いじゃないよ。」
「え!?ほ、ホント!?」
レコンは再びベンチに飛び上がると、凝りもせずにリーファの手を取ろうとした。
「調子に乗んな!」
その手をすり抜けて、リーファはすいっと空に飛び上がった。
「ーーあたしもたまにはアンタを見習ってみるわ。
ここでちょっと待ってて。
ーー付いてきたら今度こそコレじゃ済まさないからね!」
ぽかんとした顔のレコンに向かってしゅっと突き出した右拳を開き、ひらひらと振ってから、リーファは体を反転させた。
そのまま翅を強く震わせ、世界樹の幹目指して高く舞い上がった。