012◆閑話4◆彼女が俺の女神です
☆☆☆
部長補佐の高峰に呼び出されて、業務課に向かった。
要領を得ない通話だった。
何かを憚る様な声が、とにかく早く来いと告げる。
舌打ちして、立ち上がったのは目の前の仕事に集中出来ない所為ばかりでも無い。
『お前には解らないんだろうな。』
柔らかい声音で、少しこちらを揶揄う響き。微かに小莫迦にする風情さえあるのに、何故かそれも容認出来た。
『解らなくても良いから、従っとけよ。それで良いさ……今はな。』
器が違うんだよ。と云われたのは、いつだったか。あの人がああ云うからには、高峰は自分よりも器がでかいのだろう。
うっかり無能者に対する視線を向けると、あの人が皮肉な笑みを口元に浮かべる。
『無能はお前だ。』
その眼差しは、雄弁に意思を突き付けてきた。
見透かす視線。
そのカリスマ。
追いかけても、届かない存在。
「………部長。」
エレベーターが下降する。
直ぐに、着くのは解っている。
なのに、堪えきれず泪が零れた。
敬愛する上司。陳腐な言葉だと思う。しかし、それ以外に言葉を知らない。
あの人の存在を、説明する他の言葉を知らない。
昨夜は、部長の通夜だった。
後暫くしたら、葬儀に出掛ける事になる。
通夜の席で、呆然としていた高峰を思い出す。
今は考えるべきでは無い。
そう思うのに、止まらなかった。
片手で視界を覆い。
深呼吸した。
『お前は感情隠すのが、割と下手クソだよなあ。まあ、そこが可愛げとも云えるが。』
肩が震えた。
『莫っ迦。だからダメなんだよ。高峰見ろ。高峰。笑いたくなくても笑え。』
息を整える。
『どうだよ?営業の奴らは、これが毎日なんだぜ?尊敬するだろうがよ?』
深く。
息を吐いた。
エレベーターの扉は閉まっていた。
開いて。閉まる迄の間に、誰も通りかからなかったと信じたい。
『お前は結構、迂闊だよなあ?』
苦笑する声が聞こえる。
穏やかで優しい声音は、けれど人の良さとは無縁だ。
けれど、かなり近しい人間にしか向けられない故に、特権のように感じるソレ。
いつも揶揄う響きと、人を小莫迦にしたような、なのに暖かみのある声。
――そんな事を云うのは、あなただけですよ。
そして。
真弓以外の上司が口にしたなら、発言者は多大なる後悔をする事になるだろう。
業務課に足を進めた。角を曲がれば直ぐに見える。
その光景を見た時には、いつも通りの自分がいた。
――何やってるんだ?
不機嫌そうな表情は、自分の本来の顔だと思う。
精々がとこ、自分が浮かべる雄弁な表情は3つだ。
「莫迦じゃねえの?」
「こんな事も解らねえの?」
そう告げる、侮蔑と嘲笑。後のひとつは封印された。
あれは「真弓部長に向ける」感情だからだ。
真弓部長に向ける表情だけは、何故だかコントロールひとつ出来なかった。
忠犬と、呼ばれた事がある。
我が事乍ら、物凄く納得した。
『犬かお前は……。』
呆れた声音も思い出す。
あの時は、反論した。失礼ですね!と憤慨して見せた。
『ああ。悪い悪い。』
苦笑して、ちっとも反省してない眼差しが笑みを含み、頭に伸ばされた手のひらに、髪を掻き回された。
大型犬だよなあ、と部長の口から呟きが零れ、思わず真っ赤になって怒った。
怒って見せたのは、それが嫌では無かったからだ。
部長は珍しく、小さく声を上げて笑った。
一瞬。
胸が痛んだ。
そんな時の表情とは裏腹に、こちらの心臓を鷲掴みするような、冷ややかな眼差しを浮かべる事もある。
その眼差しが、目前の光景の中にあった。
そんな眸をした部長には、流石に自分も近寄りたくは無かった。
けれど、部長はもう居ない。
なのに、その眸を持つ、女性がそこに居る。
フラフラと吸い寄せられるように、足が進んだ。
感情を灯さぬ事務的な眼差しが、こちらをチラリと垣間見た。
ゾクリとした。
似ているなんてもんじゃ無かった。
息を呑んだ。
彼女は業務課の、確か山里と云う女性社員に説教をしている様子だった。
いや。
山里に説教をしている「振り」を、している様子だった。
周囲も気付いているのだろう。
説教を見守る『振り』をした、お偉いさんたちが、一様に項垂れていた。
彼女は、実際には上司たちに説教をしているのだ。
見た事も無い女性だった。
その口調も、言葉も、あの人そっくりだった。
「その、な?君の発言は、的を得ていると……思うが。その辺りで。」
勇気有る発言は、高峰だった。
しかし日本語を間違っていては、その勇気の価値も半減だ。
彼女もそう考えるのか、冷ややかに見つめた。
「得るのは当です。」
その言葉に、上司たちは固まった。それは俺も同じだった。
次の台詞が予想出来た。
あの人の云い回しだ。
『得るのは当だ。的は射るもんだ。』
固唾を飲む周囲の雰囲気に気付きもしないのか、淡々と彼女は告げた。
「的は射るものです。そして、心構えは大切です。おざなりな説明で済ませてはなりません。」
そして、当たり前の様に一頻り説教をして、その説教の発端になったらしいミスの説明に移行した。
どうやら、この為に自分は呼ばれたらしかった。
今なら高峰に抱き付いて感謝しても良い。
彼女は、その能力さえも、あの人に似ていた。
きっと、その魂も似ているだろう。
あの人はもう還って来ない。
やっと、それを受け入れられる気がした。
『お前もなあ。俺以外に心開けないのかね?女はいないのか?女は?』
居ました。
部長、見付けました。
彼女が、俺の女神です。
心の中で、上司に報告した。
☆☆☆