020◆8話◆四日目〜入社三日目から微妙な立場です
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どうやら義兄は二日酔いらしい。二日酔い以前に腰を痛めでもしたのか、ぎこちない動作が目立った。
「大丈夫?」
「ああ。まあ。一応。」
「………。」
こんな医者に診察されたくは無いものである。
義兄の人は味噌汁さえも飲めずに、テーブルに器を差し戻している。
そんな姿を眺めるマユミの視線には、呆れよりも侮蔑が多く含まれていた。
しかし患者に罪は無い。
マユミは自ら焙じ茶を淹れ、梅干しを放り込んでカチャカチャとスプーンで潰しつつ掻き混ぜた。
二日酔いの薬と温めのお湯。そして梅干しを溶かした焙じ茶を差し出せば、義兄は物も云わずに口にした。
どうやら梅の酸味に助けられ、大振りの湯呑みに淹れたお茶が残される事は無かった。
時間はまだ有る。手早く用意したのはトマトスープだった。
冷蔵庫からトマトを取り出したマユミを、母の人が不思議そうに見ていた。
マユミの邪魔にならない位置では有るが、兄の人もキッチンに入り込んだ。
義兄が飲んでいた焙じ茶が気になったのか、同じようにお茶を淹れ、梅干しを投下していた。
明らかに自分用だった。
ちゃんとした料理をする人からは、手抜きの謗りを受けかねないが、マユミはミキサーとレンジを利用して、さっぱりとしたスープを仕上げる。
些少なりと腹持ちする様に、少しだけ炊いたばかりの白飯を入れ粥状にした。
重湯をトマトスープに投入した感じだが、特に濾しては無いので多少は食感が残るだろう。
テーブルに突っ伏す義兄を促し、飲みやすい様にマグカップに容れたそれとレンゲを手渡した。
存外素直に口にした。
「塩胡椒が足りないならコチラを。」
言葉を発するのは未だ面倒らしく、義兄は首を振る事で応えた。
落ち着いてきた様子を見てとると、それまで我関せずとばかりに無言を貫く兄を見る。
梅干し入りの焙じ茶が気に入ったらしく、湯呑みを両手に持って、満足そうに息を吐く兄の人が居た。
「………。ええと。」
一瞬。
頭の中が真っ白になったマユミである。
呼び方が解らなかった。
――何と呼んだか?いや、そもそも。
もしかしたら、呼び掛けた事が無かったような気がする。
マユミは困惑した。
何かの拍子に、呼んだかも知れない。呼んでないかも知れない。
そんな事実は、どうでも良かった。
今、この時。
何と呼ぶのが正しいのか。
誰でも良いから、教えて欲しいと思った。
「ん?ああ。上がるか。」
「うん。よろしく。」
倖い、兄の人が先にマユミの視線に気付いた。
問題は持ち越され、化粧をして貰う為に、兄の人と上階に向かう。
「本当に変わったわねえ。台所になんか絶対立たなかったのに。料理を作るなんて、ねえ?そう思わない?」
母の人が義兄に話しかける声が聴こえ、マユミの足が一瞬止まった。
その顔に、僅か乍ら苦い感情が拡がる。
そっと吐息して、眸を閉じると。次に眸を開いた時には、動揺は収まっていた。
兄の人が、足を止めて、不思議な眼差しでマユミを見下ろす姿を見ても。
マユミは表情を変えずに済んだ。
――遅いかも知れないが。
何も聞かず、何も聞かれず、示し合わせたように互いに視線を外した。
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入社三日目にして、マユミの立場は微妙である。
ただの新入社員として扱える者は、少なくとも業務課には存在しなかった。
こんな平社員は迷惑でしか無いが、それでも既に足場を固めてしまったマユミに、苦言を呈する者も不在だった。
――内心はともかく。
流石に少し反省したマユミだった。しかし自覚は遅すぎた。
今更普通の新入社員の振りも出来なかった。
「お早うございます。」
子犬を始めとして、揃って三名の「マユミの先輩」が、挨拶をする。
明らかに上司に向ける態度だった。
前日の反省も有り、警戒を忘れなかったマユミはそれに気付いた。
気付いたからと云って、何が出来る訳でも無かった。
「お早うございます。」
せめてもの抵抗を示し、精一杯丁寧に挨拶した。
姿勢の美しいお辞儀は、「挨拶教室」と云う名の研修で入手したスキルである。
営業を始めとして、幹部及び接客の立場に当たる者は優先的に受けさせられる。
結局は社員全員が受講するマナー教室なのだが、マユミを始めとする幹部候補が受ける際は人数が違う。
密度も違ったが、マユミはその他の一般社員にされた講義に参加する機会を逸したから知る由も無い。
マユミの隙の無い上品な物腰は優雅でさえ有る。それは長年培った努力の賜物とも云える。
ただ、男として覚えた動きなだけに、女性としての繊細さには欠ける。
それが却って緊張感を醸し、女性に対する侮りを受け付け無い結果に繋がってもいた。
マユミは交渉事に於て下手に出るタイプである。もの柔らかに、穏やかに、優しい雰囲気を身に付けた。
それなのに、女性になれば男の無骨さを払拭しかねる。なまじの女性よりも優雅な割に、侮りを呼ばない硬さが否めない。
通常ならば男勝りな女性は何処かしら不自然な、強がりとでも呼ぶ他ない固さを感じさせる事が多い。
マユミが醸す硬さは、完全に反対の性質だろう。
マユミの場合は、その品の良い柔和な微笑さえ、反対に油断出来ないものとして印象付けた。
その存在感だけで、マユミは新入社員として目立っていた。
その上での入社してからの二日間が有る。
こんな部下を持った課長は、ある意味不倖でしかなかった。
原田は出来るだけ関わりたくなかった。業務課に必要だとは認めても、存在自体が迷惑だとも思っている。
視界に映らない様に、努めて存在を無視したい。
故に話し掛けるのも躊躇した。
しかし、必要事項は通達せざるを得ない。
位負けする部下の机に、嫌々乍ら足を向けた原田だった。
「佐倉さん。」
「何でしょう。」
マユミは緊張を解いては居なかった。
故に部下として、上司に声を掛けられたら席を立つ。
周囲が全て会長だと思えば、それは難しい事では無かった。
最初からそうすれば良かったのだ。
「午後からは経理部に行ってくれますか。」
原田は新入社員に向けるには、相応しからぬ言葉遣いをした。
しかも断定では無く依頼の形だった。
マユミの眸に、苦笑に近い色が浮かんだ。
原田にも云い訳は有る。
会長が「何か」を考えていると聞いた。そんな話を有る対象が通る道筋は、大抵の場合二つに分けられた。有り得ない昇進か無惨なリタイアだ。
そんな人物に命令は下し辛い。
本音は。
上層部に平気で説教をした新入社員に、尻込みしたからである。
原田はヘタレだった。
本人に自覚も有る。
マユミは眸を僅かに伏せて感情を隠したが、原田は見透かされた事に気付いていた。
しかし、だからといって何も反論しないのが原田でもある。
「高峰部長から説明が有ると思いますが、半日ずつ業務課と経理部を移動して貰います。」
今度は何とか断定口調である。
マユミが視線を上げた。
その眼差しは穏やかだが、原田は居心地の悪さを感じる。
若い娘の姿をしているのに、何やら目上の人間に相対している錯覚を覚えて狼狽える。
それでも泳ぐ視線を何とか定め、無理やり笑みを浮かべた。
マユミの笑みとは反対に、不自然で固いものになった。
「今日だけでは無いと云う事ですか?」
「詳しい話は高峰部長から聞いて下さい。」
原田は早々に会話を終らせた。
マユミは追及しなかった。
部下達は全員、その会話を聞いていた。課長は通常ならもう少し砕けた口調で部下に接する。普段の原田なら新人に遣わない丁寧語で接した事にも当然気付いた。
しかし。
三名の部下はマユミを「特殊」な存在だと認識していたので、原田の株が下がると云う事も特に無かった。
主任だけが、複雑そうな眸をしていた。
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