小説『真弓が真由美になりました』
作者:みき(かとう みき◆小説部屋◆)

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025◆11話◆四日目の午後〜不覚を呪いつつ仕事しました

☆☆☆

 用意された席に着くと、早速話しかけられた。

「塚迫です。少し宜しいですか?」

 一応、全員の紹介を受けた後だったが、塚迫静奈は再度名乗ってマユミに質問を開始した。
 マユミ一人を紹介された自分達と違い、経理部全員を覚えなければならないマユミに配慮したのだろう。
 そういう自然な気配りを、率先してこなす女子社員だった。
 もちろん、元部下として評価するマユミは、それを必要とはしてなかったが。

「カーメラグループの赤伝の件ですが。いえ、赤伝なのか取消なのかが、そもそも解らないのですけど。」

 添付された資料のコピーと指示書、そして元々の伝票の一部を見て、マユミは微かに吐息した。
 少し考えて、応じたマユミである。

「そうですね。最初に間違った処理をしていますから。先ずはそちらを訂正致しましょう。決算月に関わりますし、今期に処理を繰り越しますと、非常に面倒な話になりますから。」
「………は、はい。」

 それは先日業務課で問題になった、伝票処理の訂正に関する件だった。
 未だに処理が済んで無いのかと思い、マユミは内心木崎を罵倒した。
 しかも木崎の指示通りににすると、後々面倒だった。

「先ずは全部、拝見させて戴けますか?誤った処理から。いえ、その前の正しい処理からカーメラの伝票を全て。」
「はい。」

 頷きつつ迷う様子は当然でもある。指示書とは違う処理を告げたマユミは、そこでやっと木崎を呼んだ。

「主任。」

 顔を上げて、パーティションの影に隠れた木崎に声を掛けた。
 いくつかの机分の距離しかなく、普通に呼べば木崎は顔を覗かせた。
 他の者に対しては、椅子ごと影から滑り出て聞くか、下手したら声のみで返答する木崎だが。
 しっかりと立ってこちらに足を向けた気配だ。
 わざわざ来なくても良いので、マユミは待たずに続けた。

「当期での赤伝処理は後々面倒ですし、期末処理にするにも同月ですから、直接訂正します。」
「はい。解りました。」

 その返答を確認する為か、塚迫が木崎を振り返って、ガタリと後退った。
 木崎がニッコリとキラキラ笑顔を振り撒いていたからだ。
 マユミは先程の屈辱を思い出し、その笑顔を叩き潰してやりたい衝動に駆られた。

――若さを自覚した途端にコレか。

 暴力的な活力を身の内に感じ、ちょっと拳を握りかけた程だった。
 ギリギリで我慢して、開いた手が、木崎に対して用は済んだとばかりに閃いた。
 それは、真弓正孝の仕草だった。
 木崎の眸に、更に熱が篭るが、マユミは気付かず塚迫に向き直った。

「書類を。」
「あ、はい。」

 珍しく周章てた風情の塚迫に、落ち着いて、とマユミは微笑んだ。
 そして。己が、拳を握りそうだった左手を、そっと右手で握り込んだ。
 現在の姿ならばオカシイ話でも無いが、怒りを「演じ」て見透かされ、本気で怒り恫喝した瞬間をマユミは思う。

――あんっのクソガキ!

 破顔した木崎に、まんまとしてやられたと気付いた。
 しかも、木崎が誰かに興味を持てば、先ずは怒らせてみる手法を採択するのは、珍しくなかった。

――俺が教えたんだしな。

 忌々しく思い出す。
 だが。
 気付かなかった理由はもちろん存在する。
 その方法を取ったからには、木崎はマユミを自分より「強い立場」だと考えている事になるからだ。

――そこだ。何故そうなるんだ?

 あっさりと誘いを躱され、振られそうだから違う近付き方を模索するだろう事は理解した。
 それは簡単に予測が付いた。
 だが、その違う手法が「怒らせる」事になるとは、正直予想外だった。
 怒りは人間の素顔を覗かせる。
 怒りの理由を知る事は、その人間を理解する為の材料のひとつになる。
 そして、本音を晒した相手とは、よくも悪くも距離が近くなるものだ。

 だから、眞弓正孝は木崎に教えたのだ。

『あいつを怒らせて見たら、少なからず理解の手助けになるかもな。』

 しかし。
 自分より強い相手にしか使うなとも告げた。
 木崎は基本の性格が狷介と呼ばれる程に和合性に乏しい。
 容赦に欠ける性質の為に、根っからの「虐めっ子」体質の如く他人を莫迦にする態度をとる。
 部下相手には手心を加えろと、真弓が何度注意したか判らない程だ。
 弱い上司虐めもするので、真弓には木崎の事が手の掛かる悪ガキにしか見えない時があった。
 だが、今回の場合は話が別だ。
 木崎は確かにマユミを自分より強者と見做したのだろう。
 しかし。

――新入社員。しかも若い娘が木崎より強い?そんな道理が何処に有るんだよ。

 この場合は、確実に木崎が強者の位置に立つと考えていたので、マユミは可能性を考えもしなかった。

――故に嵌まった。

 木崎の考えが読めず、マユミは内心かなり苛立っていた。
 部下として接していた木崎は、可愛い大型犬に見えた。悪ガキが自分にだけ懐くのは、悪い気はしなかった。
 常に不機嫌な顔が、真弓に対してだけは素直な尊敬を見せて、尻尾を振って追い掛けて来る。
 それが有能な部下ならば、可愛くない筈も無かった。

――でも今は気持ち悪い。

 自分にだけ向ける笑顔。
 キラキラした眼差し。
 尊敬と………考えたくない何らかの感情。

 真弓正孝は木崎に触れる事を何とも思わなかった。当たり前だが、触れたと云う意識も無しに、木崎の髪をクシャクシャと掻き回す様にして撫でたりもした。
 いい大人にする事では無いが、他人の頭を撫でるのは真弓正孝の癖のひとつだった。

 佐倉真由美になって、木崎は可愛い部下からシフトチェンジした。
 近くに寄ると、気持ちが悪いのだ。
 木崎を嫌う訳では無い。
 木崎自身に嫌悪感がある訳でも無い。
 純粋に。
 男が、女性に向ける眼差しと態度が、嫌悪を誘うのである。

――鳥肌ものだ。

 口説く口調は、たった一回だった。

『あなたが本当に怒っているなら、多分そんなイラついた云い方はしませんよね。』

 その寸前に浮かべた笑みと、その甘い口調に。
 木崎の真意を覚ると共に、怒らせるつもりの台詞でもあると気付きつつ。
 カッと血が逆流するような、怒りに心が染まった。
 怒って「見せた」演技が、部下に見透かされた苛立ちもある。
 口説く振りでマユミの怒りを誘い、マユミが意図しないまま為した『怒った振り』は罠に嵌まったと見做してもオカシクは無かった筈だ。
 しかし、演じたマユミに木崎は気付き、うっとりとした眼差しで見つめて来た。
 そこで、あの台詞だ。
 鳥肌ものの気色悪さも、怒りに油を注ぐ材料にしかならなかった。

――木崎の癖に!

 言葉にするならば、その一言に尽きるだろう。
 だが、マユミは真弓正孝では無く、佐倉真由美なのだ。
 そろそろ。
 本当に自覚しないと不味いかも知れない。
 マユミは、今更の反省をしていた。

「お待たせしました。一応全てコピーを取りました。変更が必要な分だけ、後程差し替えます。宜しいですか?」
「はい。では拝見します。」

 いちいち云わなくても必要な事を熟し、誤解しようも無い必要な一言を添える。
 出来た部下に満足そうな眼差しを向けて、塚迫に頷いたマユミだった。
 塚迫が戻って来た事で、心の内で繰り広げられていた反省会は中断した。
 だが。
 マユミは真弓視点で塚迫を見つめた自分には、やはり無自覚だった。

 当然。
 周囲は。
 そんな無意識の、上位者として振る舞うマユミの態度や。
 主任である木崎のマユミへの接し方も相俟って、マユミが同僚として隣に位置する者では無く。
 上役に近い位置に立つと、認識した。

☆☆☆

「すみません。これが取り消しになるなら、代わりの処理はどれですか?」
「既に赤伝を2月に入力してるでしょう?」
「………ええと。でもそれだとカーメラの仕入確認書は浮きませんか?」

 本気で理解しない様子の塚迫に、マユミは首を傾げた。
 真弓正孝がしても、何かを企む様で怖いと囁かれた仕草だが、佐倉真由美がして見せれば、相手が赤面する程に可愛いらしく映えた。
 穏やかに微笑しながらも、周囲を圧する硬い空気が一瞬ほぐれて。

『何でこんな事も解らないの?』

 と、そう告げるが如く。
 不思議そうに見上げる眼差し。
 莫迦にするなと怒る前に、ギャップにうっかり見惚れて赤面したのが塚迫であり。
 チラチラと、立場が微妙に解り難い「新参者」を観察する。
 周囲の面々だった。

 丁度、塚迫が背にしていた位置は、直線距離で部長席がある。
 その手前の主任席からは、生憎視界が遮られて見えないだろう。
 たまたま、この直前に経理部に戻って来た高峰と。
 マユミとの打ち合わせをどうするか、訊ねようと高峰の元に足を向けた木崎は。
 話題の元であるマユミに自然と視線を向けた。

 木崎は当然の如く見惚れ、高峰は面白そうに眸を煌めかせ、口元を笑みの形に歪めた。


 そんな事には。
 一切、気付かないマユミだった。基本的に、仕事以外での人の心の機微に疎いマユミである。
 周囲の反応など我関せずとばかりに、真面目に説明を開始していた。

「例えばですね。この請求書ですが、リンゴが10ケとします。100万としましょう。」
「はい。」

 講義の始まりに、塚迫は背筋を伸ばした。
 然り気なく、その処理の意味が理解出来ていなかった、近くの席の者達が便乗してマユミに集中した。

「で、2月に3ケ、腐っていたリンゴを返品しました。この赤伝票です。これを30万と仮定します。」
「はい。」
「当然、先方も赤を切りますが、2月には間に合いませんでした。」
「はい。」
「3月に処理が為され、当社と一致する筈でしたが、この先方の処理は独特でした。」
「はあ。」
「売上の赤を切らずに、3ケのリンゴを仕入れ処理したのです。そして、先方は相殺処理をします。」
「……はい。」
「30万の売掛金が相殺によって消えて、めでたく当社と一致しました。」
「………ええと。と、云う事は……この相殺は。」
「当社では必要ない処理ですね。故にこの相殺伝票は削除しましょう。」

 ひとつ理解を得られ、マユミは頷いた。
 塚迫は少し周章てた。

「あの、相殺領収証送付してしまいましたが?」
「それは問題有りません。この領収証に、こうして……。」

 マユミはペンを取り、領収証の控えに記載した。

『当社の仕入赤伝処理を先方が3月にて売上赤伝では無く、仕入れ処理をした為に相殺領収証を要求された為に発行。当社では相殺処理は不要。』

 控えの領収証にメモを添付して、マユミは塚迫に手渡した。

「これは2月の赤伝票に添付。」
「あ。はい。あのっ!」
「はい。」

 塚迫は先方の仕入確認書を手に、マユミに訊ねた。

「ではこれは?」

 マユミは微笑んだ。

「それも当然、領収証控えと共に、赤伝票に添付です。」
「……………はい。」

 暫く、塚迫は考える様子を見せた。
 そして、ニッコリと笑って頷いた。

「解りました。あの、念の為に、確認しても宜しいですか?」
「はい、どうぞ。」

 塚迫は残った伝票を手に、マユミに質問と云う名の確認をした。

「こちらは、取り消し。直接削除して宜しいですか?」
「こちらは、訂正、過払いの為、前払いか仮払いどちらにしましょうか?」
「こちらも削除。これも直接処理で宜しいですか?」

 マユミは頷いたり細かい箇所に指示を出して、満足そうに笑みを浮かべた。
 塚迫の美点は、理解したからと云って、勝手な処理を行わない事である。
 そして、最後にマユミは告げた。

「では、この処理の内容は、木崎主任に報告してから実行して下さい。」
「はい。了解しました。有難うございました。」

 塚迫が立ち上がり、マユミに頭を下げた。
 そして、一段落ついたと察した木崎がマユミに声を掛けて来た。
 高峰の帰社には気付いていたので、マユミも特に不審を感じる事なく従った。

「佐倉さん。こちらへ。」
「はい。」

 しかし。
 高峰も立ち上がり、三人は会長室に向かう事になった。

 マユミは、会長に釘をさす機会が来ただろうか?そんな事を思ったが。
 実際には、それどころでは無くなった。

☆☆☆

 話は大した事では無かった。
 原田に聞いた事以上の説明も為されず、マユミは自分の所属が未だに確定していない事を知っただけだった。

「準備が整うまでは午前中は業務課、午後は経理部で適当にやりたい様にしてくれたら良いよ。」

 そんな適当発言をしたのは、云わずと知れた会長である。
 マユミは内心。

――準備?

 その言葉に不穏な意味を嗅ぎ取った。

――まさかな。

 嫌な予感しかしなかったが、取り敢えずは経理書類の守秘義務について一言物申すべく口を開いた。
 が。
 マユミの言葉は発せられる事なく終わった。
 会長の傍に立っていた男が、つかつかとマユミに歩み寄った。

「なんて可憐な花だろう。こんなキレイな女性が義兄さんの目に止まる程に優秀だなんて!天は二物を与えたんだね!?」
「はあ?」

 それはマユミに理解不能な生き物だった。
 マユミを悩ましく見つめる男は、多分美形と称して間違いは無い。
 会長とはタイプが違うが、やたらとキラキラしい王子様ヅラをしていた。
 それは別に構わない。
 マユミは男の美醜に拘りは無い。
 その生き物は長身を屈め、マユミの手を取った。
 いきなり。
 手の甲にキスとかされた。
 手を離さないまま、いや両手にそっと握り込むようにして。
 背筋を伸ばした王子様ヅラはニッコリと笑った。

「美しいお花さん。良かったらこれから食事でも?」

 マユミは人外を前に固まっていた。
 両サイドに立ち尽くした木崎高峰の両名も、似た様なものだったが。
 木崎がハッとして、男の手を外した。
 マユミの二の腕を曳き、背後に守る。

「佐倉さんに気安く触らないで貰おうか。」
「何だい君は?」

 男はマユミ以外視界に映して無かった様子で、初めて気付いたみたいに木崎を見た。
 まるで、ゴミを見るみたいな、無関心と不快さを宿した眼差しだった。

 男の背後では、忘れ去られた会長が机に突っ伏して笑っていた。
 漸く立ち直った高峰は、全員の様子を眺めて、傍観を決め込んだ。

☆☆☆


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