小説『真弓が真由美になりました』
作者:みき(かとう みき◆小説部屋◆)

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029◆12話◆五日目〜誰かこの莫迦を何とかして下さい1
※少し長いです。

☆☆☆

 このイキモノは何だろうか?
 昨日のマユミの心境を忌憚なく言葉にするならば、その一言でしか無い。

「何だアノ宇宙人は!?」 

 真由美ぶりっこを忘れたマユミだった。会長室を出てから、我にかえると素を晒して疑問を呈した。口調に気を付ける事も忘れていた。そんなマユミに高峰は眸を瞠り、木崎は丁寧に解説した。

「確か……名ばかりの役員ですよ。」
「そんなのはどうでも良い。……あのイキモノは何だと訊いてるんだ!」

 男にあんな風に口説かれる事など、当然乍ら初めての経験である。ソレよりも何よりも、マユミはあんなイキモノを間近で見たのが初めてだった。

「あの手のイキモノはな?佐倉さん。女性と見れば口説き、しかも口説いてる相手の話さえ聞かないものなんだよ。」

 愉しげに、今度は高峰が解説した。解説だけ聞けば高峰も同じイキモノだが、何かが違うとマユミは思った。

「だが高峰………部長は、…………失礼。何でも有りません。」
「…………。その謝罪は……アレと俺を同列に置いたと云う事か?温厚な俺も怒るよ?お嬢さん?」

 うっかり友人として口を開いたマユミは、更に自身の現状をやっと思い出した。
 僅かに顔を引き攣らせた高峰は、マユミがうっかり呼び捨てにしかけた事実には気付かなかった様では有るが、微妙な間に勘違いをした。真弓だった頃ならばネタにして揶揄うのも有りだろうが、現在の立場でそれは無いだろう。性別の差以前に、親しくも無い相手に向ける揶揄いのネタでは無かった。無礼極まりない。
 とは云え、アレと同類扱いした女と思われれば高峰はマユミに小さな悪意を向けるだろう。仕事に私情を持ち込む人間では無いが、居心地が悪いの思いはさせられるだろうと考え、マユミは本音をオブラートに包んで口にした。

「逆ですよ。失礼なのは確かですから言葉を慎んだだけです。」
「逆なら許すから何を云おうとしたのか、はっきりと云って欲しいね。」

 高峰はマユミを追及して来た。誤魔化しを許さない眼差しが、微笑みの中に浮いている。あんなのと同類扱いされたと思えば許せないのだろう。
 実際にマユミが何を云おうとしたか、口にしない限りは解放されそうも無かった。
 面倒な奴だとマユミは嘆息した。

「高峰部長も女性を見れば口説くタイプの方に見えますが、アレと違って普通に人間に見えると云いそうになりました。そちらが追及為さったのですから、失礼をお詫びする気は有りません。」

 真弓としての発言ならば、更に失礼な発言が増加していただろうが、佐倉真由美の発言としてはコレだけでも充分に失礼だろう。しかし追及したのは高峰である。無礼を詫びる気は更々無かった。それはこの発言に高峰が怒らないだろうと知っているからでも有る。
 高峰は微妙な表情をしたが、怒りはしなかった。代わりに怒気を露にしたのは木崎である。

「何故知ってるんですか?口説かれたんですか?」

 マユミは疲れた様に吐息した。面倒臭くなって多少ぞんざいな口調になったからとて責められはしないだろう。

「違う。単なる観察の結果です。」
「本当ですね?」

 木崎が怒気を向けたのはマユミに対してでは無い。高峰に対してだ。

――こいつは上司を一体何だと考えているのだろう?

 マユミは思ったが、もはや指摘する元気も無かった。それ以前に現在の自分も木崎の部下なので、今一つ発言する権利に欠ける現状がまた疲労を蓄積させた。
 頭痛を耐えるマユミの表情に、高峰は微妙な表情のまま微妙な言葉を向けた。

「まあ。人間扱いされてるなら良かったよ。」

――何だそれ。

 マユミは胡乱な眼差しで高峰を見上げた。何故かそんな言葉で事を納めた高峰は、マユミに同情している風だった。
 確かに同情されて然るべき立場では有るが、何に対する同情かは考えたくも無かったマユミだった。

☆☆☆

 前日会長室で遭遇したイキモノは、至って爽やかな笑顔でソコに居る。
 管理部業務課。
 名ばかりの役員が朝から訪問すべき部署では無いし、居座る場所では更に無い。

 その場所に居る全ての人間の、心をひとつにする。そんな役目を、そのイキモノは果たしていた。
 ひとつに成った心はこう告げる。

――邪魔。

 とにかく邪魔だった。そして、マユミ以外の社員はマユミに同情もしていた。
 三人娘の内一人は自他共に認めるミーハーで、尚且つハッキリキッパリ面食いだ。大概の場合ならば、キラキラの王子さま面の役員が女子社員に付き纏う事態は、女子社員の意思を無視して応援対象に成りかねない。
 その女子社員がマユミで有る事も、恐らく彼女のミーハー心を刺激するだけに違い無かった。

 今回ばかりは、他社員同様の迷惑顔を隠しもしなかった。


「美しい花園ですね。目移りしそうな花の中でも、貴女の輝きは私を捕らえて離さない。」
「……………。」

 会長室では隙を見せたが、と云うより、このようなイキモノの存在に唯驚くばかりだったが。
 今日は伸ばされる手を全て躱し続ける事に、マユミは成功していた。
 女子社員に対して、その王子面がアピールの役に立たない程、言動が普通から大きく逸脱している。

「アレが所謂(いわゆる)勘違い系の残念な美形…………。」

 女子社員を代表して太田が呟き、その呟きが聴こえたらしき同僚が重々しく頷いた。

「寧ろ痛い系。」

 続いた呟きにも頷いた女性は、一応は後輩に窘める視線を向けた。残念な美形役員を庇った訳では無い。下手に本人に聴かれたら絡まれて更に仕事にならなく成るのではと危惧した故だった。
 マユミはそんなやり取りを聞き流しつつ、残念王子の一挙手一投足から意識を逸らさず仕事を続けた。
 ウッカリ捕まったらダメージが大きそうだったからだが、喩えマユミでも一切仕事に集中出来ない状態は精神に負荷が掛かる。
 若い頃はともかく、目の前の仕事「だけ」に集中する事は滅多に無い。必要な部分に見逃しは無いが、視野を広く持つのは管理者として必須条件だ。
 周囲の状態に注意を向けるのは、もはや無意識に為される事で、そこに負担は感じないマユミだった。
 それを自覚しているマユミでも、残念王子を警戒し続ける事態は非常に不快且つ負担になりつつ有る。

 不快はともかく負担になるのは何故か?
 やはり不快故の負担と云うべきなのだろうか。

「……。」

 波多野から受け取った書類を見て、岡村に視線を向けると心得た様に素早く寄って来た。

「岡村さん。16時迄に前月分と昨日迄の売上は洩れなく上がりますか?」
「今のところは……。」

 微妙に不安そうなので、マユミは内心疑問に思う。短い交流でしか無いが、岡村は自身の仕事量と力量を把握しているし、ハッキリと物を云うと理解していた。
 ふと思いついて尋ねる。

「営業から上がって無い売上が有る?」
「もしかしたら、と思います。谷村さんと、三上さんが、昨日の売上が午前中の分だけです。後、佐伯さんが先月の目標に不足しています。他は多分そこ迄増えないと思いますが。」

 当の営業部から上がって来てないのなら、ハッキリ云えないのは仕方ないだろう。

「現在有る分は昼迄に入力出来る?」
「厳しいです。昨日夕方に結構来たので、頑張って14時か下手したら15時かと思います。」

 マユミはそれを聞いて、無理だな…と断じた。山里を呼ぼうと視線を巡らせると、呼ぶ迄もなく席を立ち小走りに駆け寄って来た。

――なんか子犬みたいだな。

 和む視線が山里に集中したが、そこを邪魔する異端者が存在した。

「お花さんの集まりに私も入れて欲しいな。」

 背後に歩み寄る気配に、マユミは何度目か解らないが場所を移す。
 然り気無く移動して、会話相手の彼女たちを盾にしているとも云えるが、ターゲットはハッキリとマユミに定まっているので苦情は無い。
 一応見ない振りを貫く二人の女性は、マユミが細かく移動する度に、足の位置と向きを変えてついて行く。コメントは無い。二人の女性の向こうに見える、異なる星に住む謎の生物を、マユミは当然乍ら存在しないモノとして扱った。

「山里?」

 うっかり呼び捨てにしたのは、山里が蛇蝎を忌むような鋭い視線を異星人に向けていたからだ。
 しかしマユミの声に、山里はすぐさま子犬の如く真っ直ぐな眼差しでマユミを見下ろした。

 間近で、互いに立って話をするのは初めてだったので、見下ろされた事実にマユミは軽く衝撃を受けた。
 もちろん表情には出さない。

――結構、番犬だな。

 子犬のキラキラした表情に、先程の視線を気の所為かとも思ったが、岡村と波多野が一歩後退り、周囲の引き攣り笑顔に現実を見据える。
 面倒だと思いつつも、木崎を忠犬と可愛いがるマユミが、番犬の能力を発揮した子犬に怯む訳も無かった。
 思わず頭を撫でてしまったのは、ご愛嬌と云うものだろう。

「売上原価に関係する仕入れを急ぎつつ、売上の手伝いをしてくれますか?」
「は、はい。」

 まさか社会人になって頭を撫でられる経験をするとは思えなかったのだろう。アタフタした山里に、少し反省したマユミである。真弓時代からの癖だが、可愛いものはつい撫でてしまうのだ。流石に女性の頭を公の場で撫でるのは問題があった………が、よく考えれば現在のマユミは女性であるから男性の頭を撫でる方が余程問題だろう。
 その事に気付いたマユミは、複雑な心境乍ら可愛い部下が可愛いままで無い事と、うっかり撫でそうになっても思い止まるだろう身長差を思う。

――嬉しくないが。

 この場に居ない真弓の可愛い部下を連想すれば、現在のマユミは溜め息が漏れそうになる。
 見上げるのは不快では有るが、救いでも有るのだろう。現在の木崎はマユミに対して極めて不快な存在で有るが、やはり可愛い部下には違いない。うっかり撫でたりしたら更に不快な出来事を呼び込みそうな予感もするので、身長差は自らの行動を顧みる良い材料かも知れなかった。
 そんな事を考えつつも、マユミは然り気無く立ち位置を移して残念な美形を避け、照れた様子の山里に指示を与えた。

「14時になったら原価に絡む仕入れも後回しにして下さい。違っても構わないから営業が叩き出している原価通りに、無ければ特価以外の前回仕入れ値で入力して下さい。意味は判りますか?」
「はい。」

 頷いて、マユミは岡村を見る。

「後日、直接入力した伝票は仕入れ入力後の原価にリンクして下さいね。判らなくならない様に、14時になったら設定を切り替えて、直接入力にすれば後日一覧で出せます。もしも間に合う様なら、山里さんに仕入れを優先するように伝えて下さい。多分無理でしょうけど。」
「はい。………私も無理だと思います。」

 いつもハキハキした岡村が虚ろに笑った。愛らしい顔立ちは寧ろアイドルみたいな解りやすい美少女顔なのに、何故か体育会系の後輩じみた女である。小柄な童顔は元気な小型犬に見えるが、しょんぼり落ち込む姿は慰めの感情よりも笑いを誘った。
 喉の奥で含み笑えば、ムゥッと睨むそのふくれた顔も可愛らしい。
 隣に立つ波多野も同様に感じたのか。

「失礼。」

 吹き出した後、涼しい顔を取り戻して小さく謝罪した。

「佐倉さんも先輩もヒドイですょ!私の不倖が楽しいですか!?」

 プンスカ怒る小型犬を無視して仕事の話を続ける波多野とマユミ。岡村が怒る理由に気付かず首を傾げる大きな子犬。

「今月分はある意味ついでですから、多少はずれても構いません。山里さんも岡村さんも、仕入れ原価ですが、前月回しの伝票があった場合は後回しにせず優先して下さいね?」
「はい。」
「了解です。」

 多少不満そう乍らも、岡村も仕事だからはっきり頷いた。もちろん子犬は尻尾を振る勢いである。
 マユミは波多野に向き直り、念を押すように確認した。

「16時を目指すとして、遅れて16時半ですか。定時に間に合いますか?」
「前準備をしたら16時前迄は私も入力と書類整理に回りますから。ギリギリでは有りますが。」

 波多野は断言はしない迄も多分やれると頷いた。最悪でも一時間残業すれば平気だろう。

「波多野さんが定時は無理だと判断した時点で、連絡を戴けますか?一応確認に参ります。」
「はい。」
「定時が余裕なら確認と入力がし易い様に、会社別で。無理だと思ったら先ずは前月分優先にして下さい。それから、午後に突入してから3月の売上は受け入れないで良いです。」

 マユミの指示に、三人は揃って頷いた。
 マユミは次に原田のデスクに向かう。原田が引き攣る眼差しを見せた理由は、マユミに対してのモノも少しは有るかも知れないが、大半はマユミの背後に迫る謎のイキモノに対するモノだろう。

「課長。営業部に……。」

 言葉が途切れたのは、先程迄とは違い、大きく避けた故だろう。娘さん達の盾が無くなると、避けるのが難しいとも云える。壁が無いので物理的な距離を取るしか無く、相手が動けば動くだけ移動しなければならない。しかし目的は原田との会話だから、原田から距離を取り過ぎるのも問題だ。

「お手数ですが、原田課長。こちらに……。」

 いらして戴けますか?そう続く言葉は明らかだった為に、原田は不承不承立ち上がった。
 部下に命じられたのが不服なのでは無かった。マユミに対してそんな常識的な思考を持てる程の気概など原田には無い。
 役員の邪魔をしたく無いだけだった。
 大袈裟に阿る事もしないが、逆らう事など以ての外。原田は長いモノに巻かれたい人間だった。
 強者に逆らうことはしない。適度に媚を売り、出来れば余り関わらず、原田は平穏無事に生きたいだけなのだ。

――なのに何故?

 と、遠くを見詰めて原田は思う。

 原田の周囲には、非凡な人間や関わりたくない相手がよく出没するのだ。もはや諦めの境地で、部下の筈の若い女性の盾となりつつ、会社のパンフレットでしか見た事の無い名ばかり役員に睨まれた原田だった。

「営業部には連絡しましたが。」
「念押しの連絡をお願い致します。加賀見部長一人で良いですから。12時10分前迄に提出されない売上は受付不可です。」
「そ………別の部長じゃ駄目でしょうか?」

 無理無理無理!!と怯えた小鹿の如き原田に、マユミは嘆息した。

「意味が無いでしょう?」

 そんな事は解りきっているでしょう?とばかりに云われ、事の外苦手とする営業部長に原田は脂汗を垂らした。
 困った奴だな……と、そんな台詞が聴こえそうな苦笑に、縋るように原田は云った。

「佐倉さんが連絡して下さる訳にはいきませんか?」
「………仕方ないですね。」

 謎の美形役員の盾と成るだけでも、原田の気力はガツガツと削られている。更に加賀見に対決する気力は無いだろう。

――俺も甘いな。

 そう思いつつ、マユミは伝言を請け負った。

「ならば業務課からの通達の形で、加賀見部長に連絡させて戴きます。」

 助かった!と原田は辛うじて生気を取り戻した笑顔を見せた。

「お願いします。」

 もはやナチュラルに敬語か丁寧語で接してくる原田から、マユミはそっと視線を逸らせた。何だか色々と手遅れな気もするが、平穏無事を目指したかったマユミとしては、原田の言動は見習うべきだが決して届かない目標とも呼べた。

 基本的に負けず嫌いで喧嘩上等のマユミが、逃げ腰を基本姿勢とする原田を見習うなど出来る筈も無かった。
 それでも亡くなる前の真弓ならば、年齢に因る落ち着きと闘争本能の衰えが無いでは無かったのだが、最近のマユミは若い活力を取り戻しイケイケ気力が満タンなのだ。

――不味いな。大分諦めてはいるが………少し自重しないとヤバそうだ。

 今更少しの自重に何の意味が有るのか。
 マユミの内心が周囲に聴こえたならば、きっと同じような突っ込みが全員の心に浮かぶに違いあるまい。口に出せる勇者が存在するかどうかは不明だが。


「………波多野さん。済みませんが…。」

 営業部長に連絡をしようとして、異なる次元の言語を操るイキモノが寄って来たので取り敢えず逃げたマユミは波多野を見る。
 波多野は心得た様に卓上の携帯を取り上げ、逃走中のマユミが通り過ぎる先に手を伸ばし手渡した。
 営業部との連絡ツールである。
 社員が携帯するのは全て同機種な為、マユミも迷いなく操作出来た。

 懐かしい声だと感じたが、最後に話してからそれ程日を空けた訳でも無い。
 だが、マユミは真弓だった時が、どんどん遠くなるのを自覚していた。
 心が、気力が、魂が若返り、真弓として過ごした年月に実感が伴わなくなってきた。記憶は確かに有るのに、寧ろ……もっと遠い筈の若い頃の真弓の方が記憶に新しく感じられる。

 実際に近い記憶と思い出すのではないだろう。現在のマユミが、その頃の真弓に近いだけだ。だからといって、完全に共感もしない。経験を積んだ感性は老成した真弓のまま、気力と体力が若い頃の真弓に還り、活力に引き摺られて感性も若い日を錯覚する。

「業務課の佐倉と申します。お疲れ様です。」
『ああ、お疲れ。』
「先日業務課より伝達した件ですが、再度確認のご連絡を差し上げております。」
『うん?』
「12時10分前迄に提出されない売上は、一切受付けませんので、ご了承とご協力の程お願い申し上げます。以上です。おつ」
『待て。待て待て。』
「かれさ……。」

 ちっ。
 切断しそこねた通話に内心舌打ちしつつ、マユミは淡い笑みを口元に浮かべたまま、ゆっくりと業務課の室内を徘徊した。
 もちろん。
 謎の生物が何やら謎の言葉を紡ぎ乍ら追い掛けて来るからである。

「何でしょう?」
『少しくらい目溢しが有っても良いと思わないか?』
「さようでございますね。」
『だろう?』

 ニヤリと嗤う不敵な笑みが、目の前にするかの如く思い浮かび、マユミは懐かしく眸を細めた。

「ですから今日の12時なのでしょう?」
『……へえ?君、名前は何だったかな?』
「名乗り忘れましたか?それは失礼を致しました。業務課、または経理部の佐倉真由美と申します。」
『今日の12時は猶予を与えてるって?』
「もちろんです。本来ならば、翌日には提出して然るべき書類ですから。」
『営業の仕事を舐めてるのか?こっちにはノルマが有るんだ。それに売上は会社の為でもある。協力するのが筋だとは思わないか?』

 相対する人間を小莫迦にする眼差しと黒い笑顔を容易く想像出来て、マユミは見えない視線に対抗するようにニッコリ微笑んだ。
 その笑顔を運悪く目撃するのが原田の原田たる所以だろう。
 座ったまま、椅子ごと後退った。
 当然三人娘も目撃した。
 波多野は流石と頷いた。岡村は小さく悲鳴を上げ、山里はキラキラした眼差しでうっとりと見詰めた。

 丁度、部署内のデスクを盾に徘徊中だった為、正面とは行かないが、右斜め45度でバッチリ目撃したのは残念王子だった。
 その瞬間足が止まり、意味不明乍らも追跡者が停止したからマユミも停止した。
 原田に正面の笑顔を向けたまま、三人娘のデスクの向こうに立った若い女性が、営業部長と会話を続けていた。

「別に会社としては、先月でも今月でも構いません。寧ろ早く仕事を進める為には、今月の売上にして戴きたいところです。ノルマを考慮するからこそ、効率を無視してお付き合いして差し上げているのです。そちらこそ、裏方の助け無しに仕事が出来ると思わない事ですよ?」

 うわあ……と、原田はその台詞にもドン引いた。
 何処でスイッチが入ったモノか、お怒りモードの最強の部下に、連絡を任せた事を半分後悔した原田だった。
 暫くは、絶対に加賀見部長と遭遇しないようにしなければ………と原田は考えた。因みに、いつもは出来るだけ遭遇しないように………と考えている。

 ドン引いた原田を目の当たりにして、マユミは我に帰った。

――しまった。

 と思い。

――まあ良いか。

 と諦めた。
 自分に原田の生き方は難しい。マユミは五日目にして開き直りつつあった。
 五日保ったと云うべきか、五日も保たなかったと云うべきか。それでも、もしもこの身体を返却する時が来るならば、倖せな人生の邪魔にならない行動を心掛ける気持ちは未だ残っていた。
 どう考えても、そんな心掛けに意味など無いのが現状だったが、マユミは現実からそっと視線を背けていた。

『………佐倉真由美…だったか?』
「…………ええ。それが?」

 完全に諍いフラグを立てたかに思われたが、聴こえて来たのは存外物柔らかな声だった。マユミは眉を寄せた。マユミが知る加賀見は、女性相手であろうが容赦が無い性格だ。

――悪いモノでも食ったか?いや、歳か。

 マユミ自身も、真弓としては最近専ら平和な日々だった気がする。原田辺りは否定するが、真弓の闘争本能はかなり衰えていた。

――今は何故か復活してしまったが。

 若い頃の活力を取り戻し、喧嘩っ早さまで甦り、これは本当に気を付けるべきだと自省する。
 倖い喧嘩上等な姿勢が自身以上の存在だった加賀見は、年齢に拠り衰えたらしい。穏やか声音に、マユミは安堵した。
 一応は、平和を望む気持ちに嘘は無いのだ。

『名前と声は覚えた。営業部に遊びに来る日を楽しみに待ってるよ。』
「………忘れて下さって構いませんよ?」
『絶対忘れないから安心しろよ。』

 加賀見との交流は平穏と遠い気がする。どう考えても「たらい回し」を意識した「遊びに来る日」発言に、マユミは乾いた笑みを浮かべた。
 本当に穏やかになってくれたなら万々歳だが、もしかしたらフルボッコを先送りにされただけかも知れない。

――本気で自制心鍛えよう。道場行こう。確かこの辺りに有った気がする。

 昔嗜んだ流派と、同じ道場が会社の近辺に有ると聴いた記憶が微かにある。同窓会で運動不足を反省する発言をしていたら、学生時代同じ道場に通った友人に教えられたのだ。

――探してみるか。

 そう思い、加賀見の事は取り敢えず記憶から抹消する事として、マユミは波多野を見た。
 心得たように、波多野は手を伸ばした。
 当然乍ら、波多野と岡村の背後には謎の生物が立ち尽くしていたから、マユミは近付けなかったのだ。

☆☆☆


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