小説『真弓が真由美になりました』
作者:みき(かとう みき◆小説部屋◆)

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030◆13話◆五日目午後〜誰かこの莫迦を何とかして下さい2
※長いです。

☆☆☆

 いつも通り母の人手製のお弁当を取り出そうとしたマユミだったが、そんな事をしていたら確実に捕まりそうなので断念した。
 何に捕まるかは云う迄も無いだろう。

 マユミにとっては睨み合い、ニコヤカに笑う相手にとっては見つめ合い。逃走経路を脳裏に描きつつ、苛立ちを顕わにした眼差しのマユミを救出したのは三人娘である。

「さあ行きましょう!」
「あそこのイタリアンはランチ美味しいですよ!」
「………!」

 平和な会話だが殺伐としていた。特に無言で誰かさんを睨む山里が。
 いけ図々しいエイリアンも、女性相手の時は男性が盾の時よりも比較的大人しい。
 もちろん割り込もうとするのは変わらなかったが、発言しようとすれば声高に話す二人に邪魔をされ、山里には威嚇され、当然乍らマユミからは完無視された。

 置いてきぼりを食らった名ばかり役員、容姿だけはキラキラしい美貌の男性。
 マユミを呼び止めようと上げた片手が非常に虚しく下ろされたのを、残された業務課の男性陣と野次馬な管理課の人員が見守っていた。



 懲りずに直ぐ様後を追う役員に、そのバイタリティーだけは素晴らしいと周囲は揃って感心した。


☆☆☆

「有難う。今日は迷惑をかけました。」

 残念王子を振り切って、やっと一息ついたマユミだった。
 三人娘は揃って首を振る。

「いえ。悪いのはアチラですから。大丈夫ですか?顔色が悪いですよ?」

 心配そうに告げる波多野の労りに、マユミは微かに笑みを浮かべて頷いた。

「少し休めば大丈夫です。あのイキモノが居ない場所で……との条件下に限りますが。」
「………イキモノ。」

 笑みの向こうに垣間見えた剣呑な光に、岡村は表情を僅かに引き攣らせたが、気を取り直すように明るい笑顔を浮かべた。

「や、でも。私は佐倉さんとお昼出来るのは、ちょっと棚ぼたで嬉しいかなと思います♪」

 多少ムリヤリな笑顔だったが、気持ちに嘘は無い。故に、他の二人も共感したように頷いた。

「私も嬉しいです。」

 ワンコな山里がヘニャリと笑う。緊張が抜けた山里の笑顔は一歩間違えばだらしない印象に成りかねないが、元が派手系美女なので程よく余計な険を取り去って、愛嬌に満ちた魅力を振り撒いた。
 端的に云うならワンコに見えた。
 うっかり手が伸びそうだったが、撫でたくてウズウズする手を、辛うじて抑えたマユミだった。

 我慢出来なかった岡村が悶えて山里に抱きついていた。
 キツイ顔立ちだが、その険より気怠さが勝る美女なのに、中身は不器用な子供だと知れてから。
 山里は業務課の子犬として愛玩される小動物としての地位を堅めつつあった。
 生温く見守る波多野とマユミだったが、マユミは内心ちょっと羨ましいと思っていた。
 好みのタイプとは違うが山里は美人だし、何より可愛い子犬だとマユミの認識も固まっていたからだ。

 因みに。
 四人が腰を落ち着けた店はイタリアンでは無かった。
 もしかしたら、あのイキモノは今頃、この界隈のイタリアンの店に出没してマユミの探索をしているかも知れなかった。

 当然、三人娘の狙い通り、作戦通りなのである。

 この店に落ち着いて、波多野と岡村が音高くハイタッチをした。
 山里は何故か軽くハグされていた。
 はしゃぐ声に、単純では有るが効果的な作戦を知り、マユミは感心した。
 彼女たちは、打ち合わせもせずにマユミを取り囲んだのだ。

 女性が結束すると恐ろしいと云うが、それは本能で結託するからだとマユミは考える。そこには緻密な計算も何も無い。あのイキモノを嫌うのも、理屈抜きに単純に「気に入らない」からだと云うに違い無かった。
 しかも、二人にとって山里はつい最近まで反感の対象だったのに。
 現在はスッカリ仲良しチームである。
 他愛無い雑談と呼ぶには容赦が無さ過ぎる「謎生物」への「悪口」をマユミは聞かなかった事にした。

 女性を敵にすまいと思うのは、こんな時だ。
 マユミは少しばかり引き気味だったが、彼女たちが味方で有ることには感謝と安堵が生まれた。
 自分をエイリアンから救い出してくれた三人娘が楽しそうにメニューを囲む様子を眺め乍ら、マユミは漸く嫌な視線から逃れられたとばかりに、ゆっくりと息を吐いた。口元にはゆるゆると苦笑が浮かび、その笑みは些少の困惑が含まれたが、嫌な感情は無かった。

――しかし元気だな。

 理解し難いイキモノの所為で、マユミの食欲は減退していた。
 それでも午後から働く体力を得る為には食べるべきだろうと、ほぼ義務感で食事を摂取すべきだと考える。マユミは三人娘のお薦めを適当に聞き流しつつ、碌にメニューも見ずに受け入れた。

☆☆☆

 捕まる前に移動したかったのだが、残念乍らそのイキモノは業務課にて既に待ち構えていた。
 マユミは内心舌打ちした。
 憩いの一時は終了のようである。

 エレベーターで二人きりに成るのは流石に遠慮したい。マユミが経理部に向かう手段として階段を選択したのは至極当然だった。


 別に危害を与えようとは思わなかった。一応どんなイキモノであろうとグループの役員相手に喧嘩を売る気も無かった。
 マユミの体はマユミのものでありつつマユミのモノでは無い。その人生に瑕疵を与えるつもりは無かったのだ。

――こっのクソガキが!

 マユミは盛大に舌打ちした。ウッカリ投げ飛ばしたが、余りにもキレイに華麗に飛んだので驚いた。
 もはや云い訳の仕様も無い暴力沙汰である。

 しかし。
 原因は何処から何処までもこのキラキラしい美貌の持ち主にある。
 こんなにも美形なのに女性陣を辟易させる天才で、その癖………何故か何をしていても無様さとは無縁の男だった。

 やっと邪魔者が居なくなって、介在するのはその空間だけ、距離をつめマユミが発する空気を無視すれば容易に触れる事が出来る。
 普通の男ならば、怯むに違い無い殺伐とした視線が振り返っても、男は嬉しそうに破顔して伸ばした手を引くことをしなかった。

 退くべき時に退けないヤツは怪我をする。

 当たり前にマユミはその手首を取り。
 階段の段差が有ってもなお高い位置にある相手の眸を睨み付け、体を反転させ腰を落とし素早く…力強く。
 立ち上がり様に、……途中で疑問が脳裏を掠めたが。
 加速がついた物事は早々停まらないのが原則である。
 何故か。
 容易に相手の身体は持ち上がり。
 非常に華麗な一本が決まった。

 投げ飛ばしたマユミ自身が。

――何でだよっ!?

 階段の踊り場の壁に激突して、呻く美形に内心で突っ込んだ。


 倖いと云うべきか、問題になりそうな怪我も無く、頭も打ってはいない様子だった。
 痛みに呻きつつ立ち上がりかけた男に、蹴りを入れて沈めたのは防衛本能だ。
 既に一度投げ飛ばしたからには、二度も三度も同じだろう。
 明確に考えが纏まる前に足が出たが、そこは仕方のない話だ。

――仕方ないよな?か弱い女性なら当たり前だよな?

 云い訳じみた事を呟く内心とは裏腹に、意識を失った男を見下ろすマユミの眼差しは冷ややかだった。そのまま暫く思考を巡らせた後。
 マユミはその存在から、そっと視線を背けた。
 無かった事にして、経理部に向かう残りの階段を登り乍ら。

――この娘さん。何か武道やってたっぽいな。

 肉体の本来の持ち主に思いを馳せていた。
 自身が宿る肉体である。生活している上で、全く気付かないでは無かったが、ここ迄動ける身体だとも思っていなかったので、軽い驚きがある。

 一応。
 経理部の室内に入室すると共に、高峰に会長への伝言を依頼したマユミだった。

 身内に回収させるのが筋だと考えたからである。

――首かな?

 一瞬そう考えた。
 真弓の時ならば考える必要も無かったが、新入社員だから一応心配してみた。
 だが。

 すぐに困ったような笑みが浮かんだ。

 マユミは、会長の物好きを知悉している。
 この事態も、会長を面白がらせこそすれ、怒りを呼ぶ事は無いだろう。

 興味を引く事態は遠慮したい。が、確実に会長が眸を輝かせる様子が脳裏に浮かぶ。会長に対する信頼感は有れどその性質の悪さに、迷惑を感じて困ったように眉が寄り、それでも好意は消せずに眼差しが弛んだ。

 会長の興味を引きたくない等と、既に考えても無駄でしか無い事を。
 マユミは気付かないと云うよりは、気付きたく無いと云うべきか。
 今更でしか無いのに、真面目に心配した。

☆☆☆

「木崎主任。今日はお時間戴けますか?そうですね……19時か遅くとも20時迄には終わらせます。」
「はい。わかりました。」
 目的も何も聞かず即答する木崎に、マユミは疑問を持たない。それが端から見てどう映るかなど、マユミの思考の埒外だ。
 木崎が自身に従順なのはマユミにとっては当然過ぎて、疑念の浮かびようも無い事柄なのだ。現在のマユミが以前の自分で無い事を自覚しつつも、佐倉真由美に対する木崎もまた忠犬化していたから、真弓に向けられた事の無い恋着でさえ無ければその従順さが「異常」だと思い至らない。
 結局は、完全に新しい自分にもなれず、かと云って以前のままで居られる筈も無く、非常に中途半端な均衡が生まれていた。
 木崎がマユミに従っていても、それが真弓に対する気持ちとは似て非なるモノだと頭では判るが気持ちの上では理解しきれるものでは無い。
 無自覚のままマユミは木崎に相対して、当たり前の様に指示を出していた。

「三田村さんと長瀬さん。出来たら塚迫さんも呼んで貰えますか?取り敢えず打ち合わせしましょう。」
「はい。小会議室で宜しいですか?」
「いや。奥で。」
「ではパソコンも立ち上げておきます。」

 当たり前の会話が当たり前に成される事に、今や違和感さえ抱かない木崎と、それに引きずられて真弓として振る舞うマユミの様子を。
 会長に連絡を取った高峰が、見つめてくる眼差しにマユミは気付いた。
 愉快そうな眼差しは見慣れたものに見えて、全く違う冷めた感情が眸の奥に垣間見えた。
 一瞬ヒヤリとする。

 周章てて、自身の言動を顧みるマユミである。
 佐倉真由美になってから、まだ知らない筈の事柄を口走ってはいないかと、ゆったりと微笑みを浮かべ乍ら焦りを押し隠して考える。
 思考を巡らせ、大丈夫だと認識したマユミは、安堵の吐息を飲み込んで高峰のデスクの前に立った。立ち上がろうとする高峰を目線で制するが、その仕草は既に衆目に晒されている。
 そんな事にも今頃気付いた。

――原田では有るまいに。

 マユミはそう考えて自嘲する。
 高峰がマユミをわざわざ立ち上がり接する理由。あまつさえ室外にまで送迎までして「見せた」理由。木崎のマユミに対する傾倒を、黙認どころか煽りかねないその理由。

 今まで気付けなかったのは、高峰の態度が自然だったからか、親友に対するマユミの油断か。
 その内心の苛立ちとも焦燥ともつかぬ感情を、しかしマユミはチラとも覚らせない穏やかな笑みを浮かべている。

「部長。会議資料の件ですが、本人の了承を得たら残業お願いしても宜しいですか?」
「どうぞ?」

 当然乍ら高峰を立てて、マユミはお伺いをたて。高峰はマユミを信頼して任せる。
 茶番劇は、いつから始まったのか。
 自身が傍観者ならば、お互いに笑みを浮かべる様子が化かし合いのような光景に映るだろうとマユミは思う。

――これは会長の指示か。それとも高峰の意志か。

 どちらにせよ。入社数日にしてマユミの平穏を奪った理由は、高峰の態度によるところも大きいのだろう。
 そう思った。
 いや。やっと気付いた。
 木崎のソレは、確かに騒がれるだろうが単なる恋愛沙汰だとも云える。
 高峰の然り気無い言動が、木崎のソレをより大きく煽っている。

――木崎も高峰の思惑に気付いて利用してる風なのがまたムカつくが。

 マユミを特別だと認識させる為の、確信犯のような言動。
 意識してみれば気付かない訳も無く。
 自身の愚行も重なったからには、開き直り乗ってみたのが今の状況とも云えた。

――いや。乗ってねえけど。今まで気付かなかったのが本当だけどよ。

 高峰の性質の悪さは知悉しているのに、真弓自身に向けられる事が無かった為に失念していた。

――今の俺は、こいつの親友でも何でも無い。

 心が微かに軋んだが、それは紛れもない現実だった。高峰の観察する眼差しに、親友に対する弛みが無い。
 当然だ。少しばかり好意的であったとしても、所詮は一週間足らずの付き合いでしかないのだ。

 信頼も、情も。
 育つには短すぎる。

「打ち合わせに奥をお借りしますが、部長もお時間大丈夫でしたら如何ですか?」

 だから。
 判りやすく。理解もし易い、返答を貰う為の発言をしてみる。
 木崎はともかく、高峰のソレが、思い過ごしか否かの確認も兼ねて、マユミはうっすらと笑みを浮かべて挑発した。
 味方では無い高峰は、警戒必須の要注意人物でしか無い。

――例えば……………会長の走狗と云う意味で。

 口に出して何と告げようとも、真弓正孝は会長に心酔に近い敬意をはらっていた。高峰もそれは同じ事で、実のところかなり傾倒しているのは間違い無かった。

――この二人が組むと、性質(たち)が悪い。

 これまたマユミと同様に、その傾倒を素直に表現しない高峰は、単に忠実な部下としてより愉快犯的思考の同調が協力体制を強化する。
 マユミの言に高峰は笑った。
 ニッコリと。
 高峰らしくもない爽やかに作った笑みを見て、マユミは「やはり」と確信に近い思いを抱く。

 誰もが理解する、判り易い言葉が、高峰の口から発せられた。

「いや。会長に呼ばれてるんでね。全てあなたに任せますよ。」
「では明日報告致します。」

 信頼に対する謝辞は、口にしたくも無かった。それでも頭を下げて謝意を示し、内心の苛立ちを誤魔化したマユミである。
 いつの間にか、高峰がマユミを担ぎ上げようとしている。
 しかも、丁寧な言葉を混ぜた返答は、当然何かしらの意図が有るだろう。
 マユミが入社して、ほんの数日。その間に会長からどんな示唆を受けたのか、高峰の言動を思い出しつつマユミは推察する。

――まさか。

 流石にそれは無いだろうと思いつつ、会長ならばそんな莫迦な真似をしかねないとも考える。
 真弓正孝にそうした様に、佐倉真由美にも「たらい回し」が仕掛けられようとしている事にマユミは気付いている。

――たらい回しの後は。

 有り得ない出世。

――例えば……高峰が移動して、俺がまた部長か?

 信頼する部下に対する言葉では無く、蔑ろに出来ない相手に対するかのように、言葉遣いを改めて「みせた」高峰の態度を脳裏に再生して、マユミはその理由を推測する。

――その為に部長にしたか。

 元々、高峰は営業部の所属だった。真弓正孝の引きで経理部に移動したが、営業部長にとの声は正当な評価だったとマユミは知っている。
 しかし、営業部を離れて久しい高峰が昇進するには目に見える功績が必要だ。
 しかし、先に昇進させておいてから営業部に「戻す」のならば話は別となる。

――流石に。

 と、マユミは思う。

――小娘の下には付かないか。

 高峰のフォローは絶品だった。マユミ一人で可能だとしても、面倒な対話を重ねなければならないだろう「お話」も、高峰がいれば驚くほどスムーズに手早く済むのだ。
 得意先や仕入先との取引だけでは無い。高峰はマユミが必要とするところを理解し、勘を掴むのが早かった。高峰と組めば、銀行折衝もマユミはかなり楽が出来た。
 マユミを人誑しだと云う人間が居るが、マユミに云わせれば高峰こそがその言葉に相応しい。
 高峰は決して清廉潔白な人間では無い。寧ろ人の悪い笑みが標準装備で、しかも頭が切れるからには警戒を誘うのが当然の人物だった。
 決して油断出来る相手では無いし、誰も高峰に油断などしないのだが、何故かいつの間にか懐に入り込み近い距離で話をしているのだ。
 憎めないキャラクターでも有り、油断は出来ないと理解しつつも何処か無意識の部分で信頼してしまう。
 そんな相手が取引相手なら、間違いの無い条件が出されれば、もはや拒否の選択肢が出てくるほうが稀だった。

――あれも一種のカリスマだよな。

 マユミは、人の心の機微に敏感だったし、その長所や特性もよく見ていた。人の心を掴むのと同様に、その人を見抜き使う事にも長けていた。
 しかし己がカリスマ扱いされていた事には、気付いてはいても理解は薄い。

 友人を一人失った自覚に心を痛めたが、その友人を取り戻せる可能性には思い至らなかった。



 興味深そうに自身を見つめる、眸の奥に宿る高峰の感情の薄さに、本日漸く気付いたマユミだった。単なる事象を面白がるだけで、当たり前だが友人を見る「情」を含まない眸。そういう意味では冷め切った眼差しに気付いて、自身が結構傷付いている事実にマユミは少しだけ驚いていた。

 高峰はずっと、そばにいるのが当たり前の友人だったが、佐倉真由美の友人では無い。
 そんな当たり前の事実を、心の部分でやっと理解し受け入れたのだ。

――俺は、生きてんだけどな。

 そう。
 マユミは確かに生きている。
 しかし。

 真弓正孝は死んだのだ。


☆☆☆

「え、じゃあまだ売上揃って無いんですか?」

 長瀬の台詞は三人を代表したものだ。木崎は気付いていたようで、微かに不穏な気配を湛え乍らも、マユミの面前だからと笑みを浮かべて黙っている。
 途方に暮れたのは長瀬を始めとした塚迫、三田村の三人だ。

「あの……3月資料は、やり直しですか?」
「売上が絡む部分は誤差範囲に収まらないと思って下さい。新規契約も含むと思われます。」

 マユミが淡々と告げれば、塚迫が眉を寄せた。

「新規って、得意先の事……ですよね?」

 云わずもがなだが、念を押すように訊かれてマユミは頷いた。

「取り敢えず、1月迄は現行確定のままで。不突合は全部2月末の追加訂正をして確定して下さい。3月も売仕関連以外は軽くチェックを済ませておきましょう。」

 先ずは大筋を決めてから、個別に指示を与えるマユミに、木崎が確認する。

「業務の確定は何時ですか?当月分はともかく、3月が増えるのは戴けませんが。」
「午後は受付け不可にしました。入力自体は15時か遅くとも16時には終わるでしょう。3月の締めは先にする様に伝えてますから、済んだら波多野さんから連絡が来ます。」

 マユミの言に木崎は即座に頷き納得を示したが、長瀬がチラリと疑念を提示した。

「営業が割り込みませんか?その場合は押し切られる気がするんですが。」
「加賀見部長の確約を戴きました。」
「は?」

 長瀬が口先だけの丁寧語を忘れて目を瞠るが、木崎は当然とばかりに頷いている。マユミが根回しを忘れる筈が無いと思っているのだろうが、その信頼感は新入社員に寄せられる類いのものでは有り得ない。

――宇宙人に気を取られてる間に、何引き受けちゃってんだ俺は。

 会議資料の纏めを命じられたのは、会長の思い付きだろうとマユミは思う。会長室に呼ばれた理由は、寧ろ近くで「佐倉真由美」を見てみたいと云う程度の下らないものだろう。

――高峰辺りは、もしかしたらそれも会長の計算と取ったかも知れないけどな。

 会長室での宇宙人との邂逅直後の事だ。
 半ばパニックが収まらないマユミに、会長は愉しそうに命じた。

「そうそう。佐倉くん、いや佐倉さんさ。今までの会議資料見たよね?今回のは任せるから。」
「………営業会議の、ですか?」
「もちろん両方だよ。」

――ああそうかよ。

「金曜日の朝一で提出してくれるね。」
「畏まりました。」

 いかにもたった今、思い付きましたとばかりに告げられた言葉が、本当のところはどうなのか判りはしない。
 会長は基本的に「何も考えずにした面白ずくの思い付きを、如何にも計画していたかの様に」振る舞う人間だった。つまりは大抵の事柄が思い付きなのだが、計画ずくの時も同じようにするから周囲の誤解と感心は深まるばかりである。

――まあ十中八九思い付きだな。

 それが判るくらいには付き合いが深い。
 そして、佐倉真由美が新入社員の立場を盾に拒否しても、多分断り切れはしなかっただろう。

――うっかり素直に引き受けたが、拒否っても同じ結果なら手の内晒さずに済んだだけマシか。

 しかし。
 真弓が為した根回しは、佐倉真由美との約束では無いから当てにも出来ず、ギリギリの時期で自ら手を回さねばならなかった辺りが非常に不本意ではあった。

――もはや諦めているが。

 どう考えても佐倉真由美は新入社員の枠を越えた仕事をしている。

「加賀見部長がうんと仰有いましたか?直接?」
「ええ。それが何か?」

 長瀬が探る様にマユミを見つめ、ついで非礼を詫びるように微かに頭を下げた。
 再度上がった視線は、試す色合いを払拭した真面目なものだ。

――長瀬。簡単過ぎやしないか?

 それだけ加賀見の名前が大きいと云うべきなのか、長瀬が「自分」を認めた事実にマユミは内心で溜め息を零した。
 しかし木崎と長瀬と云う、経理部では面倒な二人が素直に従うならば、仕事もやり易いのは確かである。

――何か。もう本当に色々諦めた。

 何度開き直ったつもりでも、結局は「他人」の人生を歪めているかの様な罪悪感が打ち消せない。多分、これからも同じように悩む事も有るのだろう。
 しかし、マユミは佐倉真由美として「生きる」事を撰択した。

 ならば。
 マユミとして仕事をするのは有る意味で当然でもある。

 真弓正孝では無く。しかし「以前」の佐倉真由美でも無く。「現在」の佐倉真由美の人生を、マユミはマユミとして生きなければならない。

――もちろん、娘さんが戻って来たら別だが。

 その低い可能性ばかりを重視して、自身を偽り続けるのもまた愚かしい。
 マユミは穏やかな笑みを浮かべたまま、考えても仕方のない思考を振り払う。

「売上推移表は長瀬さんの担当でしたね?」
「はい。」
「1月分迄は確定しましたか?」
「例のカメリア以外にも過去で変更が有るようで、見直しが途中です。」

 マユミは満足して頷いた。それに気付いているなら任せて大丈夫だと考え、塚迫に視線を向けた。

「経費の内訳書はどの辺りまで?」
「後は木崎主任に決算振り分けを見て戴いて、減価償却と利息と雑益が残ってます。」
「法定福利費は?」

 マユミが決算フォルダを開き、チェックし乍ら告げると、失念していたらしく塚迫が謝罪する。

「忘れてました。今後気を付けます。」
「マニュアルに注意点として記載が有ります。記憶はしなくて良いですが、注意点の見直しは欠かさない様にして下さいね。」
「はい。」

 質問するように開いた左手を肩の位置に上げた長瀬に、マユミは目線で応じる。

「得意先表は塚迫さんに回しますか?」
「新規が増えますから、3月が確定してからにして下さい。今渡しても二度手間です。」
「了解です。っと、買掛金もですか?」
「仕入先は構いませんが、どちらにせよ取り込みは纏めてしたした方が早いでしょう。他にも仕事が有りますし、同じ手順ですからね。」

 マユミが応えると。

「なら一緒で良いかな?」
「ええ。」

 長瀬と塚迫が直接確認し合う。
 他にも細々とした確認をして、最後にマユミが締めた。

「では1月までの月次の見直しをしたら訂正は2月末の伝票にして、16時迄に木崎主任に提出して下さい。3月分は売掛買掛金以外は仕上げるつもりで進めて。業務から3月分のデータが来るのは遅くとも18時だと思って下さい。」

 皆が頷くのを見て、マユミは一応確認する。

「19時か20時まで残業をお願いしたいのですが、無理な方はいらっしゃいますか?」

 普通ならば最初に確認する事だが、このメンバーには余り必要が無い確認では有る。
 彼らは残業の依頼を断った事が無い。今回も当たり前に了承した。
 マユミも特に感慨無く受け入れて、「いつも通り」続けた。

「夕食は出前を頼みました。サンドイッチと珈琲が嫌な人は、社食の神楽さんに自分で連絡して下さい。お握りになら変更してくれるそうですよ。」

 そして立ち上がったマユミは4人の顔に、質問のし忘れなどが無いか表情を観察して。
 内心舌打ちをしつつ、ひらりと手首を閃かせた。

「では解散。」

 残業依頼と社食の出前準備はマユミにとってはセットである。しかし、社食の出前ならば残業時の食事代として経費になるし、メニューがサンドイッチと珈琲なのも仕事中だから当然とも云える。
 なのに珍しくも無い発言をしたマユミに対して、見上げた三人の眼差しには揃って軽い驚愕が浮かんでいた。
 マユミは一人残った木崎の視線を気にもかけず眉を寄せた。

――何が悪かったんだ。

 何の事は無い。
 木崎だけは当然の如く受け入れたが、その仕草と声音が「真弓」の姿と重なったからに他ならない。
 声も姿も全く違うが、所詮は同じ人間なのだ。日常の無意識に行う仕草や言葉の選択肢が、佐倉真由美に真弓正孝を投影させる。
 特にその眼差しと、マユミの自らの意志に従った行動が有る限り、消える事なく周囲に影響を与えるだろう。

「不思議ですか?」

 不意に声を掛けられて、マユミはパソコン画面から顔を上げた。

――忘れてた。

 失礼な話では有るが、木崎は付き従う忠犬のようなものなので、微妙に空気扱いのマユミだった。
 人間だと意識したなら鬱陶しいが、犬ならば傍に居ても気にはならないし、可愛がる事も出来る。自分に懐く犬は可愛いが、少しばかり度を越している相手に対しての防衛本能も働いているかも知れないとマユミは真弓だった頃に考察した事がある。

――まあ、考えても事態は変わらないから、こいつは犬で良いよな。

 と。
 深く考える前に思考を放棄して結論は出なかったが、真由美である現在も木崎に対する認識に然したる変化は無かった。

――二人で呑みには行けないけどな。

 考えたくも無いが、それは貞操の危機だと思うのだ。
 マユミはとりとめなく忠犬で空気扱いの木崎に対する考察を重ね、しかし表情は冷静なまま静かに見つめると。
 木崎は困ったように微笑んだ。

「最近、亡くなった部長なんですけどね。本当にあなたに似てるんです。」
「前にも、似たような事を云われました。」

 マユミは慎重に応えた。
 面と向かって、この話題が出たのは初めてでは無かろうか?
 木崎は疑問にも思わないらしく、懐かしそうに眸を細めた。

「みんな、あなたにあの人を重ねて驚いたんですよ。…………俺も。あなたの後ろにあの人を見る事が有ります。」
「………。」

 それはどうだろうとマユミは思う。

――見る事が有るっつうか。お前は重ねまくってるだろうが。

 でなければ木崎が「佐倉真由美」に懐く道理が無いのだ。それくらいは、マユミも木崎を「知って」いた。
 木崎が真弓に傾倒したのは、偶然と時間を材料にした付き合いの積み重ねに拠るが、真由美に執着したのは真由美が真弓に似ているからだ。
 既に木崎の中では無意識下で同一視されているとマユミは考えている。

――それで口説かれるのも気持ち悪いけどよ。

 不快では有るが、不思議では無いとも思う。性別の差は大きい。そして、真弓に対して木崎はある意味で盲目的な心酔をしていた。

――かと云って惚れるかと云われたら、俺なら会長みたいな女は願い下げだけど…………木崎だからな。

 別にマユミは会長に盲目的では無いが、それが一番近い感情なのだろうと想像する。
 そして。
 普通の人間には、大抵沢山の大切なものが有るが、木崎の世界は非常に狭い。
 故に、真弓に似た女性が居れば、惹かれるのも宜なるかな………と少しは思わないではないマユミだった。

「佐倉さんには、迷惑な話でしょう。似てるから、期待されて。試したくなって。でも俺は」

 何処か切ないような眼差しで、木崎が言葉を紡ぐ。

――自覚あんじゃねえか。

 やはり試されていたかと脱力すれば、真摯な眼差しがマユミを見据える。キレイな顔立ちだが、男に見つめられても何ら心が動かないマユミには「わんこがすこぶる真剣だ」程度の感慨しか浮かばなかった。

「俺は……。本当に」

 木崎がマユミを見つめて、真剣に言葉を紡ごうとした。

「こんな所にいらしたんですね!?」

 バタンと打ち合わせ室の扉を開け放ち、キラキラと残念王子が乱入したのは。
 まさに、その瞬間だった。

――助かったんだか、面倒が増えたんだか。

 忌々し気に闖入者を睨み付ける木崎と、キラキラ王子の爽やかな笑顔を見比べて、マユミはうんざりと天井を仰いだ。

 キラキラ残念王子、謎の生命体X。マユミに様々な呼ばれ方をしている名ばかりの役員は、午前中同様の言動で業務課に続き経理部でも白い目で見られた。
 邪魔者としての立場を確立したとも云えよう。

「佐倉さん。ここですが……。」

 質問が有れば冷静に応じるマユミだが、接近する謎の生命体は健在だし、木崎が懸命にソレの排除しようとしていた。
 自らの目的を阻む邪魔者に、残念王子はマユミに向けるものとは全く違う冷ややかな声音で侮蔑して、木崎も負けじと応じる。

――カオスかよ。

「ゴミの言葉を聞く気は無い。話し掛けないでくれないか?」
「俺がゴミなら貴様はカスだろう。彼女に近付くな。」

――いや、木崎。それ役員だから。名ばかりだけど役員だから。

 何か根本的に育て方を間違えた気がするマユミだったが。

――まあカスだけどな。

 当然乍ら木崎の言動は真弓に倣ったモノだった。
 ただ。

「塩野専務。木崎主任。」「はいっ。」
「何かなお花さん。」

 冷ややかな声音に気付いた木崎はビクリと応じ、残念王子の顔は話し掛けられた歓びに笑みに綻ぶ。

「煩くて仕事になりません。此処は職場ですが、あなた方には遊技場に見えますか?」

 冷んやりと温度の低下した笑みに、残念王子の笑みさえ固まった。

「木崎主任は仕事に戻りなさい。」
「はい。」

 こんな時のマユミに逆らうべきでは無い。彼女が真弓と同類ならば、と木崎は今更の如く考えて自席に戻った。素早く従った忠犬をチラと見送り、マユミは残念王子に向き合った。

「さて。あなたは朝から何故私に付きまとうのですか?」

 冷ややかな台詞が室内に響き。

――今ごろ!?

 と。
 一瞬。経理部の心がひとつになった。

 当然乍ら、業務課での残念王子の愚行は既に社内に広まっていたので、彼がマユミに付きまとう光景に驚いた社員は居なかった。
 まさか、今ごろその質問がされるとは思わなかったと周囲の視線が驚愕と呆れを込めて、マユミに集中した。
 しかし、ゆっくりと睥睨するかのように視線を巡らせたマユミに、すぐに仕事に立ち返る優秀な経理部所属社員たち。

 真弓が育て上げた社員は危機回避能力にも長けていた。

「私は花に惹かれて誘い出された愚かな男だよ。これを一目惚れと呼ぶのかな?あなたの傍にいたい触れたい、その気持ちが抑えられないんだ。」

 残念王子は気を取り直して、気障ったらしくフッと笑った。

「男とは愚かなものだね。」
「男性が皆、あなたのように愚かだとも思いませんが。」

 多分。残念王子には、経理部の社員が持つ危機回避能力が乏しいのだろう。マユミの声に、周囲に疾った戦慄にも気付かなかった。

「男だから愚かだと云うならば、男で無くして差し上げましょう。」
「それは…………どういう。」

 謎のイキモノの謎の言葉にも行動にも、もはや鳥肌を立てる迄もない。不快の限界値を突破して、マユミはゆったりと微笑んだ。
 冷たく凍えた眼差しに、男は漸く気付いて、周章てたようにマユミから距離を取った。

 マユミは冷たい笑みを崩さないまま、満足そうに頷いた。

「そうです。離れてらっしゃい。半径1メートル以内に近寄れば………解りますね?」
「はは…は………わたしが、愛するお花さんの云う事を聞かない訳が無いだろう?」

 少なくとも。
 そこで逃げ出さずに、そんな軽口を叩いた名ばかり役員は、ある種の「勇者」として認識された。
 震えてガチガチの声だろうとも。

「……あの、お花さん。」
「何ですか?」

 踵を返したマユミに、おずおずと問い掛ける残念王子に周囲が認識を改める間もなく。

「男で無くすって……どういう。」
「事故で男性機能を失う事も有りますから。お気をつけて。」
「…………………。」

 恫喝を含んだ声音が、優しい口調で語る内容は、経理部の心を再度ひとつにした。

 佐倉真由美を怒らせたら、多分恐ろしい事が起こる。
 真弓を怒らせてはならないと云う、以前の共通の認識よりも尚深い部分で。
 絶対に怒らせてはならない人物として認定された。


 もう少し鈍ければ平和だったかも知れないが、残念乍らマユミは鈍くは無い。
 その空気の意味に気付かない訳も無く。

――面倒な。

 我慢が足りず怒りを顕にした自身の失敗も含めて。
 苛立ちを込めた舌打ちも罵声も飲み込み。無かった事として気持ちを切り替えた。


 部屋の隅に立つ存在を忘れた訳では無かったが、漸く離れた謎のイキモノを視界に映したくも無いマユミが。
 その瞬く眸に浮かぶ確かな気持ちの変化に、気付く筈も無かった。

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