小説『真弓が真由美になりました』
作者:みき(かとう みき◆小説部屋◆)

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031◆閑話9◆空気になりたい三田村七重です

☆☆☆

 こんにちは。経理部の三田村七重です。
 僕は今必死で自分よ空気となれ!と念じています。簡単に云うなら気配を殺して小さく固まっています。
 トイレに………紙が無かったんですよ。僕は紙を貰う為に、総務課を目指して階段を下りようとしました。ええ、下りようと。まだ下りてないです。未遂です。ちゃんと前見て歩いて良かったです。気付かれる前に隠れられて良かったです。うっかり数段でも下りてから顔を上げてご覧なさい。地獄の緊張感を味わえたでしょう。
 今も結構味わってますけどね。
 しかし何故反対側に隠れなかったのか。
 悔やまれてなりません。
 隠れた先は行き止まりです。逃げ場が無いです。しかし、階段を見下ろすに視界が開けたこの2メートルを、もはや駆け抜ける気力も有りません。

 あちら側に隠れたなら、素知らぬ振りで経理部に戻るもエレベーターで総務課に向かうも自由自在でした。
 本当に。本当に。悔やまれてなりません。

 僕の間の悪さについて、語った事があるでしょうか?本当にどうしてこんなに間が悪いのでしょう。
 僕が階段に一歩踏み出そうとした時、物凄い勢いでナニかが踊り場の壁に叩き付けられたのです。僕は呆然としつつ、隠れました。
 意味不明な出来事からは、取り敢えず身を隠す。それは生き延びる上で必須条件です。

 隠れた後に、そっと様子を窺います。うむ………やはり。見間違えでは有りません。壁に叩き付けられたナニかは人間でした。
 人間にしろそうで無いにしろ、叩き付けた誰かがそこに居る筈です。僕は息を潜めました。

 本当に………僕は何でこんなに間が悪いのでしょうか?
 キチンと纏められた赤い髪。その色彩が視界に入っただけで、誰か判りました。

 佐倉真由美さんでした。しかも、呻き声を上げて、よろよろと立ち上がろうとした男性を佐倉さんは容赦なく沈めました。

 そのまま、冷ややかな眼差しで、佐倉さんが男性を見下ろしています。
 僕は息を詰めて小さくなりました。本当に物理的に小さくなって隠れたいです。
 トドメを刺すつもりなのかと思ってしまったのです。
 僕も莫迦ですね。そんな訳は有りませんでした。佐倉さんは興味も無さそうな風情で、その男性を放置しました。
 身体の向きを変える佐倉さんに、僕は周章てて行き止まりの隅に寄りました。佐倉さんは、階段を登ろうしたのでしょう。顔を上げきる前に隠れた僕は、自衛本能にだけは自信が有ります。

 どうかこちらを振り返ったりしないで下さい。

 願いは天に届き、佐倉さんは僕の隠れた行き止まりに視線を向ける事も無く、経理部の方角に向かって歩み去りました。
 姿勢が良くて、歩き方もキレイですが、何と云うか凛々しいと云うか………ぶっちゃけ威圧感あって歩いてるの見ただけで怖いです。
 僕は取り敢えず見なかった事にして階段を下り………見なかった事にしたい物体を見下ろしました。

 何と云うか………ビックリな美形ですね。これはアレですか………噂の佐倉さんのスト……じゃない、普段顔を見せない役員の方ですね。
 噂以上の美貌に驚きです。これだけの美貌なのに女子に総スカンだと云うのが驚きです。
 やはり「相手」が佐倉さんだからでしょうかね?

 僕は納得して階段を下りました。え?助けないのか?いや生きてるし。特に怪我も無さそうでしたから。
 脈拍も正常でしたしね。見なかった事にしました。はい。
 もちろん、佐倉さんが報告するだろうと云う前提があってこその放置ですよ?

 そう云えば、今回の会議資料の責任者は佐倉さんだと聞きましたが…………結局彼女の立場ってどの辺りなんでしょうか?

☆☆☆

 凄いな、と素直に思います。誰がって佐倉真由美さんです。
 真弓部長以外にまともな敬意を向けた事が無さそうな木崎主任が、殆ど普段の主任が想像出来ない盲目な従い様を示す女性です。そりゃあ凄い人なんだろうと思ってました。上司並べて説教かましてた情景も記憶に新しいですし……って忘れた筈の記憶をつい掘り起こしてしまいました。

 しかも、加賀見部長に売上報告の締切を認めさせたそうです。そんな事はそれこそ真弓部長にしか出来ないと思ってました。
 加賀見部長は、営業の人には珍しい事では無いですが、所謂営業至上主義です。真弓部長に云わせると、一部ポーズだそうで、理由としては営業の無理を通す為だそうです。
 でも、ポーズと云いつつ真弓部長も時々怒ってましたから、どうなんでしょうね?
 お客様が大切なのは当然ですが、営業の云うがままになっていたら、業務も経理も帰宅出来なくなる日が増えるでしょうね。
 特に、営業会議の前は。
 更に云えば、今回は決算が絡みます。役員会議の資料も要作成ですよ。
 当然乍ら、真弓部長は根回し済みだったと思いますが、当人が不在となった現在も有効かどうかは疑問です。

 営業部員のノルマ達成の為に、ねじ込まれるのは必至かと思われます。

「え、じゃあまだ売上揃って無いんですか?」

 ほらね。長瀬さんは驚いた風に云いましたが、その眸の色は「やっぱりな」と云っています。木崎主任が営業に対する不満を述べないのは、きっと飼い主の前だからですね。わかります。でも雰囲気怖いです。笑みを浮かべてても、視線が裏切ってますよね。佐倉さんはこの顔怖くないのですかね?その点だけでもう尊敬してしまいそうですよ。
 僕ら三人は、やっぱりなあと途方に暮れました。一体今日は何時になったら帰る事が出来るのでしょうか。

「あの……3月資料は、やり直しですか?」
「売上が絡む部分は誤差範囲に収まらないと思って下さい。新規契約も含むと思われます。」

 何を淡々と返してくれちゃってるんでしょう。新規?勘弁して欲しいです。塚迫さんも眉を寄せてます。

「新規って、得意先の事……ですよね?」

 云わずもがなですね。でも聞きたくなりますよね。得意先が増えたら行が増えます。数字だけの訂正で済ませるのは先ず無理ですね。コピペで済むものも済まなくなります。貼り付け不可ですか。そうですか。当然ですが行の一番下とか都合の良い事は有りませんよね。リンクも組み直しじゃないですか。
 僕らの内心を知ってか知らずか、佐倉さんはあっさりと頷いてくれました。

「取り敢えず、1月迄は現行確定のままで。不突合は全部2月末の追加訂正をして確定して下さい。3月も売仕関連以外は軽くチェックを済ませておきましょう。」

 いくら決算処理以外を2月で仕上げても、3月の売上が来ないと話になりませんけどね。まあ予算計画組むにも、試算表出てる方が主任もやり易いでしょうし、融通を利かせた良い方法だとは思いますが。でも、3月売上が揃う時間が不確定だったらやっぱり意味が無いでしょう。売上が確定しないと云う事は、その売上にかけた原価や経費も絡んで来るのですから。
 そこを木崎主任が確認しました。

「業務の確定は何時ですか?当月分はともかく、3月が増えるのは戴けませんが。」

 意味が無い問いだと、最初は思いました。

「午後は受付け不可にしました。入力自体は15時か遅くとも16時には終わるでしょう。3月の締めは先にする様に伝えてますから、済んだら波多野さんから連絡が来ます。」

 佐倉さんの返答に、木崎主任は疑問を呈する事なく即座に頷き納得を示しました。えっ?本気で?それで良いの?代わりに長瀬さんが訊いてくれました。

「営業が割り込みませんか?その場合は押し切られる気がするんですが。」

 そうです。問題はそこですよね?でも、佐倉さんは小揺るぎもしなかったんです。

「加賀見部長の確約を戴きました。」
「は?」

 長瀬さんが、珍しく間抜け面を晒しました。口を開けたまま佐倉さんを凝視してます。って云うか、加賀見部長の名前には驚きです。ビックリです。正直に云えば、他の部長の名前が出されたなら、加賀見部長に割り込まれたら意味が無いよな、と思うところです。つまりは初っぱなからラスボスです。え?ラスボスの確約?確約って怖いです。
 加賀見部長がそんな事を確約するって、この人何をしたんでしょうか?絶対訊いてはいけませんね。僕の自衛能力が告げています。
 長瀬さんが結構な男前な顔を残念な表情で台無しにしても、木崎主任は当然とばかりに頷いています。うわあ………それを当然とされる佐倉さんて、一体どんな人なんでしょうか。本気で知りたく無いですね。
 新入社員って噂も有りますが、実際のところは謎過ぎて皆知らないんですよね。

 そして。
 一人また一人と彼女の信者が増える訳ですよね。何だかな。

 加賀見部長に直接確約の言葉を貰ったと云う佐倉さんに、長瀬さんがはっきりと態度を改めたのが判りました。
 高峰部長も佐倉さんには丁寧に接するし、木崎主任は云わでもがなだし、長瀬さんまでこんなんじゃ、佐倉さんは経理部を完璧に押さえましたね。
 僕?僕は普通の新入社員ですからね。長いものには巻かれるだけですよ。
 塚迫さんも、佐倉さんに敬意を抱いてるみたいですし。反目する理由は何処にも有りません。
 塚迫さんとは入社以来の付き合いです。僕の指導員でしたし、今の僕は塚迫さんの補佐と云うかお手伝いがメインのお仕事ですね。

 佐倉さんもそこは弁えていて、僕に対する指示は塚迫さんにも了承を取っている。うん。絶対に新入社員説は嘘ですよね。社会に慣れてる言動が見掛け通りの年齢では無いのだと教えてくれます。そつの無い新入社員が居ないとは云いませんが、と云うか僕がそのタイプですが、新入社員のそつの無さと佐倉さんのは全く違います。
 佐倉さんのは……この人のそつの無さは、明らかに上司としてのものですからね。
 見た感じは同年代なのですが、一体幾つくらいなのですかね?もちろん訊きませんよ?女性に対する禁句以前に、佐倉さんの謎には触れてはならないと僕の防衛本能が警告を発するのです。

 見ない振り。知らない振り。大切な事ですよね。


 その防衛本能の欠片も無さそうな、空気が読めない役員が姿を現したのは、解散の合図に僕らが打ち合わせ室から出て直ぐの事でした。

「2月迄の月次の訂正は2月末で、3月は3月分と決算振替だけにするって事ですよね?」
「そうね。確かに2月の月次はやり直しだけど、結果的にはこのほうが早そうね。」

 自席に戻る間に確認がてら話していると、何だか空気がオカシイと感じました。
 そこには、知っているけど知らない人が居ました。
 これが噂の……と直ぐに皆気が付いたみたいです。
 ビックリする程、キレイな顔と、ゆるく波打つ長い前髪。男にしては襟足も長いけれど、決して不潔では無いです。
 意識を失っていた美貌にも感嘆しましたが、起きてる彼は何と云うか………王子さま?みたいな感じの爽やかでキレイな。

「私のお花さんは何処かな?」

 非常に残念な方ですね。


 残念な王子さまは噂通り、いえ噂以上に佐倉さんにスト……もとえ、付きまと……もとえ………ええと、もう良いや、ストーカーしています。
 佐倉さんはガン無視ですね。と云うか、凄いスルースキルですね。避けるの上手いですね。
 殆ど感動レベルの佐倉さんのストーカー避けスキルです。しかし木崎主任が参戦してから感動してばかりも居られません。
 もはや木崎主任も邪魔です。
 ぶっちゃけ煩いです。
 集中出来ません。

 でも小市民な僕は当然何も云えませんけれどね!

 小市民とは無縁の佐倉さんが、とうとうブチキレにおなりでしたが。
 超怖いです。多分経理部の仲間の皆さんは、激しく同意して下さるでしょう。

 木崎主任はソッコーで自席に避難なさいました。僕らも視線を自分のデスク上の書類やパソコン画面に向けて、必死の見ない振りです。

 ええ。
 この発言までは。

「さて。あなたは朝から何故私に付きまとうのですか?」

 佐倉さんの声は、冷ややかに室内に響きました。しかし、その硬く冷たい響きを恐れるより、その内容に驚いて思わず振り返ってしまいました。

 朝から付きまとわれてて、今訊くの?って云うか、ある意味自明の理と云うか。そりゃ好きだからじゃ無いの?その発想無視なの?

――今ごろ!?

 と。そう思ったのは僕だけでは無かったようです。
 経理部の心がひとつになったのではないでしょうか。
 周囲の視線が驚愕と呆れを込めて、佐倉さんにに集中しました。
 佐倉さんが視線に気付かない訳もなく、ゆっくりと僕らを一人一人見ました。視線を巡らせた佐倉さんに、僕らはすぐに仕事に立ち返りましたよ。ええ。当然です。逆らうなんてトンでもない。
 ここでも、僕らの心はひとつになってましたね。
 あの眼差しは睥睨と呼ぶに相応しいですよ。女王さまですね。寧ろ女帝ですね。決して口に出しては云いませんが、そんな事を思いました。

「私は花に惹かれて誘い出された愚かな男だよ。これを一目惚れと呼ぶのかな?あなたの傍にいたい触れたい、その気持ちが抑えられないんだ。」

 うん。何と云うか。王子………早死にするタイプなのかなと思います。危険を察知する能力低いですね。そんなところも残念な王子が、気障ったらしくフッと笑った気配がしました。

「男とは愚かなものだね。」

 格好つけて云う台詞でも無いですよね。僕としては佐倉さんの沈黙が怖いです。

「男性が皆、あなたのように愚かだとも思いませんが。」

 ああ、ほら。穏やかな声が………怖い。
 王子には、判らないのでしょうか?経理部の皆が必死に見ない振りを貫くのは、自衛の為に他ならないのです。王子は周囲に疾った戦慄にも、佐倉さんの声に含まれる危険にも気付かないまま地雷を踏み続けるのでしょうか。マジでやめて欲しいです。この会社で犯罪が起きたらどうしてくれるのでしょうか。
 その場合の被害者は王子だから、責任を追及する相手も不在です。犯人の方には決して云えない苦情ですよ。

「男だから愚かだと云うならば、男で無くして差し上げましょう。」
「それは…………どういう。」

 ほら見ろ。怖いし………マジで怖いし。勘弁して下さい。こちらは絶対に見ないで下さいね。僕らも絶対に振り返ったりはしませんから。
 その気持ちは僕だけでは無いようで、皆が物音ひとつ立てないように固まっているのが現状です。
 て云うかやっと王子も危機感を覚えたのか、足音と衣擦れの音が周章てた様子を教えてくれた。

 静かな……静か過ぎる室内に、佐倉さんの声が優しく響いた。

「そうです。離れてらっしゃい。半径1メートル以内に近寄れば………解りますね?」
「はは…は………わたしが、愛するお花さんの云う事を聞かない訳が無いだろう?」

 絶対に、彼女はやります。ええ、やりますよ。その声を聴いたら、本気を覚らない訳が有りません。固まったまま、僕が少し前屈みになったのは、息子が怯えてヒンヤリと竦んだからです。縮んだ気がします。
 勇者かも知れない。この場面で軽口がたたける気力は勇者の名を冠してもオカシク無いのではないでしょうか?震えてるのが丸分かりですが、充分な勇気です。しかし、つくづく莫迦だと思います。

「……あの、お花さん。」
「何ですか?」

 おずおずと残念な王子が更に根性出して発言をしています。

「男で無くすって……どういう。」
「事故で男性機能を失う事も有りますから。お気をつけて。」
「…………………。」

 何故訊いた王子。怖い答えが返ってくるのが判りきっているのに、何故訊いたんですか。せめて耳にしたたくは無かったです。
 優しいと呼べる口調が明らかな恫喝を含んでいます。それを聴いた経理部の心は再度ひとつになったのではないでしょうか。

 絶対に佐倉さんは怒らせてはイケない人です。彼女を怒らせたら、多分凄く恐ろしい事が起きます。
 経理部で怒らせてはならない人物の筆頭は真弓部長でした。いま、明らかにその認識が塗り替えられました。
 もし真弓部長がいらしたとしても、魂に染み込まされた認識が変わる事はないでしょう。

『実に恐ろしきは女性。』

 本日の教訓は、これに尽きるのではないでしょうか?

☆☆☆


※シーリンとの邂逅前なので王子呼びです。シーリンに出会った後なら王子はシーリンの称号ですね。
シーリンに対するキラキラ王子は眩しい外見を指す言葉ですが、うちうじんに対するキラキラは………ねえ?同じ言葉でも意味が変わりますね。

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