006◆5話◆入社二日目の新人の筈ですが
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翌日は警戒していたマユミだが、出社しても特に何も云われず、昼になる頃には忘れていた。
そんなに気にする程の事も無かったかと思った。
もちろん、そんな筈は無かった。
そもそも午前中も大概「普通」では無かった。
先ずは担当であるマユミの指導員の頭越しに、上司はマユミに質問をする。一応指示を受けるのは山里だが、何故か山里は不満も述べずにマユミの指示を仰ぐ。
指導員と新入社員は立場を入れ替えて仕事をしていたが、マユミは周囲が余りに自然に対応した為、うっかり自分の立場を忘れていた。
「次は何をしたら良いですか?」
朝から山里は当たり前の様にマユミに質問した。
マユミは相手が自分の指導員である事を忘れて答えた。
「いつもしている事を考えたら判る筈ですよ?ですが明確に判らない内は、指示をしてくれる人に『これをしたら良いですか?』と質問したら良いですね。」
山里はそうした。
相手がマユミだったのはご愛嬌と云うべきだろう。
先ず最初に、マユミは簡単な月間予定表を作成させた。そもそも無いのがオカシイ話だった。
マユミは山里の答えが正しい場合は然り気なく誉め、少なからず間違っている場合も貶す事は無く正解に導いた。
「そうですね。それも必要です。しかし、今は急ぎの案件も有りませんから、そんな時は次の予定に必要なチェックを優先した方が良いですよ?」
作らせた大まかな月間予定を見る様に促され、山里はウンウンと唸り考えた。
毎日、その日の予定を上司に与えられ、云われるがままに仕事をしていた山里である。
唸る彼女の様子を見て、業務課の責任者は自らの不明を恥じていた。
同様に、落ち込んだ山里の直属の上司が課長に謝罪した。
「私の指導方法が問題だったようです。」
「いや。俺も似たようなもんだ。」
彼らが山里に対して下していた評価は厳しかった。山里は自分で考える事をしない。指示をした事は従順に行うが、逆を云えば指示されなければ何もしない。
小さなミスに頓着せず、向上心も無い。小さなミスが、会社にとって大小どちらに傾くかの想像力もない。仕事が出来ても、それは致命的である。故に山里の仕事に対しては、いつまでも見直しが必要なのは当然ともされていた。それが山里に対する評価である。
仕事は基本的に毎月同じ流れである。日々の仕事も同様だ。
だから、馴れたら普通は毎日何をすれば良いか等、誰でも理解する。
それを二年目にもなって毎日訊ねてくる山里に、評価が厳しくなるのは仕方がない事でもあった。
まさか。
それさえも、云われなかったからしなかった、等とは上司たちは考えも及ばなかったのだ。
それを。
昨日入社したばかりの新入社員が、当たり前の様に導いている。
昨日は、驚かされた。
山里はやる気は無いが、無能では無い。
決して昇進出来るタイプでは無いが、処理能力は寧ろ高い方でも有る。だからこそ、周囲が何も云わなかったのだ。云えなかった……とも云う。
新人が入り、その人物が山里より有能だったら、それは対立を呼ぶのでは無いかと思われた。
現に、同僚二人の女性は、山里に反感を持つ。仕事量では山里に劣り、山里と同量を熟す為には残業を余儀なくされる二名である。
残業は基本的に無いが、故にこそ熟す仕事量を意識すれば、山里に敵わない二人には彼女の向上心の無さが悔しいのだろう。
同じだけの仕事を熟す能力が有れば、云いたい事を云えるのに。そんな考えが透けて見えた。
上司二人は、三人の部下の対立に気をもんでいた。しかし特に何も出来なかった。
山里が暇にならない様に、残る二人以上の仕事を与える事しか出来なかった。
山里がそれを不満に思わなかった事に、助かったと胸を撫で下ろしたのが、山里入社半年目の出来事だった。
それから更に半年を経て、入った新人は山里よりも有能そうだった。
最初は真っ赤な髪にばかり目が行って、しかし礼儀正しいし大人しそうでもあるし、お洒落が好きなら孤立した山里とも気が合うだろうかと考えた。
そうで無くとも、何だかんだで一番仕事が出来るのは山里なのである。仕事に対する姿勢以外は有能であるのが、また厄介な問題だったのだから。
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新人は覚えが良い様に見受けられた。同じ説明が二度為された形跡は見られず、だからといって、理解しないまま進められている様子も無い。
ひとつの説明に、それならと別のパターンの応用を質問する声、答える声。
穏やかに、円滑に、進んでいる様子を窺い、上司二人はお互いに安堵の顔を見合わせた。
そんな安心は、その日の内に破綻した。
「気にしなさい!」
新人の声が響いた。静かな恫喝だった。
僅かに慌てた気配の部下が、管理課の課長と打ち合わせ途中の課長と主任に声を掛けたのは同時だった。
「原田課長……っ。」
業務課長の名を呼んで、打ち合わせブースを覗いた彼女はすぐに口ごもった。
恫喝の声に、彼女は間に合わなかったと呟きつつ、面白そうな眼差しで背後を振り返った。
そんなに大きな声でも無かった。たまたま静かだった所為もあり、甘さを全く持たない女性の声が、室内に低く静かに響いた。
波多野が脇に避けると、打ち合わせブースから三人は顔を覗かせた。
はっきりとは聴こえないが、何となく理解した。
会社のお金。他社。イケません。聞き取れた単語を無意識に繋げて、山里が小さくなって新人を怯えた眸で見上げているのを見てとる。
新人が自らの指導員に説教を始めていた。
「何があったんだ、波多野くん??」
課長が唖然と訊ねれば、部下は僅かに笑いつつ答えた。
「書類に問題があったようです。より正確に云うなら、経理から返ってきた支払い予定表が間違ってた模様ですね。」
「………今回払う分か?」
「はい。」
二人の上司は視線を合わせて、直ぐ様手元の資料を片付けた。
慌ただしく、管理課の課長に打ち合わせを先に延ばす事を謝罪して、視線の先に有る説教現場に移動する。
何故か管理課の課長もついて来た。
「何かおかしいのが有ったか?」
「済みません。解りません。」
二人は自分も承認した筈の資料を思い出そうとしたが、判る訳が無かった。
正直な話。最終的には経理が承認した書類で有るのが、救いと云えば救いだった。
「社内で書類にチェックが必要な意味を考えなさい。承認が幾つも必要なのが何故だと思いますか?他社に関わる問題での誤りは、社内のそれより重要です。弊社の恥を曝すと同義と思いなさい。」
取り敢えず。
駆け付けた先で、気持ちの上では共に山里と一緒に説教を食らった上司二人であった。
「経理が承認済みだから責任は経理だと思いますか?違います。責任はこの『会社』の名前に有るのです。心得違いをしてはなりません。」
上司二人は恥じ入った。
僅かに、山里に向けられた視線が自分達を見た事に、課長は気付いていた。
山里に向ける振りで、自分達に向けられた言葉だった。
面子を思い遣ってくれた積もりかも知れないが、咄嗟に浮かんだ保身を見抜かれた事に動揺しない訳でも無かった。
説教をされている人物は、自分たちだけでは無かった。何故か経理部の部長補佐と管理部部長も一緒になって小さくなっていた。
何故か反感は感じ無かった。いつも感じる爽快なイメージが有る。何に『いつも』感じているのか、思い出せなくて原田は内心首を捻った。
その後、経理の木崎まで呼び出され、あの嫌みな木崎が尊敬さえ示した女性に興味は弥増す。
若い娘の姿に騙された。
器が違う。
いつか、この娘は自分を越えて、昇進を重ねる予感がした。
宝探しは最初のチャンス。彼らが出世するのは、運だけでは無いと云う。
何故か、宝探しでは、才能の有無を見分けるシステムが付いていると、実しやかに囁かれ続ける。
この会社の。
七不思議のひとつだった。
ふと。
原田は亡くなったばかりの、尊敬する先輩を思い出した。
新人の名は佐倉真由美。その名前は、先輩の名字と同じ読みだと気付いた。
二人の話し方も似ていると思えば、年若い娘に対して抱くに相応しくない、奇妙な慕わしさを感じる理由にも思い当たる。
彼の姿が見えなくなって現れた女性。何かの暗示の様に、惹かれる気持ちを覚えた。
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そして。
対立するかと思われた二人は、翌日には仲の良い先輩後輩に見える。
但し立場は逆だった。
先輩の筈の山里が、新人のマユミに飼い主を慕う子犬の様に懐きまくって教えを乞うていた。
上司二人は山里に対する指導方法を誤っていたと自らの不明を恥じ入り、山里に反感を募らせていた二人の同僚は生暖かい視線で山里を見ていた。
ついでに、二人は山里に対する反感は莫迦莫迦しくなって軽く捨てたが、向上心はそのままだったので、山里を真似た様にマユミに質問を投げ掛ける姿が見られた。
どう考えてもオカシナ状況である。
新入社員であるマユミに先輩にあたる同僚やら上司が、当たり前に頼り指導を乞う。
誰も不思議とは思わないのか、思っても指摘しないのか、当然の様に為された故に、マユミはうっかりソレを受け入れてしまったのだ。
寝不足の所為かも知れなかった。
何にしても迂闊では有る。
「佐倉さん。相談が有るんだけど良いかな?」
「はい。何ですか?」
有る意味で天然と知れた山里に、思い切って和解の手を差し伸べた同僚二人。三人が昼食に出掛けた後の事である。
昼の誘いを断ったマユミは、その理由である弁当を広げ乍ら顔を上げた。
木崎がニコヤカに微笑んでいた。
その笑顔は丁度課長の席から真正面に見えた。
課長は愛妻弁当を広げつつ、目撃した木崎の笑顔にドン引きしていた。
――真弓先輩以外に笑いかけるの初めて見た。
そして、真正面からソレを見たのも初めてだった。
「予算の年間予定表。決算前だけど概算出したからチェック手伝って欲しいんだ。」
「………部外者に見せるのは如何かと思われますが。」
経理部は人事部と同じくらい他部署の人間を疎外する。それは必要な事でもあった。
木崎は渋い顔をするマユミに、更にキラキラとした眼差しを向け、笑みを深めた。
「部長からの指示でも有る。会長には佐倉さんを貰う様に進言したけど、どうやらお考えが有るらしくて、断られてね。でも必要な時に貸して貰う許可は貰った。佐倉さんには殆どの資料の閲覧許可が下りている。」
「………解りました。」
マユミはうんざりとした表情で頷いた。
――また勝手な事を。
会長の気紛れに舌打ちしたい心境だったが、油断した自分も悪いと思わないでも無かった。
しかし、経理の書類の閲覧許可を簡単に出された事には立腹する。
会長が出した許可を翻す権限は無いし、会長の人を見る目は確かでもある。
実際に、マユミは経理部の書類を見ても問題が無い人物である。問題が無いどころか、最近のもの以外はマユミが目を通してない書類は無いだろう。
――だからといって、いつか問題が起きないとも限らない。
ある程度の実績と信用は必須だ。会長にはいつか釘を刺すべきだろうとマユミは考えた。
不愉快そうなマユミを疑問に感じつつも、木崎は了承された事に満足して業務課の課長に断りを入れた。
視線を合わせると、怯む気配を感じる。
歩みを進めて、木崎は原田を見下ろした。
「聴こえてましたか?」
「あ……ああ。聴こえたよ。」
「宜しいですか?」
「事前に連絡を貰えば。そして佐倉さんが了承するなら。」
存外はっきりと返答が為され、木崎は頷いた。何故か、この男は自分に苦手意識を持っている事を木崎は知っている。
高峰もそうだが……と云うより、木崎に苦手意識を持たない人間の方が少ないのだが。
その理由は木崎の人を小莫迦にした眼差しに有る。そこ迄なら木崎自身も多少は自覚していた。
有能で嫌味ったらしくて性格が悪い。キレイな顔立ちが悪魔にしか見えない。
なのに、上司の真弓にはキラキラとした憧れを宿した眸を向け、尊敬と献身と忠誠を捧げる犬である。
嫌味な悪魔なだけならば、高峰も原田も気に食わないとしても、苦手意識までは持たなかっただろう。
自分たちも尊敬しうる真弓に対する盲目なまでの忠犬の姿が、単純な反感を示すのを邪魔するのだ。
『あれは余り気にするな。数字だけ見ても意味は無い事に、いつか気付く…………と良いな。』
真弓の言葉を原田は思い出す。よくも悪くも真っ直ぐな男は、今度は佐倉真由美にあのキラキラした眼差しを向けていた。
正直なところを云えば、佐倉の説明を原田は完全に理解したとは云い難い。
しかし、この男がキラキラとした眸をして見つめていたからには正しいのだと理解した。
そして、それなりに噛み砕いた説明をしてくれたのも理解した。
業務部内では山里が理解し、細かい事はともかく、何があったかは原田も理解した。
あんなモノを単なる新入社員扱いなど出来る筈も無い。
――しかも。社員教育までしてくれて。
原田は内心嘆息する。
山里の才能は知っていたが、社員としての心構えはマイナス評価だった。それが目の前で間違いだったかも知れないと思い知らされれば、何も云えなくなるだろう。
故に。
原田はマユミに対して『命令』をする気は無い。『指導』?とんでもない。正直関わりたくも無い。
あんな若い娘に、尊敬する先輩が重なる。
先輩なら素直に尊敬出来るが、マユミ相手だといつか反感を抱きかねないと考えた。
――そこまで人間出来てないからな。そして逆恨みする程に堕ちる気も無い。……そう云う意味では、本当にこいつは真っ直ぐだ。
自分より若い娘に、当たり前の様にキラキラと敬愛に近い眼差しを向ける青年。
殆どの人間に対しては、嫌味しか向けない男。
「まあ、頑張れ。」
何となく。
新人の「お嬢さん」は、木崎の手におえない気がする。あれは年齢通りの娘では無い。能力以前に、人間としての中身が違う気がした。
年齢的には『お嬢さん』だが、中身は自分よりも老成し成熟した『何か』。
あんな赤い髪で、見映えも良いのに、若い娘独特の華やぎに欠ける女。
女の匂いが決定的に欠けた女。
あの年で、自分が何をしたか、意味を気付いていながら………欠片すらも舞い上がらない若い娘。
もしも。
真弓と似ているなどと思わなければ、気味が悪いと感じただろう。
近付きたくないのは、原田の処世術としては当然だったのだ。
『お前は事勿れ主義が過ぎる。』
先輩には何度も注意された。多分、山里の件も、バレたら同じ事を云われただろう。
今も。
何処かで溜め息をついて見守られている気がする。
原田は心の中で反論した。
――俺は平和主義なんですよ。
原田が戦う前に撤退を決めた相手に、意図も簡単に立ち向かう勇者。原田はエールを送った。気に入らない相手とは云え、勇者は勇者である。
別に、無様な姿が見られるのでは、などの期待からでは無かった。
エールの意味が理解出来ない木崎は、奇妙な表情で原田を一瞥した後、午後イチで経理部に来る様にと佐倉真由美に依頼していた。
多少余計な質問を重ねて、食事の邪魔だと邪険にされてションボリとして退散する木崎に、吹き出しかけて肩を震わせた原田であった。
そんな原田にマユミは気付いて、そっと嘆息していた。
以前の後輩の性格を、マユミはよく理解していた。
午前中の己の失態にも、この辺りで気付き落ち込んでいたマユミであった。
今更、目立たない社員など夢でしか無い。
生憎、その事実には未だに気付かないマユミである。
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