小説『真弓が真由美になりました』
作者:みき(かとう みき◆小説部屋◆)

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008◆7話◆入社二日目の夜、真由美になって三日目が過ぎ行きます

☆☆☆

 夕食は二人きりだった。母の人の世間話に適当な相づちをする事に終始した。
 義兄の人は転勤で上京してきた大学時代の友人と飲み会。兄の人は残業らしい。

――二日目にして残業か。

 会社は違えど、同じ日に入社した兄の人である。

――就職活動に出掛けて当日入社ってどうなんだ?

 多少思うところが無いでは無いが、会社の名前はオカシイどころか立派なものだった。
 規模は小さいが、かなり有望な会社である。
 赤字知らずと呼ばれる会社。

――競争率は何気に高い筈だが。

 解せない気持ちも、無いでは無い。
 警戒する気持ちが収まらないのは、こうして小さな謎が増えるばかりの現状の所為だろうか。

 兄の人には感謝している。女子社員に化粧技術は必須科目だった。
 マユミはまだスピードが不足している。直すだけだったからどうにかなったが、1からメイクするのは中々大変だと思う。
 マユミはコツを掴めずにいた。
 昨日に引き続き、今朝も兄の人に手助けして貰った。いつまでも人の手を借りる訳にもなるまいと考えた。

「お兄さん。朝は有難う。」
「うん。」

 遅い時間に帰宅した兄に、妹として感謝を告げる。
 マユミは兄の人との距離感も掴めない。特に相手が不審を覚えている様子も無いので、これで良いのだろうか、とも考えた。
 しかし、以前の娘さんと違うと明言しつつ、全く気にしない母親の人の例もある。
 マユミは母親の人が娘さんとの『違い』を口にする度に、心臓が跳ねる気がする。しかし大概は母親が全く『気付かない』事も即座に知れて、安堵もした。

 兄の人は逆である。あの妙に艶めいた眼差しで見つめられると、バレている気がするのだ。
 兄の人は何も云わない。真由美との差異を指摘したりはしない。しかも然り気なく、助けてくれているような気さえする。
 故にこそ、逆に疑われているような気がするのである。見透かされ、知っていて、何も云わないのでは無いのかと思う。

――莫迦な考えだ。

 自身に云い聞かせるが、警戒心が消える事はなかった。
 真由美の母親と会話するのも気を遣うが、兄の人は目の前に立つと、逃げ出したい様な気持ちになる。
 まさか本当に逃亡も図れない。
 結果、曖昧で微妙な受け答えや、歪な笑いで誤魔化す事に終始するのだ。

「あの、お願いをしても良い?」
「何かな?」

 品の良い笑みを浮かべて見つめられる。マユミは内心で全速力で後退する己を自覚した。必死で踏みとどまり、引き攣る笑顔を返した。

 若造と呼んで良い青年である。
 なのに一言二言を限界として、マユミは逃げたくなる自分に敗けそうになる。
 青年の前に立つと、奇妙な居心地の悪さを感じた。その眼差しに嫌なものは無い。ただ穏やかな視線が自分に向けられただけで、逃げ出したくなるのだ。

――もしかしたら。

 マユミは考える。
 これは肉体の記憶では無かろうか?
 佐倉真由美と云う少女が、兄に対して苦手意識を持っていたのでは無かろうか?
 マユミは分析する。
 嫌悪は無い。恐怖も………、一応無い。だから、仲が悪いとか、そう云う話でも無いのだろう。もちろん。これは推測でしか無い。
 しかし、現実にマユミは兄の人に尻込みする。ただただ苦手で、居心地が悪くて、何もかもを見透かされる感じも相俟って、心臓が保たない気がするのだ。

――しかし、これは必要な事だ。

 苦手は克服せねばならない。一歩譲って、苦手なままでも良い。立ち向かわねばならないだろう。

「朝、教えてくれたメイク、まだ覚えてないから教えて欲しい…の。」

 正直云うなら、敬語で話したい。会社では新入社員らしく、出来るだけ丁寧な言葉を心掛けた。元々、親しい相手以外には丁寧語が基本だったから、然して苦労もしなかった。原田や高峰、木崎など、接触が多い三人に対する時は気を遣うが、そうでなければ、特に難しくも無かった。
 この青年に対しては、話し難い事この上ない。
 身内に敬語も無いだろうと自制するが、うっかり油断したら失敗しそうになる。こんな若造相手に、フランクに話す為の努力が必要なのは不自然極まりない。
 若造……と、言葉にするのにも、何故か抵抗感がある。社会に出て1日2日の、事実若造でしか無い青年に対して、侮り難い警戒心が湧く。

 娘の兄に対する苦手意識故だろうか?しかし、この娘さんは…………敬語を操れたのだろうか。
 大概失礼な事をマユミは考えた。

――この妙に垂れ流される色気もだが、絶対に油断してはならないと本能が告げる。

 何と云うか。
 銀行折衝で、相手の担当者がエグい時みたいな。
 勝負に入れば敬語になるのは当たり前である。
 当然、折衝時以外も敬語だが、一応は対外用の顔を作っているだけでもある。
 そこにどんな差が有るかと問われても、明確な差異なのだが言葉にするのは難しい。

――例えば、面倒な契約。銀行折衝。嫌いな商売敵との、友好的な振りをした嫌味の応酬。

 多分。敬語にすれば、すんなりと笑える気もする。いや、笑えるだろう。
 家族に向けるべきで無い笑顔で、ニコヤカに対応出来るだろう。

 それは。
 しては為らないと思うのだ。

 マユミは現在進行形で、周囲を騙している。家族を奪い、成り代わっている。
 既に赦されざる事をしているのに、更に騙す様な事は出来なかった。
 しかもその笑顔は、嫌な云い方をするならば営業用。別の云い方なら戦闘用の顔だった。
 今更のキレイ事でしかないかも知れない。騙しているなら、もっとスマートに騙すべきではないかとも思う。
 大体がして、この人たちは、真由美と云う少女の家族で、真弓の家族では無い。

 しかし、それでも。
 マユミは誠意を忘れたく無かったのだ。

――娘さんが帰るのか、帰らないのか。それは知らない。

 しかし、この体に戻って来た少女に、家族に偽物の笑顔を向けた体を、返したく無いと思うのだ。

――それで疑いを深めてたら本末転倒だが。

 自らの考えを愚かしいとも思うが、本当に今更でしか無いとも思うのだが、マユミの最後の良心がソレだった。

 警戒対象に素で対応するなど有り得ない。とんでもないと抗う気持ちと、兄に妹が営業用の顔を見せるなど有り得ないと、良心が窘める。

 兄の人は、マユミのお願いを気軽に了承したが、時間が遅いから次の休みにでもと提案してきた。
 マユミは頷いた。
 少し安堵もした。

 しかし。

――この青年も新入社員だろうに、そんなに遅くなるものか?

 マユミは内心首を捻った。


 因みに。
 化粧を教わる事が出来ないと云う事は、再度手伝って貰うと云う事でもある。
 兄の人との接触を避けた安堵も、翌朝には霧散する程度の小さな安息でしか無かった。

「お休み。」
「お休みなさい。」

 兄の人は相変わらず不思議な眼差しでマユミに向ける。マユミの正体も、マユミの苦手意識も。
 すべて気付いて見守られている様な気がする。

――居心地が悪い。


 若い頃ならいざ知らず、この歳になって……しかもこんな青年に怯む自分にマユミは困惑する。

 自室に戻ったマユミは、早々に就寝した。
 横になった途端、眠気が押し寄せた。

 疲労が溜まっていたのかも知れなかった。
 おもに精神的に。

 当たり前だが。
 翌朝も居心地の悪さを引き攣る笑顔で誤魔化すマユミがいた。
 早く化粧技術を習得しなければならない。

 マユミは真剣に思った。

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