第九幕 マスター、もういろいろと手遅れです。
しばらくして…………具体的にはバカーチャーと凛のどつき漫才じみたやり取りが終了し、思考が散歩に出掛け明日の朝食のメニューをボソボソ呟いていた士郎の思考が帰宅してから……一同の姿は衛宮邸の縁側にあった。
凛は自身の魔術回路に魔力を流していた。
手にしたガラスの破片に魔力を通わせた血を付ける。
「…っ」
途端、さながらビデオの逆再生の如く士郎が突き破った縁側の戸のガラスが寄り集まり、傷一つない新品同様の状態へと戻る。
それを見た士郎は息を呑む。
「まあ、このぐらいは衛宮君にも出来るでしょうけど」
士郎が息を呑むのがわかったのか少しばかり誇らしげな顔、だが謙遜する言葉を呟く凛。
が、しかし。
「すごい…………俺はこんなこと出来ないからな」
「……こんなの、どこの流派でも初歩の初歩よ?」
首を傾げ尋ねる凛に、うっと士郎は困った顔を浮かべる。
「俺は親父にしか教わったことがないから、基本とか初歩とか知らないんだ」
「はぁ?五大要素の扱いとか、パスの作り方も知らない?」
「あ、あぁ」
「はぁ……それじゃあ貴方素人?」
凛は士郎の言葉に呆れたような顔で溜息をつく。
そんな様子に慌てて口を開く士郎。
「一応、強化の魔術くらいは………」
「……また、なんとも半端なのを使うのね。それ以外はからっきしってわけ?」
「あぁ、多分…………」
そも、いつも上手くいくとは限らない成功率であることを口にしなかったのは僅かなプライドの為か。
もっとも、どちらにしろ呆れられているのだから意味などないだろうが。
「なんだってこんな奴にセイバーが呼び出されるのよ…………」
今にも額に手を置き深い深い溜息をつきそうな雰囲気を漂わせながらボソッと呟く。
だが今ここには二対の人の目がある。
最近全くと言っていい程守れていない、常に優雅たれという家訓を実践すべく落ち込む気持ちを持ち直した。
「それで、衛宮君は自分がどんな立場にあるかわかってないでしょ」
「立場って………………」
凛の強い言葉に士郎は戸惑う。何故こんなにも強い言葉を口にしているのか把握できていない。
「あなたはある『ゲーム』に巻き込まれたのよ。聖杯戦争っていう七人のマスターの殺しあいに」
「聖杯戦争?殺しあい!?」
全く予期しない言葉にうろたえる。
そんな様子を気にすることなく凛は言葉を紡ぐ。
「衛宮君はマスターに選ばれたのよ。どっちかの手に聖痕があるでしょう?三つの令呪、それがマスターの証よ」
士郎はその言葉にはっ、とした様子で先程痛みが走った左手に目をやる。
そこにあるのは複雑な模様。
これが令呪なのだろう。
「何十年に一度、七人のマスターが選ばれるわ。そしてマスターにはそれぞれサーヴァントが与えられて、聖杯を奪い合う戦いが行われる。私もマスターに選ばれた一人よ。令呪が有る限りは、サーヴァントを従えていられるわ。令呪は絶対命令権なの。サーヴァントの意思を捩曲げてでも言い付けを守らせる呪文がその刻印。ただし、一回使う度に一つずつ減っていくから使うなら二回に留めなさい」
「待てッ!!一体何のことだよ!?」
凛は士郎の訴えをなかったかのように流し、セイバーへ歩み寄る。
「貴女はまだ不完全な状態みたいね。マスターとしての心得がない、魔術師見習いに呼び出されたのだから当然かしら」
「ええ、シロウには私を実体化させるだけの魔力がない。霊体に戻ることも、魔力の回復も難しいでしょう」
セイバーの言葉に大きな溜息をつく凛。
「もし貴女のマスターが私なら、どっちも簡単に出来るのに…………」
「それって、俺がふさわしくないってことか?」
散々な言葉を投げ掛けられていた士郎が不服そうに言葉を返す。
が。
「当然でしょう?このヘッポコ」
「ぐぅ………」
凛から返ってきた言葉にぐぅの音しか出ない。
「さて、そろそろ行きましょうか」
「行くって、どこへ?」
なんでもないように話を変える凛にどことなく不服そうながらも、何度もやり込められてしまったからか話題に乗る士郎。
……………情けないとはいうまい。
「この戦いを監督している奴のところよ」
ふっ、と口を緩ませた凛のその顔は気まぐれな猫のようだった。
「それじゃ。行くわよ、バカーチャー」
そして目を居間に向け、自身の従者に呼び掛ける凛であったが。
「うめぇ!米うめぇ!!やっぱり日本人は米だよな米!!!あっ、マスター長々説明ご苦労さんです。食べます?この塩むすび。」
そこにいたのはこれまで………凛がガラス戸を魔術で修復し、聖杯戦争についての軽い説明を終えるまでただひたすらに、黙々と士郎が握った塩むすびを頬張っていたバカーチャーだった。
ぶちぃっ、と盛大な音が聞こえてくるかの如く凛の蟀谷(こめかみ)に大きな青筋が出来上がる。
「あんたはひとん家で、ましてやこれから戦うことになるであろう相手の家でなにのんびり塩むすび食ってんのよッ!!!!」
「夕飯食べてないからお腹減っちゃって。ほら、よく言うでしょう?腹が減っては戦は出来ぬって」
「〜〜〜〜ッ!!!あぁ〜ん〜たぁ〜はぁ〜〜」
凛の魔術回路に大量の魔力が流れ込み、ゆらゆらと陽炎の如く立ちのぼる。
「と、遠坂、落ち着けって……」
「あぁん!?」
「ひっ…」
現在の凛の顔は、阿修羅が可愛く思える程で士郎が淡い憧れを抱いていた遠坂凛の面影は、かけらもなかった。
「マスター落ち着いて!!!!!ここひとん家、士郎さん家だから!!あっ、塩むすび美味しかったよ。超goodだよ、あんた」
「あっ、あぁ。ありがとう」
………………そんなことよりも今だ興奮覚めやらぬ遠坂を落ち着かせて欲しい士郎である。
「マスター、落ち着いて家訓を復唱して!!常に優雅たれって、ほら!!!!」
………元凶がなに言ってんだ。
「はぁ、はぁ、はぁ。そ、そうね。」
とりあえずバカーチャーが口にした家訓という言葉に落ち着きを取り戻した凛。
もっともぶつぶつと常に優雅たれ常に優雅たれ、と口にしている凛に優雅さなど最早かけらもないが。
「ふう、なんとかなった」
「元凶がなにを言っているのだ、アーチャー」
セイバーの言うことはもっともである。
「…………………なんでさ」
先程までの雰囲気の違いに士郎は思わず呟かずにはいられなかった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「ふう。取り乱してごめんなさいね、衛宮君」
「い、いや、構わないぞ。遠坂」
ずずぅと出されたお茶を口にし、ようやく完全に落ち着いた様子の凛。
だが対応している士郎の反応は固い。
乱心の現場に居たのだから当然かも知れないが、凛の士郎に対する視線。
例えるならば、何時間も列んだ新作ゲームが目の前で売り切れになってしまい前に列んでいた誰かに子供が向けるような、羨ましさがまるで隠せていない視線が突き刺さっているからだろう。
「マスタ〜、まだ行かないんですか?」
「だ か ら 、あんたのせいでしょうがぁああ!!」
「マスター、落ち着いて。そんな最後の100円でやったガチャポンで出た欲しくもなんともないもんを見るような目を向けんといてくだせぇ」
「だいぶ例えがわかりづらいわよ。バカーチャー」
「まあまあ、士郎さんの精神衛生的にも落ち着いてくだせぇな」
「はぁ?あんたなにを言っ………」
バカーチャーが指を指した方向へ凛が顔を向ければ。
「遠坂って、遠坂って…………ハ、ハハ、ハハハハ」
「シロウ、お気を確かに!?」
あまりにも厳しい現実にうちひしがれ四つん這いになっている士郎と、そんなマスターの背をさするセイバーの姿。
「…………………………」
「…………………………」
今、衛宮邸には士郎の慟哭とセイバーの心配そうな気遣いの声しか響いておらず。
「ど、どうかしまして?衛宮君」
おほほほほと凛の必死なごまかしも虚しく、というかむしろそれのせいで。
ただでさえ致命傷を負っていた衛宮邸の中に流れる空気に追い打ちをかける結果になった。
所謂、オーバーキル。
「もう手遅れでさぁ、マスター。諦めてくだせぇ」
普段ならばガンドフラグでしかない台詞も、衛宮邸に流れる空気と同じくらいのダメージを負っている凛に対して何の意味も持たなかった。
結果。
衛宮邸には四つん這いの高校生二人、マスターを慰めるサーヴァント一体、我関せずとばかりにお茶を啜る元凶(バカーチャー)一体。
謎の空間が発生していた。
あぁ、これで良いのか(少なくとも凛と士郎、セイバーとバカーチャーにとっての)聖杯戦争は?