風の向きや湿り具合、空の微妙な色合いの変化――
様々な海の表情から、航海士たちは航海に必要な情報を得ていくのだという。その点、モーリエ率いるセント・パルトネール号の乗組員たちは非常に優秀だった。風を読み、天候を読み、時には航路を大胆に変更してでも安全な航路を選んでいく。おかげでアランたちの船旅はすこぶる順調だった。
そんなある日――
「アラン！ そんなところで何をしているのです！」
珍しく焦ったように叫ぶピエールに、アランは「どうした？」と言わんばかりに振り返った。吹き上げる海面からの風に、彼の黒髪は大きく騒いだ。
アランは今、セント・パルトネール号の舳先に立っていた。それも先端ぎりぎりのところで。舳先の根元に立ち、ピエールはなおも叫ぶ。
「ただでさえ大きく揺れる船上にあって、そんな細くて頼りない場所に立つのは危険だと申し上げているのです！」
「ああ、大丈夫だよ。そんなに大声あげなくたって」
「そのように緊張感も危機感も感じられない顔をされては、大声で警告したくもなります。お戻りください」
「ん……もうちょっと」
「またそのような」
「ごめん。ちょっと昔を思い出してたんだ。つい懐かしくなっちゃって、ぼうっとしてたよ」
ピエールは心なしか肩を落とす。そういえば船に乗ってからというもの、彼にはいつもの怜悧な落ち着きがない。初めての大型船、初めての遠洋航行に緊張しているのだろうか。
ピエールだけでなく、他の仲間モンスターもほとんどがぐったりしていた。中にはメタリンのように人間で言う船酔いのような症状を起こす者もいた。さすがに空を飛ぶモンスターは平気かと思いきや、コドランやホイミンも船室で大人しくしている有様だ。夜も寝ないで飛び続けているわけではないというのが彼らの言い分らしい。仲間で元気なのは唯一、ドラきちぐらいだ。
アラン自身は、パパスに連れられて船に乗った経験がある。多少の揺れなら馴れているし、第一、陸地とは比べものにならないくらい広大な大海原を前にしては、身の内に湧き上がる興奮に押されて、とても船酔いで倒れてなどいられない。
アランにとって水平線は自由の象徴なのだから。
「ピエール。君もつらいなら休んでいなよ。船はとにかく慣れが肝心だからさ」
「そうはいきません。魔物は海にも棲息しています。いくら船上と言えど、主をひとりでふらふらさせるわけにはいかないでしょう。彼女もそう申しています」
ピエールの隣でさまようよろいが曖昧にうなずく。どうやらサイモンの方はアランの所行にもう少し寛大でいてくれるらしい。アランは苦笑しながら、仲間の助言に従って舳先から戻った。そこでモーリエに出くわす。彼は笑いながら言った。
「うーむ。さすが、なかなかの勇気だな。アラン君」
「いえ、そんな。小さい頃、同じように船の舳先で海を見ていたときのことを思い出して。そういえば、あそこは新入りの船乗りが度胸試しをする場所というのは本当ですか？」
「ほう。よく知っているね」
モーリエは目を丸くした。
「船上での作業は危険が伴うことも多い。恐怖心を無視することは危険だが、それに打ち克つことは我々にとって何より重要なこと。それに、船体正面には我らの守り神様の像が据えられている。彼女に航海の無事を感謝するためにも、舳先に立てるようになっておくことは、ま、私たちの義務のようなものさ。しかし……」
髭を手で撫でながら、モーリエは呆れたような、感心したような笑みを浮かべた。
「船乗り最初の試練を、幼少の頃にはすでに乗り越えていたというのは驚きだ。君はいつか、とんでもなく大きな事を成し遂げる人間になるかもしれんな」
「え……？」
「こう見えて人を見る目はあるつもりだ。ああ、ここまで天気に恵まれているのもきっと君のおかげだな。ありがたやありがたや」
「そんなわけないですよ。からかわないでください」
「はっはっは！ あんまり真面目一辺倒では旅もつまらなくなるぞ。少しはヘンリー王子を見習って方がいいな。付け加えるなら船乗りたる者、港にひとりずつ想い人ができるぐらいの甲斐性がないといかん」
「それは甲斐性なのですか？」
「もちろん。ま、君ならそこまで苦労せずとも向こうの方から寄ってくるだろうが。どうだ。いい娘のひとりやふたり、いるのかね？」
少々意地の悪そうに笑うモーリエ。この生粋の海の男は、どうもアランを義理の息子か孫のように思っている節がある。とても気安い。アランが連れているモンスターたちを気にしている様子もない。それはそれでありがたいのだが、彼らの話題はいつも直接的で反応に困るのだ。
なので、いつものようにアランは正直に答えた。
「いませんよ。そのつもりもありません」
「もったいない。いったいどうして」
「僕の旅を、その人に押し付けるようになっては嫌だからです」
――亡き父から託された遠大な目的。それを達成するためにはこの先、いったいどれほどの困難を乗り越えなければならないのか、まったく想像もできない。決して楽な旅路ではないだろう。辛い旅路を歩くか、あるいは長い時間を待ち続けるか――自らの伴侶となる人にはそのどちらかの道を否応なく選択させることになる。それならばいっそ、相手などいない方がよいとアランは考えていた。
と。
「まったく、君は強いが馬鹿だな」
「ば、馬鹿？」
モーリエにばっさり切って捨てられアランは目を丸くした。そうとも、と船長はうなずく。
「本当に好き合った男女ならば、互いの事情などすべてひっくるめた上で一緒になるに決まっているだろうよ。理屈じゃないのさ。『大変だなあ』って思わず口を揃えちまうほど近くに居るのが夫婦ってもんだ」
力説するモーリエ。そういえば彼の奥方もこの船に乗組員の一人として乗船しているということをアランは思い出した。
モーリエは片目を閉じた。
「いつかきっと、そういう道を歩ける娘と出逢える。その機会をきちんと、がっしり掴むのが男の甲斐性って奴だ。わかったかい、アラン君？」