どうやら深く寝入っていたらしい。
アランが気がついたときにはすでに空は白み始め、周囲には探索から戻ってきた仲間たちが思い思いに体を休めていた。
「ぐ……」
とチロルが小さく鳴く。アランは微笑んで彼女の毛並みを撫で、静かに立ち上がった。身支度をするため裏手にある井戸まで出る。音を立てずチロルもついてきた。
冷たい井戸水で軽く体を拭き、柔軟をする。奴隷時代からの癖のようなものだ。チロルはひとつ大きな欠伸をして、髭をぴくぴくと動かした。
「もしかしてチロルは朝に弱かったりする?」
「ぐぉん」
前脚で顔を拭くチロル。そんなことはないと言いたげだった。
やがて身支度を終えたアランはチロルを連れ、宿のホールに差し掛かる。すると何やら不穏な空気が肌を刺した。殺気、とは少し違う。だが押しつぶすような威圧感だ。
例えるなら、料理を出すのが遅れに遅れて待ちぼうけを食らわされた荒くれ者たちの輪の中に「今日は売り切れでして。他のものを頼んでくれませんか?」と告げに行かねばならない給仕の心境とでも言うのか。
とにかく、居心地が悪い。
「ぶつぶつぶつぶつぶつ……」
ホールの椅子に腰掛けた婦人が延々と呪詛の言葉を呟いている。その後ろで使用人と思しき男が受付人に向かって小声で話しかけていた。
「あの……オラは……えと……奥様の……部屋は……どっちが……えと……ごにょごにょ」
受付人は困惑の笑みで使用人の声を聞いている。おそらく宿を取るための手続きをしているのだろうが、いかんせん滑舌が悪く話も要領を得ない。
「あー、もう! どうしてこうなるのかしらッ!」
ついに婦人が癇癪を起こした。それからは怒濤のような言葉の羅列が始まる。主に使用人を詰る文句だったが、中には宿の主人を貶す内容も含まれていた。
アランはチロルを促し、目立たないように隅を通りながら部屋へと向かう。こんな朝方に宿を取らなければならないとは、きっと前夜は野宿だったのだろうなと少々気の毒に思いながら歩いていたとき、
「ルドマンの使用人を見習いなさい! あの世間知らずのフローラでさえしっかりと宿を取れていたのは使用人のせいに違いないわ! あなた、そのことが分かって!?」
振り返る。懐かしい名前を聞いた気がしたのだ。だが興奮しきった婦人に話を聞くこともできず、アランは後ろ髪を引かれる思いでホールを後にする。
自室の扉を開ける間際、彼はもう一度振り返った。
「フローラ、ここに来てたんだ。そうだよね。デボラがポートセルミにいたくらいだから、彼女だって」
天井を見る。
「サラボナに行けば、もう一度彼女たちに逢えるだろうか」
つぶやき、すぐにアランは苦笑した。もう十年も前の話だ。こちらが覚えていても、向こうは忘れているに違いない。
「十年……か」
幼馴染のお下げの少女と別れたのもその頃だ。アルカパの宿屋で話した女将とのやり取りを思い出す。
『あの、ダンカンさんたちがどちらに行かれたかは』
『さあ。行き先までは……。ただ、ひどく遠いところにあるというお話だけは伺いましたよ』
この広い世界のどこに今、ビアンカがいるのか知る術はない。
ただ、自分がかつてフローラ、デボラと再会を果たしたように、相棒チロルとパパスの忘れ形見に再び出逢うことができたように、こうして世界をさすらっていれば、いずれ彼女とも再会できるはずだとアランは考えていた。
それは不思議なほど確信に満ちた予感であった。
どうして今そんなことが頭に浮かぶのだろう――若干の戸惑いを感じつつ、アランは自室の扉を開けた。
日が昇り、皆がすっかり目を覚ました後。アランはマーリンからある報告を受けていた。
「呪文の研究をしている男の所在がわかったそうですぞ! アラン殿、さっそく向かいましょう。善は急げですじゃ! ほらほら!」
老体に似合わぬはしゃいだ仕草でマーリンはアランの袖を引く。仲間を引き連れ、マーリンとクックルの案内のもと、アランはルラフェンの街へと繰り出した。右へ折れ、左へ折れ、塀をぐるりと一周し、かと思えばその下を潜り。とにかく複雑な道順を辿ってアランたちは一軒の民家の前にやってきた。
「なんか変なニオイ」
スラリンとメタリンが顔をしかめている。アランの鼻にも何やら薬草を煮立てたような異臭が感じられた。見れば民家の煙突からはもうもうと黒煙が上がっている。
アランは民家の扉を叩いた。だが返事がない。何度か呼びかけるアランの背をマーリンが押した。
「アラン殿、そんな悠長なことをせんでも入ってしまえばよいではないですか」
「マーリン、貴方という人は」
呆れるピエールの声を背にアランは苦笑した。取っ手を回し、開ける。
と、一歩足を踏み入れたところで見事に彼は固まった。
「おお……」
驚きの声も飲み込むような巨大な壺が、アランたちの眼前に鎮座していた。