この日の風は、いつもより少し冷たく感じた。
「……行ってきます」
振り返り、アランはつぶやく。視線の先には月と星々の光に照らされ、アルカパの街が静かに眠っている。
「アラン、もっと元気に行きましょう。私たち、猫ちゃんをたすけに行くんだから。だいじょぶ、私たちにはできるよ」
「うん。そうだね。行こう、ビアンカ」
背筋を伸ばし、アランとビアンカは肩を並べて歩き始めた。
草原を横切り。
森を抜け。
高い山々を横手に見ながらひたすら歩く。
そしてついに、高台に立つ古城が見えてきた。
――最初に異変に気付いたのはビアンカだった。
「ねえ……あのお城の空だけ、ものすごく暗くない……?」
アランは顔を上げた。木々の間からのぞくレヌール城、その上空には夜空よりもさらに暗い雲が厚く覆っていた。時折白い稲光(いなびかり)が雲の表面を走っている。
レヌール城の正門を前にしたときには、明かりだけでなく気温すらもさらに低下したような錯覚をアランたちは抱いた。勇気を振り絞り、ふたりは入り口の大扉の前に立つ。
さび付いてがさがさする鉄扉を、二人で力を合わせて押し開ける。
――が。
「……あかない」
「びくともしないわ。どうしましょう」
手についたさびを嫌そうに拭いながら、ビアンカが途方に暮れたように言う。アランは辺りを見回した。
「これだけ大きなお城だもの。きっとほかに入り口があるはずだよ」
「そうね。手分けして――」
言いかけ、ビアンカはふと後ろを振り返る。何もないことを確認して「ふう……」と息を吐き、恥ずかしそうに笑う。
「手分けしないで、いっしょに探しましょ?」
「うん」
正面玄関から離れた二人は、とりあえず外壁に沿って歩き始めた。城を取り囲む高い塀との間を慎重に進みながら、アランたちは城の裏手に回った。
「あ! あれ見て。階段じゃないかしら」
ビアンカが指差す先に螺旋状の階段があった。どこに続いているのかと二人して階段の先を目でたどる。どんどん首が上を向き、やがてほとんど雲を見上げるほどになったとき、ようやく階段が終わっていることに気付く。
どうやら城の最上部まで続いているようだ。
ひときわ強く風が吹く。木々が鳴った。ビアンカがぎゅっと袖を握ってきた。
「……高いね」
「あの子をたすけるためにはのぼらないとだね、ビアンカ。でも」
「でも?」
「……何だかこのお城、ヘンだよ」
瞬間、稲光が走った。空気を引き裂く音が耳を通り越してお腹の辺りまで響く。
ビアンカが震える声を出した。
「アラン〜、何てこと言うのよぉ。もうバカッ」
「ご、ごめん。だけど、いかなきゃ。ほら、ビアンカ」
ビアンカの手を引き、アランは階段を上り始めた。一本の太く大きな柱に石板を突き刺したような螺旋階段で、眼下の光景を足元から見ることができた。上がれば上がるほど風は強まり、一段上ろうと上げた足が風に取られそうになる。何かにしがみつこうにも、手すりは今にも朽ち果てそうでとてもよりかかることなどできない。
空は絶え間なく鳴動している。ごおぉん、ごごぉん、と雲の中で雷が鳴っていた。
時間をかけて、ようやく二人は最上部に辿り着く。
まるでアランたちを招くように、ぽっかりと入り口が開いていた。その先は真っ暗だ。
二人は意を決し、武器を構えた。慎重に入り口から中に入る。
ふっ……と周囲が暗くなる。
足裏が固い石畳から、柔らかい何か――絨毯を踏んだ。
直後、背後で金属の擦れる大きな音が響いた。入り口の鉄格子がひとりでに降りたのだ。
ただでさえ暗い視界がさらに漆黒に染まった。
「……!」
アランは産毛が逆立つ気配を感じた。前から、後ろから、横から――周囲すべてから、得体の知れない気配が迫ってくる。
繋いでいたビアンカの手が、すぅっ、と遠のいた。
「きゃああああああぁぁっ!」
「ビアンカッ!?」
耳をつんざく悲鳴。まぎれもなくビアンカの声は、しかしすぐに立ち消えた。
部屋が急に明るくなる。壁にしつらえられた松明がひとりでに火を放ったのだ。
アランは立ち尽くす。
棺がずらりと並んでいた。そのすべてのふたが開いている。
――ビアンカの姿はどこにもなかった。