オーナーの元を辞去してすぐ、怜はお嬢の馬房に足を向けた。
日はすでに傾いて、空には星が瞬いている。人の気配に気付いて、馬が嘶く。
何頭目か馬の前を通り過ぎ、正式な名前が登録されていない、母の名の後に生まれた年が記されている札の前に立った。
柵の向こう側で、藁がかさこそと音を立てる。小さくお嬢は鼻を鳴らした。
彼女には噛み付き癖がある。後ろ足で人を蹴飛ばす仕種もする。
人見知りもする。
気性の激しさは諸刃の剣だ。
彼女はまだ幼い。
彼女の父方か母方かのずっと遠い祖先同士の血が、激しさと炎の闘争心をもたらした。
彼女がこのまま成長し、おとなになり、様々な訓練に耐え、細かくなっていく篩いに残れれば、何代前かの父祖たちが、彼女を助け、導くはず。
いつまでも札の前から動かない怜に、お嬢は柵から頭をひょいともたげて彼を見つめた。
私はあんたなんかお呼びじゃないわ。
彼女はそう語っているようだった。
二重の瞼の奥に濡れて輝く漆黒の瞳は、優しくも厳しくもある。
生を受けて半年と経たない当歳馬なのに、半端な人間では彼女の迫力に気圧されてしまう。
唯一、厩務員以外でお嬢が慣れた最初の人間が怜だった。
怜は彼女の鼻面を撫でた。
彼女に触れている手に覚えがあったか、最初、うるさそうに首を振ったお嬢は、匂いを嗅いだ。
怜はジャケットのポケットから角砂糖を一粒探り出してお嬢に差し出した。お嬢は目を細めて彼の手ごと砂糖にむしゃぶりつき、なくなった後も名残惜しそうに怜の掌を嘗め続ける。
舌の感触の暖かさは生の温もりだった。
怜はそっとお嬢の首に腕を回した。
私の馬だ。
怜は思った。
全てのサラブレッドには可能性がある。
しかし全ての馬が頂点を極められるわけではない。
海のものとも山のものともわからない原石たち、しかし怜の中ではお嬢を腕に抱いた時、可能性が確信に変わった。
お前は、私のものだ。
他の誰のものでもない。
お前は必ず他馬を圧倒する存在になる。
私がそうさせてみせる。
怜の人生の流れはこの日を境に変わった。
彼は夢の現実へ向けての一歩を歩み出したのだった。