春まだ浅い北の地で束の間の夏は過ぎ、駆け足で秋が近付いて来る。
秋は子別れの時期だ。
今年の春に生まれたばかりの当歳馬は半年と母の側にいられない。母と子は離れ離れになる。
子馬たちはサークルの中に一塊にされ、途方に暮れる。
母たちは子を探して啼く。
子も母を求めて啼く。
啼いて探して求めて、次第に母も子もお互いのことを忘れ、自らに課せられた運命を受け入れていく。
母はまるで子供などいなかったようにいつもの生活に戻る。
子も仲間と身を寄せ合い、グループを作り、群れ、遊びの中で次第に順列が出来て上下関係が形成される。
上に立つ者。従う者。輪に入れずひとり置かれる者。拙い中にも彼らなりの社会が出来上がる。
怜が、オーナーから何度目かの呼び出しを受けたのは、ちょうど子別れが完了した頃だった。
再三再四、怜が身を寄せている牧場のオーナーより、下働きではなくもっと上、実務的な仕事を手伝ってほしいとの申出を受けていた。その都度断りを入れていたので、今回もその話の蒸し返しかと、客間に入った彼を待っていたものは違っていた。
「馬を持つ気はないかね」
開口一番にオーナーは切り出した。
「馬ですか」
「そう、馬だよ」
「私が」
「君がだ」
「いずれはこちらほどとは言わないまでも、自分で牧場を持ち、馬主も兼ねたい希望はあります。でも、今すぐにはとても……。
私には経験がない。知識もない。牧場を持とうにも土地がない。買う資金も満足とは行きません。第一、馬主になろうにも、今の私は無職に近い。審査は難しくて競馬会は私を通しはしないでしょう」
怜は苦笑混じりに言った。
「いつまでも下働きばかりしているわけにもいくまい」
反論しようとする怜を片手で制して、オーナーは静かに言った。
「私は、今年の当歳馬は、自分名義で持つのはやめたのだよ」
オーナーは、自分の息子と同じ歳である目の前の青年に語り掛けた。
自分は三人、身近な者を亡くした。
ここを継ぐはずだった息子と嫁、日の目を見ることのなかった孫を。
子馬が誕生した時期に世を去った三人の為に、喪に服していたいのだ、と。
すでに人手に渡る約束になっている馬はいい。買い手のない子も直に受け入れ先が決まるだろう。
「一頭、どうしても手放したくない子がいる。その子を、君に貰って欲しいのだ」
提示された子馬の名を間いて、怜は驚愕した。
いつも彼の側に来ては砂糖をねだっていた子馬だ。
母系父系共に申し分のない血統で、目の覚めるような栗毛を持つ牝馬だった。
その年生まれた子の中でも特にオーナーに目を掛けられていた、正式な名前のない彼女は、皆から『お嬢』と呼ばれていた。
繁殖に入ったばかりの肌馬から産まれた子は一般に優秀で、彼女も例に洩れず、すでに腹の中にあった時からかなりの引き合いがあったという。
牝馬の前にあっても臆することなく、当歳馬の中では早々とリーダーになっていた。喧嘩をけしかけられても負けない気の強さと、伸びやかな骨格、柔らかい筋肉。素人に近い怜の目から見ても、将来有望で、中央競馬に出るのはもちろんのこと、かなりグレードの高いレースでも耐えられるのではないか、賞取りを目論んで配合されたと一目で分かるその馬名を前に、怜はあわてて首を横に振った。
「私には過ぎる馬です。彼女なら、億単位の金を積んでも欲しがる人がいくらでもいるはず。はい、そうですか、で頂けるものではありません。私には用立てできる資金も、彼女を受入れる牧場も、厩舎もない。お受けできません」
怜は机に額をこすりつけるように頭を下げた。
「金で売り払えるものならとうの昔にしている。自分で決めたことだから、翻す気は毛頭ない。しかし」
机を挟んだ向かい側で頭を低くしている怜に見えるよう、血統を記した紙を差し出し、オーナーは一点を示した。
「何故、私が彼女を他の人に渡したくなかったか、君なら分かってもらえると思う」
オーナーが語る終わりの方の言葉は怜の耳に届いていなかった。
指し示された一点、そこには彼女が産まれた日が記されている。
彼女の誕生した日は、友人親子の命日だった。
三人の命を奪った日に産まれた将来を約束された牝馬。
死と誕生。
怜の脳裏に、『お嬢』の姿が映る。
まだ怜の身長には届かないその頭をもたげて彼にじゃれつく彼女。
染みひとつない栗毛を弾ませて走る姿の清々しさが迫って来た。
彼女は、三人の命を吸い取って天から遣わされた生き物なのではないか。
他の誰でもない、怜の為に。
人生には努力よりも運に左右される部分が多い。
より多くの物語と、運、不運を集めた馬ほどさらに輝き、強くなれる筈。
垂れた頭を更に深く下げ、怜は肩を震わせた。
これは避けられないこと、必然ではないか、と彼は自分に問う。
「引き受けてくれるだろうか」
遠くで声がする。
怜は言葉では応えず、頷いて了解の意を示した。