小説『鈍色の荒野 【完結】』
作者:初姫華子(つぼはなのお知らせブログ)

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 葉っぱを散らすようにして渡された牧場は、息子夫婦へ身代を譲り渡した老人の家族経営で、オーナーとは旧知の間柄とのことだった。

 小さいながらも一通りの設備が整っている。

 オーナーなりの気遣いなのは明白だった。

 持ち主だった老人ではこの規模でも治めていくのが難しく、息子夫婦がいるにしても人手が足りない。家族が食うには困らないが、人を雇えるゆとりがない。

 しかし、小粒ながら子出しのいい肌馬を何頭か抱えている。土地も手を入れれば幾らでもいい牧草を用意できた。ポテンシャルはなかなかのものだった。

 彼にとって何といっても有り難かったのは、牧場の人達が、怜を偏見の目で見ない、口は悪いが率直で温かい人達だったことだ。

 あそこのオーナーが勧める人に悪い人はいない、私たちは馬と一緒にいられれば、よそに行かずにすむのならこんなに嬉しいことはないのだから、と、怜を受け入れてくれたのも助かった。

 レイグラスのことはあまねく知渡っており、生産者は元の牧場でも、帰って来る先はうちの牧場だ、と素直に喜んだ。

 馬主の「ば」、牧場の「ぼ」の字もわからない彼にとって、この上もない師になる彼等の温情ほど有り難いことはない。

「とかく、新しいことを始めるには困難が付物と言う奴で。しかも、あんたは余所から入ってらした新参者、大きな顔をしてもらっちゃ、古くからいる人間が面白くないのは当たり前、それも自分たちより見てくれの良い男が。もっと面白くないですな」

 老人は枯れた声で笑った。

「でも、大成するのはよそから来た畑違いの者が多いものですよ、古くからいる儂らみたいな輩は、頭が固い。きのうと同じことを今日も明日もしちまうんですよ。でも、あんたは違う。儂らでは恐ろしくて出来ない冒険も出来ちまう。新しい風は、外から吹くように出来ているんですかな」


 厩舎から馬たちを放牧に出して手をふと休めた時や、夜、彼用にあてがわれた宿舎で書き物をしている時、ふっと不安になる。

 毎日が馬たちの世話に費やされる日々。

 ひとつの夢が叶う度に次の夢が膨らむ。

 膨らんで、幸せな筈なのに、孤独でたまらなくなる。

 自分は独りなのだ、と。

 孤独を好んだ自分が。

 心境の変化が聞いて呆れる。

 この道を歩む時、彼はひとりで未知の世界に飛び込んだ。確たるもののない世界。明日はどうなるかわかったものではない。いくらひとりで成功を確信していたって本当は怪しいものだ。

 もし、思うような結果にならなかったらどうするのだ。

 レイグラスが血統倒れの走れない駄馬になることだってありうる。

 牧場だっていつ人手に渡るか知れない。

 そうしたら、どうする?

 自分が信じられない。

 私は重大な過ちを犯しているのではなかろうか、と。

 今の彼は自分だけではなく、複数の人生に関わっている。

 素人の彼の好きに任せてくれる牧場の人たちや、勝手に会社を担保にした怜の後事を二つ返事で引き受けた人達。

 ひとりでは事を成し遂げられない。多くの人の手が必要だ。

 自分は変わらなくてはいけない。

 緊張の日々だけが続く。


 どんなに強い意志を持っていても、時には糸も緩む。

 地の底から湧いて出てくるような不信感を胸に抱いて身を横たえる時、不安を具現化するように彼の前を通り過ぎた女達が現れる。

 一様に彼女たちには顔がない。うっすらと汗を浮かべた滑らかな肌の持ち主だったり、髪の美しい娘だったり。ふくよかな肢体、細い腰、胸に抱き留めた女の感触が蘇る。

 身元に引き寄せ、俯いた顔を上げさせると、のっぺらぼうの顔には目鼻がついている。一見するときつい、地味な印象のある女。あっと見る間にその顔は、若いままに世を去ったかつての恋人、友人の妻となった女になる。

 怜の元を去った頃のままの姿で、彼女はするりと怜の腕から零れ落ちる。

 腕を伸ばそうにも重くて上がらない。

 長い髪をくゆらせて彼女は怜から離れて行く。

 声を出そうとした瞬間、恋人の幻影は笑い声と共に去り、笑い声は馬の噺きに変わった。

 彼の弱きを蹴散らすように現れるレイグラス。

 蹄を鳴らし、栗毛の馬体が彼の前に立ちはだかっている。

 二重の賢しそうな瞳は、真っ直ぐ怜を見据えていた。


 あんたなんかおよびじゃないわ。



 貰い受けた日、彼に向けた瞳でレイグラスが怜の夢想を中断した。



 あたしは誰の力も借りないで一人で立っているのよ、弱い男なんて目じゃないわ。



 口があったら言い兼ねないそんな風情でお嬢が怜の前に立ちはだかった。

 あ、と声を出して怜は目を覚ました。

 朝と呼ぶにはまだ早い時間、室内は暗く、寝台から身を起こして額を押さえる。

 汗で湿った夜着ごと冷えた身体に身を震わせ、肩を抱いて、煙草に火をつけた。

 一口だけ燻らせ、紫煙が暗い室内に流れるに任せる。

 かつて自分は、細く、形が良く、手入れの行き届いた育ちのよい男の手を持っていた。

 無骨な太い指をした親友とは真逆だった。

 その友人は、命のやりとりをする家業を、手を汚す仕事を厭い、数字を扱う業界を選び、顔が見えない相手を顧客相手に金のやりとりをして殺された。妻子とともに。
 生活感が希薄で綺麗な世界で生きるに相応しいといわれた自分が、今は土にまみれ、素手で汚物に触り、生体の世話をし、血にまみれ、死体を葬り、潰す馬を処分場へ送っている。

 生の息吹を間近に感じる、今の方が何倍も生きている気がする。

 友人に面と向かって訊いたことはなかったが、おそらく、彼は自分の父親のように生産馬の生殺与奪に関わりたくなかった。成功する馬はほんの一握り、淘汰される生き物が大半の世界に身を置くのが耐えられなかった。


 誰かが生きれば誰かが死ぬ、世の中は均整がとれた天秤のようなもの。目先の生き死にに気をとられた友人はそれに気づけなかった。

 結局、対象が生物であろうと被生物であろうと同じなのだ。

 路傍に咲く小さな花を美しいと思う怜は、下級生の彼女に同じ薫りを感じた。友人を見上げる瞳の素朴さが愛しかった。

 同じ目で自分を見て欲しかった。

 もし、自分がありのままの姿をてらいもなく晒せたら、あるいは彼女を慈しめたら、永遠に失うことはなかったかもしれない。

 雑草を蹴散らすように摘み、奪ったのは自分だ。

 過去は巻き戻せない、けれど、もしかしたら、友人も彼女も喪うことのない未来があったかもしれない。

 後悔だけが残った。

 自分が、東京から逃げた理由、彼女の死が堪えた理由でもあった。


 堂々巡りの自己憐憫を割るように、鮮烈な光が怜を射る。

 曇天の雲間から射す、鈍色の荒野を照らす一筋の陽の光。



 レイグラス。



 私にはお前が相応しい。
 激しい気性を内包する、乾いた、無垢な、冷徹な瞳のお嬢。




 お前を生かせるのは私だけだ。

 泣きごとは後回しだ、耽る過去もいらない。

 私にはお嬢がいる。彼女を檜舞台に立たせられるのは自分しかいないと確信したのではなかったか。




 走れ、誰よりも強く誰よりも速く、誰よりも遠くへ。
 走れ、走れ、走れ!

 たなびく紫煙は夢の中のお嬢と重なり、ふっと掻き消え、あやふやになっていく。

 こぼれ落ちそうな煙草の灰を、灰皿に押し込み、怜は再び寝台に横になった。

 華奢だった自分の手は、今はいくらあらってもこびりついた泥が落ちない、労働者の手になっていた。それも悪くないと思った。

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