小説『鈍色の荒野 【完結】』
作者:初姫華子(つぼはなのお知らせブログ)

しおりをはさむ/はずす ここまでで読み終える << 前のページへ 次のページへ >>

 怜は何年ぶりかで東京の土を踏む。

 北海道での新馬戦の時以外、彼は直接競馬場へ出向くことはせず、北海道の牧場で夫妻と老人の四人でTV観戦をして済ませていた。

 友人の死後、ついぞ足を向けたことのない土地に足を下ろして、怜は空を仰いだ。

 予報は見事に外れて絶好のダービー日和。そざかしターフの緑が映えることだろう。

 人数を制限しているにもかかわらず、パドックには早くから黒山の人だかりが出来ている。

 本日の主役、二十頭からなる出走馬の入場を今や遅しと待ち侘びている。

 馬主用のパドック席に入ると、一斉に視線が集まって、いつもより多い関係者たちの好奇の視線に晒されても、怜は顔色一つ変えず一点を見据えていた。

 電光掲示板のすぐ後に、トキノミノル像がある。ダービー優勝後、あっけなく世を去った彼は今は銅像となってそこにいる。顔はしっかり西、三冠を果たせなかった菊花賞が行われる京都に向かって。

 人込みに紛れて怜の位置からはどうあっても見えないのに、鈍色の、小さな銅像がそこにあるような気がして、彼は目を閉じた。

 するべきことは全てした。後は神様の気分次第です。

 調教師の断固とした言葉を聞き、怜は思う。

 トキノミノルは死んで伝説になった。

 今日、新しく伝説が生まれる。

 数々の冷笑に迎えられたレイグラスのオッズは二十頭中二十番、つまり最下位。皆はハナから牝馬が勝てると思ってはいない。

 それは彼を見る馬主たちの視線からも伝わる。


 それも今のうちだけだ、怜は思う。

 見るがいい。

 居並ぶ巨星たちの中にあって燦然と輝く、彼女の姿に、皆、驚くことだろう。

 牝馬にひけをとらない、汗にまぶされた馬体は全身たてがみと同じ栗色で、初夏の陽射しを受けて更に明るく、ターフの緑に映えるに違いない。彼女は衆人の注目を集め、男馬を蹴散らし、六枠赤の帽子がゴール板前を駆け抜ける。

 きっと。

 自らの予想とやらを恥じるがいい。

 彼女の姿を一目見れば分かるはずだ。

 強い馬は、牝牝かかわらず走るのだ、と。

 もうすぐ、馬たちが入場する。

 あと少しだ。

 色痩せた鈍色の伝説に色がつき、走り出すのは。

 怜は視線を電光掲示板に移した。

 かすかなざわめきと共に一頭また一頭と馬が引き綱に引かれてパドックに入る。

 数を二十まで数えて、パドックは見ずに怜は単勝のオッズの移り変わりを眺める。

 一瞬、デジタルは動きを止めた。

 馬は周回している。

 各種オッズが一斉に動き出した。


 怜は三枠6番に集中する。

 視界の下の方に、尻尾に赤いリボンを結わえた彼女が入って消える。

 怜の口元に、ここ数年浮かんだことのない笑みが仄めく。

 6番のオッズはぱらぱらと下がり始めた。

-14-
Copyright ©初姫華子 All Rights Reserved 
<< 前のページへ 次のページへ >> ここまでで読み終える