小説『鈍色の荒野 【完結】』
作者:初姫華子(つぼはなのお知らせブログ)

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 彼には漠然とした夢があった。

 彼の父は、実業家として粛々と事業を営んでいたが、彼と妹にいくばくかの資産と、事業で培った人脈と、彼の父に忠実だった人材を残して病没した。

 彼がまだ大学に入るか入らないかの頃だった。

 余りにも急で、急すぎたので、これといった下準備もなく父の跡を継がなければならなくなった彼に、父の椅子に座る気は無かった。

 幸い、忠実な部下は、主亡き後もよほど主人を愛していたのであろう。二代目の不甲斐無さを年齢故と快く受け止め、彼がいずれ社長として君臨するまでの間、事業を守っていくと約束した。交換条件として、怜は名目だけの跡取りとして収益を幾らか懐に入れるかわりに、経営陣が下した方針には口出しはせず、微妙な関係は彼が就職してから後も続いた。

 継承問題で揺れる中、妹が帰国し、公私共々忙しく、自分の立ち位置を忘れそうになる日々の中でも、漠然とした夢だけは仄めいていた。

 社長業を負うのを躊躇わせる夢だった。

 彼には、幼少時より学生時代から社会人になるまでを過ごしてきた親友が何人かいた。

 その中のひとりが、競争馬のオーナーズ・ブリーダーとして業界では一目置かれる人物を父に持っていた。

 保護者に富裕層を多く抱える同級生の身内にも馬主の者は普通にいたので、一般人が考える、娯楽性の高い『競馬』とは違った印象を持っていた。投機目的とステイタスと道楽と、使い古された言葉で言うなら夢。夢を形にしたものを買うのだという考えを親たちが待っていたのかはともかく。普通の子供よりは多くのものを見る機会に恵まれていた怜の目にも、サラブレッドの姿はとりわけ美しいものに映った。

 芝が敷き詰められ、緑の絵の具一色で描き上げたようなターフの上を馬が走る。鞍上の騎手が纏う勝負服の華やかな色彩と相舞って、彼の心の中に焼き付いた映像は、心の奥底にぱらぱらと、小さな、マツバボタンの種のような粒だったけれども根付く種子となって植え付けられた。

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