小説『鈍色の荒野 【完結】』
作者:初姫華子(つぼはなのお知らせブログ)

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 時を経て、自分が見たサラブレッドという種類の馬は、競馬というギャンブルの中で走り、一片の紙切れを屑同然にも何万何十万もの金にも変える生き物で、自らの意思ではなく走らされているのだと知った。

 人間がそうさせているのだと。

 三つの祖先から生まれたサラブレッドは、人の介入なくして今の姿はなかったのだと。

 速く、少しでも速く、少しでも長く走れ、体躯は見るからに素晴らしい、優れた生き物を作ろうとした人間の純粋な気持ちもあったことだろう。否定はできない。

 でも、算盤ずくの欲が多く絡んでいる。

 美しさは脆さにつながる。

 人に養われた動物は自力で生きていくことはできない。その最たるものがサラブレッドではなかろうか。

 儚さが彼の心を捉えた。

 一頭でも多く、儚い夢を手にしてみたい、オーナーになりたいという気持ちが芽生える。

 大学を卒業後、一般商社に就職して社会人になった彼は、忙しさの中に身を置いた時、ふっと逃げるように夢想に耽った。

 亡き父の事業を、ゆくゆくは継ぐための修行の一環で就職した自分。仕事は順調、人間関係もこなせている。順調に敷かれた道を歩く自分。

 が、人生はこのレールで本当いいのか、と自問を繰り返す。

 目まぐるしく過ぎる日々の中、すっと入っていける心の逃げ場所が、北の大地で馬と共に生きる自分の姿だった。

 夢を持つのは良いことだ、と言う。

 何故なら、達成された時に夢は膨らんで次の夢を育むから。

 しかし、繋がるにしても無埋がありすぎるだろう?

 怜はすぐに妄想を片隅に追いやり、日常へと戻っていく。

 今の居場所で学ぶことは多くあり、知り合う人も類を呼ぶ人種。商社勤務の経験は後々の自分にプラスになるだろう。

 次のステップヘの足がかりとして。

 と思ってはいても、やはり、本心からの言葉ではないのだろう? と問い掛ける自分もいる。

 日本有数の生産牧場のオーナーである父を持つ友人が、時折妬ましくなる。怜の夢に理解を示す友人とは、自分と彼の立場が逆だったら良かった、とよく談笑した。

 友人は軽い話の種のひとつぐらいにしか捉えてはいなかっただろう。けれど怜は違っていた。半分以上は嘘ではなかった。

 友人は父の跡目を継ぐ気はさらさらなく、さっさと別の職に就いた。

 手の内に持つものがある者ほど、惜しげもなく捨ててしまえる。選択できる身にあった友人が、どれほど羨ましく思えたか。

 自社の行く末に責任を負う未来が定められている怜には、彼の身軽さが信じられなかった。

 友人が捨てたものを、怜は望んでいたから。世の中はままならない。

 おそらく友人は、怜の表にできない嫉妬心など思う術もなかっただろう。

 本心を伝えたことはなかったから。

 二十代は人の往来が激しい。

 様々な人が怜の前を通り過ぎ、霞め、しばらく留まっては去っていった。

 怜も同じように去ったり歩み寄ったりした。

 男、女、子供に大人。遊びの戯れも中にはあった。

 恋もいくつか。

 ひとつぐらい、胸に痛みを覚えるものがあってもご愛嬌だろう、たかが恋、女のことにかかずらわっているのはバカバカしい。

 怜は努めてそう考えた。愛嬌ではすまない痛手を被ったものも中にはあったのに、彼はそう認めたくなかった。

 ひとり、忘れられない女がいた。

 彼女は彼に、初めての情事の夜に部屋へ落としていったイヤリングの片割れをそのままにして、彼の手の届かないところへ行った。

 彼女の存在は、彼の中に少なからぬ疵をこしらえた。

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